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GO!!~氷上の剛腕番長~  作者: 渋谷直樹
第2巻:道化の終わり
16/33

第16エンド 妻と夫、父親

『青森に引っ越す?』


 名残惜しそうに漂っていた夏の暑さも鳴りを潜め、穏やかな秋の空気がそろそろと、顔を出していた。


 外壁の塗装の剥がれや、それなりの年月を風雨に晒されたくすみに、雨跡のシミのついたアパート。


 二子玉川の2LDK。


 室内の壁にはシールの跡や、必死で消したマジックやらクレヨンやらの掠れた痕跡。

 リビングの柱には、千春の身長を測った鉛筆の線が、階段のように並んでいる。


 和やかな、家族の平穏。


 希望と未来と、苦労の象徴。


 桐原家の、団欒の居間で。


 角の丸くなったテーブルを挟んで向かい合った彩夏は。


 驚きと戸惑いと、少しの、あぁやっぱり。 という納得。

 そんな顔をしていた。


 手にしていた湯呑みを、そっとテーブルに置く。

 かちんと、小さな音が部屋に響いた。


 そりゃあそうだ、いきなり青森に引っ越すだなんて言われたら、当たり前だろう。


 それでも、なお、言わなければならなかった。


 夕食もとうに終わり、千春も寝入った、夫婦2人の時間。


 いつもなら、千春が保育園で何があったとか、学費やら、申請やらの話をする時間。 今日も最初はそうだった。

 千春が描いた家族の絵を見ながら、来年の小学校の話をしていた。


 いつも通りの、穏やかな、どこの家庭にでもある、ありふれた夫婦の時間。


 それを壊す。


 そんな、築き上げてきた全てを一切合切、壊してしまうような、そんな言葉を俺は言ったのだ。


 これまでずっと、現役時代の金も名誉も何も無かった時から、ずっと支えてきてくれた。 試合の度に祈るような気持ちで見守り、怪我をすれば看病し、負ければ何も言わずにそばにいてくれた。


 千春が産まれてからは母として、中々家に帰れない俺の分も支えてくれた。

 深夜の授乳も、初めての発熱も、保育園の送り迎えも。


 全部、彩夏がやってくれた。


 そんな、妻に対して。


 次の言葉が重い。


 覚悟を決めていた口にしたものの、これほどに重いものだとは。

 分かっていたが、理解していたつもりだったが、それでもなお、重い。


 これは、俺のエゴだ。

 もう一度、もう一度、あの熱を感じたい。

 あの、灼熱の時間を過ごしたい。

 リングの上で、全てを賭けて戦うあの瞬間を。


 その為に、家族を振り回す。


 それがどれだけ身勝手なことか。


 わかってる。


 十分わかってる。


 青森での日々が、俺の中の何かを呼び覚ました。

 氷の上で、仲間と共に戦う。

 負けて悔しがり、勝って喜ぶ。


 ただそれだけのことが、こんなにも俺を生き返らせるなんて。

 それでも、俺は、そうせずにはいられない。


 もう一度、リングに上がらずには、いられない。


 次の言葉に迷っていると、彩夏が先に口を開いた。


『千春、あの子、保育園で友達がすごく多いの。

すぐ仲良くなっちゃう。』穏やかな声。

 でも、その奥に秘めた想いが、ひしひしと伝わってくる。


『この前、優希斗くんのお誕生日会に行ったでしょ?』

 そうだ、千春は嬉しそうに、一緒に選んだプレゼントの箱を抱えて出かけていった。


『今度は千春もやりたいって。 でもほら、あの子6月じゃない?だから来年ねって』


 ....子供にとって、世界は小さい。

 自分の身の回り、家と保育園と、お友達の家。

 それが、世界の全てだ。

 大人の都合で、その小さな世界を壊すことの残酷さを、俺は知っている。


『剛ちゃん、それでも?』

 それでも、娘の築き上げた、小さな小さな世界を壊してでも、来年の誕生日会を楽しみにしている、この子の想いを全て奪ってでも、あなたは熱を追いかけるの?


 彩夏の真っ直ぐな目が、逸らすことを許さない眼差しが、俺を貫く。


 問いかけるように、試すように、確かめるように。

 その目は、初めて出会った時と同じだった。


 まだ駆け出しだった俺に、「本気でチャンピオンになれると思ってるの?」と聞いた時と。


 静かに、ゆっくりと、頷いた。


 開け放った窓の網戸から入ってくる、秋の涼やかな風と、車の通る音だけが、部屋に流れた。

 どこかの家から、子供の笑い声が微かに聞こえてくる。


 平和な、日常の音。


 これも、手放すのか。





 はぁっと、彩夏がため息をついた。


『たぶん、いつかそう言うだろうと思った』その声には諦めと納得と、どこか少し懐かしさのようなものが混じっていた。


『最近、剛ちゃんの目が変わってきてたから』

 そうか、気づいていたのか。


 隠していたつもりだったが、やはり見抜かれていた。


『青森から帰ってくる度に、少しずつ、昔の目に戻ってた』

9年間、ずっと待っていた。


『でも、東京にいると、また死んでいく。

 その繰り返しを見てるのが、辛かった』

何度も、何度も。


 そう語る、彩夏の目が、少し潤んでいるように見えた。


『....昔みたいな顔してる』

 惚れた弱み、この男の、気力と生命力に溢れた。

 灼熱のような熱を持ったこの顔に、惚れたのだ。


 タイトルマッチの前、「絶対勝つから」と言った時の顔。

 千春が生まれた時、「この子は俺が守る」と言った時の顔。


 そんな顔を、もう何年も見ていなかった。

 やっと見ることが出来た。


 愛した夫が


 愛した男が


 やっと、帰ってきてくれた。


 ───秋の虫が、鳴き始めた。


 新しい、季節の始まりを告げるように。


 新しい、挑戦の始まりを祝福するように。

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