『猫は今日も帰らない』
焼け跡の魚の骨は、今日も太陽でぱりぱりに干からびていた。
テテが前足でひっくり返すと、アシがむっとした顔で睨みつける。
「おい、テテ。骨の割れ目にまだ肉が残ってんだぞ」
テテは耳をぴくっとさせて引き下がる。
アシの言うことは大抵正しかった。
彼はこの錆びた街で十年も生きてきたらしい。
テテなんか比べものにならない。
夕暮れ時、二人は崩れかけた煉瓦塀の隙間に身を寄せた。
アシはくたびれた布切れを敷き、その上で体を丸める。
「ねえ、アシ。今日もあの音、鳴るかな」
テテが震える声で聞くと、アシは片目を開けてため息をついた。
「お前ほどの臆病猫も珍しいぜ。あの音が鳴ったって、鉄の雨はこっちに降らねえ」
その時──
「ウーウー」
低くうなる音が街を揺らした。テテの背中の毛が逆立ち、瞳が丸く開く。
アシは布に鼻をうずめ、尾でテテの目を覆った。
「ほらな、言った通りだ。音の後には必ず『暖かい風』が来る」
確かに、遠くで何かが砕ける音と共に、風がやってきた。
熱を帯びた空気が煉瓦の隙間を抜け、二人の毛を揺らす。
テテはアシのしっぽの隙間から空を見上げた。
──黒い影の群れが、まるで季節外れの渡り鳥のように飛んでいく。
「アシ、あれ……?」
「ああ、鉄でできた鳥だ。二本足の連中は、あいつらに『希望』だの『正義』だの名前をつけてるらしい」
アシはくしゃみをして言った。
「猫にゃ関係ねえや」
夜になると、街は妙に静かになった。
いや、正確には「二本足のいない音」で満たされた。
ネズミの足音。
ガラスの欠片が転がる音。
誰もいない路地で響く、子猫の呼び声。
アシはテテの耳を舐めてやった。
「いいか、テテ。世の中にはな、吐き出しても吐き出しても終わらない毛玉みたいなものがある」
「……ずっと苦しいの?」
「ああ。でもな、そのうち風が全部運んでいってくれる」
月明かりで、アシの左耳の欠けた部分が浮かび上がる。
テテは知らない。
あの傷が「ある日突然降ってきた鋭い破片」によるものだなんて。
ふと、アシが立ち上がる。
「おい、テテ。行くぞ」
「え? 今からどこに?」
「魚の骨よりましなもんを食わせてやる」
雨の匂いがゴミ捨て場に濃くなっていく──
雨は気づけば本降りになっていた。
テテはアシの姿を見失い、仕方なくゴミ捨て場の段ボールの下に潜り込んだ。
前足で留め金を転がしながら考え込む。
(家族はきっと、首輪を探してるはず…)
テテは濡れた段ボールの下で、前足の肉球を舐めていた。
ふと、影が差した。
「おい、そこのボロ猫」
振り向くと、三毛猫がこっちを見ている。
片耳は欠け、背中の毛は所々焦げ茶色に変色していた。
眼光だけは鋭く、まるで夜の路地裏そのものが猫になったみたいだった。
「腐った魚食うと、毛が抜けるぞ」
テテはぴくっと耳を立てた。
「でも……僕の家族が『残ったものは感謝しろ』って」
三毛猫はアシと名乗った。
そして猫は、片目を細めて言った。
「ふん。で、その『家族』は今どこにいる?」
テテはぐるりと周りを見回した。
「あのね、僕、ちょっとだけ外に出てたら……道がわからなくなっちゃって」
アシの喉が、ごろりと笑った。
「はっ! お前みたいなのが『飼い猫』ってわけか」
「飼い猫じゃない!家族なんだ!」
「なら、その『家族』、お前を探しに来てるか?」
テテは口を開いたまま固まった。
確かに、あれから何日たっても、誰も迎えに来なかった。
アシは乾いた笑いを残し、言った。
「よし、取引だ。俺に『二本足の言葉』を教えろ。代わりに、食えるもん教えてやる」
「言葉?」
「ああ。お前がさっき言ってた変な鳴き声だ」
テテは考え込んだ。思い出せるのは、断片的な記憶の中の「声」ばかり。
