第1エンド くすんだ熱
いま、どこにいるんだっけ?
視界が滲む、眩しい、甲高い耳鳴りと、テレビのホワイトノイズのような音が聴こえる。
直ぐ側から誰かが声を張っている、こいつは....セコンドだ、ジムの会長、つまりはオヤジだ。
そうだそうだ、今はリングの上だった。
聴こえてたのはホワイトノイズじゃなくて観客達の歓声だった。
うん、段々思い出してきた、今は世界戦のファイナルラウンドの前じゃないか。
そういえば、一つ前のラウンドで思いっきり顎に一発入れられてダウンしそうになったんだっけ。
そのままラッシュを受けそうだったのをゴングに救われたのを思い出した。
ははぁ、だからオヤジはこんなに焦ってんだなぁ。
おや?良く見てみると鼻毛が出てるな
しかし、人の必死な顔って間近でみると案外と面白いんだな
「剛士!! 剛士!! 聴こえるか!!」
オヤジが耳元で叫ぶ声が今度ははっきりと聞こえた。
「おう!」と短く応えマウスピースを噛み締める。
立ち上がる。
軽くステップを踏み、首を回す。
グローブを付けたままの手でリーゼントを整える。
足がふわふわと浮いているような感覚。
でも、不思議と悪くない。
体温は上がっているはずなのにスーッと冷えて研ぎ澄まされていくような感覚。
うん、悪くない。
相手が見える。
メキシコの──なんて名前だっけ?
確か、マルコ....
マルコ....なんとか。
まあいい。
大事なのは名前じゃない。あいつの目だ。
さっきのラウンドで俺を倒しかけた一発。
あれで確信したんだろう。
勝てる、と。
ベルトを守った。
そんな顔だ。
甘いな。
ゴングが鳴る。
足が勝手に前に出る。
28年間生きてきて、今が一番体が軽い。
ジャブ。マルコのガードの上。
ワン・ツー。次は腹。
オヤジからは突っ込んでばかりいないで考えろと口を酸っぱくして言われていた自分が、惚れ惚れするような教科書通りのボクシングをしている。
そして──
見えた。
時間が止まったような錯覚。マルコの右ストレートが、スローモーションみたいに迫ってくる。
首を振る。紙一重でかわす。髪の毛が風圧で揺れる。
最高だ……人生で最高の熱だ……
俺はこの熱を求めていたんだ。
そのまま体を沈めて、突き刺すように──
俺の右フックが、完璧な軌道でマルコの左側頭部を捉えた。
それと同時だった。2ラウンド前の瞼の古傷が弾け、血が鮮やかな飛沫となってリングライトに煌めく。
会場が、爆発した。
マルコがよろめく。膝が落ちる。
だが、倒れない。
マルコの視線の先には、祈るように見つめる女性の姿があった。
血が入って真っ赤になったその目は、まだまだ死んじゃいない。
自分が勝つことを微塵も疑っていない、闘う男の目だ。
.....良いねぇ、根性のある奴だ。気に入った。
目の前の怪物を前に、初めて、背筋に冷たいものが走った。
俺は拳を構え直す。そうだ、そうだよな、とことんやろうぜ。
この瞬間、この一瞬が──
白いものが、視界の端を横切った。
急制動をかけて振りかぶった拳が空を切る。
───タオル?
