船を降りた旅人
孤独な航海を続ける船乗りの前に、ある日突然現れた旅人。2人がともに過ごした短い時間と、その後に残された深い喪失感を描く、静かで切ない物語。
海は広い。
水平線はどこまで追いかけても捕まえる事ができないほど、はるか彼方だ。
確かに存在している。見えてもいる。名前もあるの。なのに捕まえることも到着することもできない。
そんな水平線を追って、私はこの広い海を独り航海をしている。
長い間連れ回した相棒であるこの船は年季が入っているが頑丈で、嵐にも負けず大海原を共に進んできた。
ある日、近くの港に寄ったところ1人の女性が声をかけてきた。
「その船に私も乗せてくれませんか?」
物腰が柔らかく、黒い髪が美しいその女ひとは微笑みながらそういう。
長いこと船乗りをやっているがこんなおんぼろ船に乗りたいなどと言ってきた者は少ない。
だが、何故か悲しげに笑う彼女を断る気にはなれなかった。
「私の船は気ままに進む。次はどこの港につくかわからないぞ。」
「構いません、この船に乗りたいのです。」
そういうと彼女はローブを翻しながら無遠慮に甲板へと降り立った。
仕方がない。私はそう自分に言い聞かせると彼女を連れて港を経った。
その日の晩、彼女と話をした。
「どこへ行くんだ?」
「どこへでも。」
「目的はなんだ?」
「ありません。」
「この船に乗った理由は?」
「ありません。単なる気まぐれですよ。」
どんな質問をしても彼女は微笑んで返す程度で、それ以上は深くは語らなかった。
翌日、水平線を照らす様に朝日が差し込んでくる頃に2人目が覚めた。
甲板からの朝日を見て彼女がいう。
「海の上で見る日の出ってこんなに美しいものなのですね。」
そう告げる彼女の横顔はとても眩しかった。
この船で誰かと旅をするのは初めてだった。
寂しくはなかった。
広い海を独りで進む。それが人生だと思っていたからだ。
一つの場所に定着せず、自由気まま、風のままに進む。
それが私の生き方だからだ。
彼女はいう。
「海はいいですね。静かで、何もない。こうしているとこの世に私とあなただけの様に思えます。」
その言葉に何故か心臓がとくんと一つ高鳴るのを感じた。
その日の夜。
彼女と星を見ながら語り合った。
「あれが北極星。あの星を目指して船乗りは北を目指すんだ。」
「どうしてあの星を目指すの?」
驚いて彼女の顔を見ると、彼女はただ何も知らない子供の様に微笑んでいる。
船乗りとして星を見ることは当たり前だったので、今更そんなことを疑問に思ったことさえなかった。
ふいをつかれたような質問に戸惑い、私は押し黙ってしまうと彼女が続けた。
「星を見失ってしまうことはないの?」
その質問に私はゆっくり口を開く。
「嵐の夜は何も見えなくなってしまうし時に進路を見失ってしまうこともあるが、明けない夜はないし、止まない嵐はない。だからその日はじっと耐えて、また星が出るのを待つんだ。」
互いを見つめる目と目には、私の顔がはっきりと映る。
海、空、星、そして私と彼女。
この世界には私たちしかいないように感じられた。
彼女は微笑みながら
「私も北を目指してみましょう。」
と言う。
「どうして北を目指すんだ?あなたの旅の目的は?」
「それを探しているのです。」
彼女は特に深い理由もないようにそう告げた。
次の日、私たちは釣りをした。
彼女は釣りをしたことがないようで竿の握り方さえも知らず糸をゆらゆらと揺らしていた。
「魚が逃げてしまうから糸を揺らしてはいけないよ。じっとしていればそのうち魚の方から餌に食いついてくれる。」
私がそういうと彼女は静かに竿を握って水面を見つめた。
どれだけの時間が経っただろうか。
言葉もなく、音もなく、聞こえるのは風の音と息づかいだけ。
永遠にも感じられる様な無言の時間。
そんないつもの光景に彼女だけがいる。
垂れ下がっていた糸がピンと張り詰めると彼女が興奮した様子で声をあげた。
「かかりました!」
「そのままゆっくり引き上げるんだ。私が網で捕まえるから安心しなさい。」
そういうと彼女はゆっくり糸をあげる。
私は網で彼女の釣り上げた魚を掬ってやった。
初めて自分で釣った獲物に喜ぶ彼女。
子供の様にはしゃぐその姿に私も思わず笑顔が溢れる。
日が暮れる前にその魚を調理して出してやると彼女は感動した様に口を開いた。
「美味しい。こんな美味しい料理がこの世にあったなんて。」
「自分で釣った魚は美味いだろう?」
「ええ、とっても。」
彼女はそう言いながら私の出した魚料理に舌鼓を打つ。
「あなたの料理はとても美味しい。これからも食べさせてくれませんか?」
その言葉に私も嬉しくなって大きく頷く。