「『おかえり』……『こっちおいで』……『大丈夫?』……」
アシはそれらをまねしようとしたが、どうしても猫の鳴き声にしか聞こえない。
「ちっ、わけわかんねえな。まあいい。こっち来い」
アシはテテを連れて、錆びた鉄の箱(冷蔵庫の残骸)の隙間へ向かった。
干からびた小魚が引っかかっている。
「見ろ。こいつは『腐ってない』」
アシは前足で魚をひっくり返した。
「ほら、目が澄んでるだろ? これなら食える」
テテは恐る恐る鼻を近づけた。確かに、昨日見つけた魚とは匂いが違う。
「……どうしてわかるの?」
「生きてりゃな、自然と覚える」
アシはそう言うと、ぽんと魚をテテの方に蹴りだした。
「全部食え。お前みたいなガリガリじゃ、次の『大きな音』が来たら消えちまう」
その夜、初めてテテは「家族」以外のものから食べ物をもらった。
雨が上がり、月が錆びた街を照らす中、アシは言った。
「明日からな、俺について来い。
二本足の連中がいなくなった今、猫が生きるには知恵が要る」
テテは「おかえり」という言葉を思い出していた。
雨上がりの小道を、テテはぴょんぴょん跳ねながら進んでいた。
水たまりに映った自分の影にじゃれついては、「キャッ!」と鳴いて喜ぶ。
「おい、遅れるぞ」
アシの足取りがいつもより重い。
左前足をかばうようにして歩いている。
「アシ、見て見て! この水たまり、僕の顔がゆがんでるよ!」
「……ああ」
曲がり角を過ぎた時、テテが突然駆け出した。
「あった! ほら! あの大きな木が目印なんだ──」
ぱたりと止まった。
大きな木は確かにあった。
だが、その根元には──
焼け焦げた幹。
砕けたガラスの破片。
ぽっかり空いた地面の穴。
「あれ……? おかしいな。ここに白いお家があったのに……」
テテはくるりと回り、違う角度から見てみた。
「きっと反対側にあるんだよ! だってママが『迷ったらぐるっと回ってごらん』って──」
アシがそっと前足を伸ばし、テテの背中に触れた。
「テテ」
「うん?」
「……ここだ」
テテの目が丸くなった。
「え? でも、何もないよ? あ! もしかして透明なお家? すごい! アシには見えるの?」
アシの喉がごろりと鳴った。
笑いのような、ため息のような。
「……ああ。すごく綺麗な家だ」
テテは満足そうにしっぽを振り、焼け跡を走り回り始めた。
「やったー! 僕の家、魔法みたい! ママもパパも中にいるかな?」
アシはゆっくりと座り込むと、テテを見つめた。
「おい、テテ」
「なに?」
「ちょっと、こっち来い」
テテが近寄ると、アシはゆっくりと、毛づくろいを始めた。
「あ、ありがとう! でも僕、そんなに汚れてないよ?」
「黙ってろ」
アシの舌が、テテの背中の雨粒を一つずつ取り除いていく。
その動きが、いつもよりゆっくりで、優しかった。
「アシ、今日は優しいね」
「……バカ言え」
夕日が二人を包み、長い影を作った。
朝もやの中、アシは左前足をかばいながら歩いていた。
傷の熱がじんじんと広がる。
「アシ! ねえ、あの廃車の上に鳥がいるよ! 捕まえようよ!」
テテが駆け寄ってきたが、車の前でぴたりと止まった。
「……どうした?」
「うん……なんでもない」
アシはため息をつくと、よろよろと立ち上がった。
「おい、臆病猫」
「僕、臆病じゃないよ! ただ……高いところはちょっと……」
アシはテテの背中をじっと見つめた。震えている。
「ふん。ほら、見ろ」
アシが廃車のボンネットに飛び乗ると、ぐらりと体を揺らした。
「アシ!?」
「平気だ。おい、登ってこい」
テテは後ずさりした。
「だって、落ちたらどうしよう……」
アシの目が細くなった。
「お前、毎日『家族に会いたい』って言ってるくせに、廃車一台登れないのか?」
テテの耳がぺたんと倒れた。