レフェリーが間に入る。試合終了のゴングとは違う、甲高いベルの音。
「ウィナー、アンド、ニュー──」
英語のアナウンスが響く中、俺は呆然と立ち尽くしていた。
相手の、マルコ....そう、マルコ・アレハンドロ・マルケス。
奴も何かを喪った、ベルトじゃない、もっと大事ななにかを、そんな顔をしている
体と意識が乖離していく。
勝った……
勝ったらしい……
世界チャンピオンに、なったらしい。
なんだこれ。
なんなんだ、この感覚は。
両手を挙げるポーズを取りながら、俺の中で、何かが欠けていく。
さっきまで感じていた、あの燃えるような熱が、急速に冷めていく。
不完全燃焼。
その言葉が、リーゼントで固めた頭の中で、ぐるぐると回り始めた。
―――――――――――――――
───そして、9年後。
「はい、カット! 剛士さん、もうちょっと苦しそうな顔してください!」
深夜のスタジオ。
激辛ラーメンの前で、俺は相変わらずリーゼントを崩さないまま、カメラに向かって大げさな表情を作っていた。
「鹿児島の剛腕番長も、この辛さには勝てませんわ~!」
決められた台詞を吐きながら、ふと思う。
あの日の熱は、もう二度と戻ってこないのか、と。
―――――――――――――――
収録が終わり、緩い空気が流れ始める。
腹模様は最悪だ。
こんななりをしているが、俺はあんこやクリーム、餅みたいな甘い物が大好きで、今回のような激辛やしょっぱいものは大嫌いなのだ。
スタジオのスタッフに軽く挨拶をし、歌ネタの旬を過ぎた中堅芸人や、仕事が少なくなってきたグラビアアイドルたちとともに楽屋へ戻る。
そういえば彼女も、去年まではゴールデンの番組でイジられていたのを思い出す。
自分は彼らとは違う。
そんなふうに思っていた時期もあったが、はたから見れば自分も大して変わらない。
引退して何年も経った世界王者。
引退直後はスポーツ番組や解説の仕事も来ていたが、今は深夜のバラエティ番組のリアクション担当だ。
ここ数年、そんな考えが反芻するように頭を巡り、楽屋へ向かう足取りが重くなる。
後はいつもの通り、冷めた楽屋弁当と隅に溜まった埃の待つ大部屋の楽屋で中身の無い話をして帰るだけ。
なんとも惨めじゃないか。
出演者たちに手短に挨拶を交わして楽屋を出る。
ギャラの事、これから益々必要になる学費の事、現在の状況に苛立ちつつも、それを打開する考えも浮かばないままトボトボと歩く。
ジムで若手相手にトレーナーでもやろうか、元世界王者の看板があれば多少の引きにはなるんじゃないか?
駄目だ。
最初に試してイマイチだったじゃないか、オヤジにこれ以上の迷惑はかけられない。
堂々巡りになる思考から逃げたくなって、ポケットに入れていたスマホを取り出す。
ホーム画面に設定した、妻と娘が昼寝をしている写真に、ふっと口元が緩む。
さぁ、家に帰ったら家族が待っている。
そう思っていると、パッと画面が切り替わった。
ディスプレイには[藤原D]
豪快に笑う泥棒髭の顔が頭に浮かび、何だか嫌な予感がしてくる。
この男から電話が掛かってくる時は大抵ロクな目に遭わないのだ
とはいえ、いつまでも出ないのも失礼なので通話ボタンをプッシュすると。
『やぁやぁ! 剛士くん!! 元気にしてるかい?』
思わずスマホを耳から遠ざけてしまうほど底が抜けたように明るい声。
腐れ縁のテレビ局ディレクター、藤原義久の声だ。
『この前の強力ゴムロシアンルーレット、良いリアクションだったね~』
藤原はどういうわけか自分のことを気にかけて、出演した番組もチェックしてくれている。
『ド深夜のやつですよ? あんなのも観ててくれてたんですか?』
流石に、深夜2時の番組までチェックしてくれているとは思わなかった。
気にかけられているというのは、たとえ相手が泥棒髭の中年でも、やはり嬉しいものだ。
『深夜もゴールデンも関係あるかよ! 面白いもんが偉いんだよ!』
ガハハと笑い語気も強いが、その裏には窓際部署に飛ばされて、自身も深夜枠で苦境に喘いでいる強がりも見えた。
『ところで、実は面白い企画があるんだけどね? ちょっと話せないかい?』
そういえば、スポーツ番組のオファーが減り始めた頃にバラエティに誘ってくれたのはこの男だったか。
この藤原という男は悪いやつではない、悪いやつではないのだが、この男のもってくる面白い企画とやらでいままで散々な目に遭ってきたのだ。
韓国のグルメロケだと聞いていたのに、いざ始まってみたらアフリカの少数部族の村でホームステイをするなど滅茶苦茶な事もあった。
アフリカから帰ってきた時には10kg近く痩せていた。
現役の時だってこんなに体重を落としたことはない。
現役時代の減量を知っている、あの温厚な妻ですら驚いて、こんな無茶な企画を行わせた藤原に対して文句を言っていたほどだ。
それでも、タレント桐原剛士にとっては恩人な事には間違いない。
であるならば、恩人の頼みは断れないな。
はぁっとため息をついて
『せめて国内でお願いしますよ?』
最低限の祈りだけ言うことにした。