自分を満たすためだけだった料理をこんなに喜んでくれるなんて思わなかった。
いつも1人で摂っていたただ栄養を摂取する、生きるためだけの食事がその日から私の人生の楽しみになった。
ある日は夕日を見つめて静かに過ごした。
ある日は星の数を数えた。
嵐の日には互いに協力して海を渡った。
私の航海に彼女という人が当たり前の様に存在するようになった。
大きな魚が釣れたら彼女を呼び。
雨が降りそうな日には彼女を船内に招き入れ。
暖が必要な時は互いの肩を寄せ合った。
長い孤独な航海の日々の中。誰かがそばにいてくれるという事はとても心地がよいものだと知った。
彼女とずっとこのままいられたらいいな。
そんな風に思う事が日に日に増えていった。
私は海を知り尽くしていると思っていた。
だが彼女がいると、同じ海がまるで違う世界の様に見えていた。
朝日を浴びて輝く水平線の様に、私の日常がきらきらと輝き色付き始めていた。
その日の夜も、甲板に2人寝そべって星を数えた。
星を数える彼女の横顔を見るたびに、この瞬間が永遠に続けばいいと心の奥で願った。
彼女はいった。
「星はいつでもそこにいるの?」
「北極星はね。あの星は地球の回転の中心にあるから動かずにそこにあるんだ。」
「そうなんですね。ならまだ見つけられない星があるのかも。」
「そうかもしれない。」
しばらく押し黙ったあと、彼女はつぶやいた。
「この景色を永遠にしたい。」
私にはその言葉の意味がわからなった。
「何度だってまたこうして星空を見上げればいいじゃないか。星はいつでもそこにあるのだから。」
「……そうですね。」
星を見ているはずなのに、彼女はどこか遠くを見つめる様にそう告げた。
彼女の目には星ではなく、何か空虚なものが写っている。
彼女は笑っている。だけど、星の光が涙を隠しているようにも見えた。
星を見上げるその横顔は、この瞬間にしか存在しないもののようで、私はどうしても視線をそらすことができなかった。
次の日。
「これを見れば行き先がわからなくなることはない。」
私は古い羅針盤を指差した。
今は北の港を目指している。針は北を指し船はその方向へ迷いなく進んでいた。
彼女はじっとその針を見つめた。
錆びて古ぼけた羅針盤の針をじっと見つめるその瞳に、何か違和感を感じたがそれを口にするのが怖かったので私は見ないふりをした。
「この針が動かないのは不思議ね。」
「それが羅針盤だからね。針が迷っていたら船乗りは皆迷子になってしまうよ。」
その言葉に彼女は微笑んだままだがどこか物言いたげな瞳をしてつぶやいた。
「ずっと動かない針なんて、怖い。」
「え?」
その言葉に驚いて声が出たがそれ以上は2人とも何もいわなかった。
彼女といると、時間が止まるようだった。
この瞬間が永遠に続けばいいと、いつも思う。
それでも、彼女が何かを見つめるとき、私は彼女が消えてしまうのではないかと怖くなった。
羅針盤の針のように、彼女はここに留まってくれるだろうか。
私は彼女がいつかどこかへ行ってしまうかもしれないと思いながらも、何も言えずにいた。
その日の夜も、いつもの様に2人で星を数え彼女が笑う。
海にまつわる話をすれば彼女は静かに耳を傾け、また彼女が陸で経験した話は私の好奇心を刺激した。
「逆さに流れる滝が好きなの。あなたは見た事ある?」
「水が逆さに流れる滝なんて本当にあるのかい?」
「あるのよ。森の奥深くに。本当なんだから。信じてくれないの?」
「もちろん信じるよ。長い旅をしてきた君がいうならきっと本当にあるんだろう。」
嘘みたいな彼女の話を私は笑いながら聞いた。
「そう。普通じゃないその流れも、その滝にとってはそれが当たり前なの。私もそんな風に生きたい。」
「どういうことだ?」
「ただ真っ直ぐ下に落ちる滝じゃなくて、誰も予想できない方に流れるような滝になりたいの。」
「真っ直ぐ落ちるのじゃだめなのか?」
「だめなの。」
「なぜ?」
その問いに彼女はただ笑うだけだった。
「明日、また星を数えましょう。」
彼女はそういい微笑むと私は安心して眠りについた。
次の日の朝。
冷えた朝の空気に身震いして目が覚めると彼女の姿がなかった。
甲板の上には何もない。
船室を見ても、海を見渡しても彼女の姿はどこにもなかった。
あらん限りの声で彼女を呼んだ。
「おーーーーい!」
海にこだまするように何度も何度も私は叫んだ。
彼女の名前すら知らないのに。
呼ぶ名前すら分からないのに。
途方に暮れながら名も知らぬ旅人を探し歩いた。
すると、彼女の羽織っていたローブを見つけた。
まるで羅針盤を隠す様にそのローブがかけられていた。
ローブはまだほんのりと暖かく、彼女のぬくもりが感じられた。