「……登るよ」
ぎこちないジャンプ。
テテはボンネットに掴まり、必死に這い上がる。アシが首筋をくわえて引き上げた。
「ほらな。できただろ」
「……うん」
テテの体が小刻みに震えている。
夜、アシはテテを引き寄せると、いつもより深い呼吸で言った。
「...明日は港の方に行くぞ。魚がよく落ちてる」
「やった!...でも遠いよ?」
「だからこそだ。臆病猫を鍛えてやる」
暗闇で、アシはそっと左前足の傷を舐めた。
鉄の味が広がった──
夜明け前の冷たい空気が、アシの浅い呼吸を白く曇らせた。
左前足の傷は熱を失い、代わりに鈍い重さだけが残っている。
「……テテ」
声にならない呼びかけ。
テテはぐっすり眠っていた。アシの腕の中で、小さく温もりを放っている。
アシはゆっくりと立ち上がると、テテの毛並みを整えた。
「……港には行けねえや。すまないな」
ふと、テテの首輪の留め金が外れかかっているのに気づく。前足でそっと押し込む。
「一人でも……大丈夫だよな」
朝日が差し込む廃墟で、テテが目を覚ました。
「アシ? 朝だよ……アシ?」
辺りを見回す。
いつもならアシがすぐそばで、眠そうに伸びをしているはずだ。
「変だな……魚を探しに行ったのかな?」
テテは屋上に登ってみた。
昨日アシと一緒に立った場所だ。
「アシー! どこにいるのー?」
風だけが答える。
ふと、足元に光るものが目に入った。
アシの首輪の留め金だ。きれいに磨かれている。
「あれ? また外れちゃった」
テテはそれをくわえると、港の方へ歩き出した。
「アシったら、先に行っちゃって。でもきっと、美味しい魚を見つけて待ってるんだ!」
陽の光を浴びながら、テテはぴょんぴょんと跳ねるように歩いていく。
ふと、頬がひやっとした。
「……あれ?」
前足で触れると、水滴がついた。
「雨……? でも晴れてるのに」
ぽとん。ぽとん。
足元に広がる水たまりを見て、テテは首を傾げた。
「壊れた水道管か、空から水が……?」
その時、いつかの錆びた看板が目に入った。
「立入禁止」
──アシが「猫に指図すんな」と爪で引っ掻いた跡が残っている。
「……アシ」
突然、膝ががくんと折れた。
「なんで……?」
視界がぼやける。喉の奥から、熱い何かがこみ上げてくる。
「おかしいよ」
「ママもパパも」
「アシも」
「どうして──」
瓦礫の隙間から、赤いリボンが風に揺れている。テテはそれをぎゅっと抱きしめた。
「……わかってた」
「…ずっと、わかってた」
「わかってたよ!!!」
叫び声が廃墟に響く。
「家族も! アシも! もういないって……!」
涙が地面を叩く。
「わかってるのに……! わかってるのに、怖いんだよ!!!」
瓦礫の隙間から、赤いリボンが揺れる。テテはそれをぎゅっと握りしめた。
「帰りたい……ママの膝の上で、『えらいね』って撫でられたい……」
「アシにまた、『バカ猫』って呼ばれたい……」
声がひび割れる。
「どうして……ひとりにしちゃうの……」
夕日がテテを包み込む。長い影が、震える背中にそっと寄り添うように伸びた。
ふと、遠くで子猫の鳴き声がした。
テテは顔を上げた。
「……あ」
涙に濡れた視界の向こうに、痩せた子猫が魚の骨を転がしていた。
「……」
よろめきながら立ち上がり、テテは自分の獲物をくわえて歩き出した。
「ほら、食べな」
「……いいの?」
「うるさいな。……あんまりうまくないけど」
子猫が頬張るのを見て、テテはまた涙があふれた。
風が吹き、タンポポの綿毛が舞う。
「ウーウー」という警報のような音を、テテはもう避けなかった。
(あの音の後には──)
子猫の首筋を舐めながら、テテは震える声で呟いた。
「……寂しくないからな」
「……ぜんぜん、寂しくないから……」