私はそのローブを抱きしめて、膝から崩れ落ちた。
確かに彼女はいた。
ここにあったのだ。
なのにまるで夢幻だったかのようにもう影も形もない。
朝の光が静かに海面を照らしている。
波の音だけが規則的に聞こえ、彼女の笑い声がそこにないことを実感させた。
普段なら心を和ませてくれる朝日が、今はただ冷たく感じられる。
彼女の声も、瞳も、言葉も、鮮明に思い出せるのに彼女だけがいない。
突然すぎる別れに気持ちが全く追いつかない。
ただ、彼女がここにいたという確かな温もりだけが、ローブからじんわりと伝わってくる気がした。
涙も出なければ、何の感情も湧いてこない。
無だった。
理解が追いつかない、というのはこういう状況なのだろう。
昨晩まで笑って共に過ごしていた彼女が跡形もなく消えているのだから。
船には私だけがたった独り取り残されてしまった。
この広大な海原で、私だけが世界に独り取り残されてしまったかのように。
あの楽しかった日々も、星を数えていた夜も。
何もかもなかったかのように全てが崩れ去った。
彼女を探し出したい、また彼女に会いたいという衝動が一瞬胸をよぎったが、どこを探せばいいのかも分からなかった。
私はなすすべもなくその場に座り込むしかなかった。
その日、船を進めることもそこから動くこともできず、すっかり冷え切ったローブを握りしめたまま私はただ動かない羅針盤の針を見つめていた。
彼女が去った今、この羅針盤の針だけが、北を指し続けている。
だが、その針が指し示す場所には、彼女はいない。
動かない羅針盤が、彼女の不在を際立たせているようだった。
残されたこのローブは、彼女自身のようだ。
頼りなく、柔らかく、掴もうとしても掴み切れない。
それでも、このローブだけが私を現実につなぎ止めている。
何もできないまま、夜がやってきた。
いつも2人で見上げていた美しい夜空が、今日は曇り光さえ見えない真っ暗な暗闇を映していた。
星のみえない夜空は、私の存在を覆い隠すように広がっていた。
孤独という嵐の中で、私はただ漂うことしかできない。
彼女と数えた星たちが、まるで私を拒絶するように、今夜はどこにも見当たらない。
あんなに眩しく輝いていた星たちは、今夜は雲に隠れて一つも見えない。
彼女がいなくなったから、星たちまでも私を見捨てたのだろうか。
暗闇の中で、ただ波の音だけが私を嘲笑うように響いていた。
しなやかな指が星を指差し、数えきれない星々を一つ一つ指差しながら数えていたあの夜。
星は数えきれないから、この夜もきっと終わらない。そう思っていた。
彼女を失う日のことなんて考えたことさえなかった。
彼女の残したローブを握り、もう一度彼女に会いたいと強く願った。
そうすると一筋の涙が頬を伝った。
心がやっと、彼女がいない現実を受け入れ始めた様だ。
悲しい歌も、慰めてくれる誰かも私にはない。
話を聞いてくれる友も、悲しみを分かち合える家族もいない。
泣きたいほど辛く、引き裂かれるほど苦しいのに、私の感情はどこにも行き場がないのだ。
会いたい。
そう強く願えば願うほど涙が頬を伝う。
私が悪かったのだろうか。
彼女に嫌われる様なことをしてしまったのだろうか。
なぜ彼女は船を降りたのか。
自責の念と後悔が胸を埋め尽くす。
自分を許せないのか、気持ちのやり場がなくて甲板を殴る。
こんなことをしても彼女が戻ってくるはずはないのに。
あの時私を見つめる瞳に、同じ情熱を感じていた。
彼女にも私が必要だったはずなのに。
どうして。
どうして。
どうして。
叫びたくなる感情が渦巻いて、声をあげて泣いてしまいたいのに。
無駄に賢くなってしまったこの老いぼれは声をあげることすらできなかった。
この夜が永遠に明けないのではないかと思うほど、辛く鋭い孤独が胸を覆う。
心臓の中心からまるで左右に引き裂かれるような激しい痛みに、もがき苦しんでいるのに。
声さえ上げられず涙もそれ以上流れず。私は自分の中で渦巻く嵐に壊れてしまいそうになった。
ふと船内を見つめるとあの古ぼけた羅針盤だけがじっと私を見つめている。
北を指すその針が恨めしく感じた。
この船にはもう北も南も関係ないのに、針は何事もなかったかのように静かに揺れている。
羅針盤の針だけは迷うことなく進むべき道を示している。
私にとって進む道はどこにもなくなったというのに。
明けない夜はない。
私自身が彼女にそう言っていたのに、こんなに夜が長く、永遠に終わらない様に感じられている。
彼女が去ったとしても船も、私の心臓も止まることなく動き続けている。それなのにどうしてこんなにも辛いのか。
元々彼女は突然やってきた旅人で、元からそこにはなかったものなのに、どうしてこんなにも彼女を失う苦しみが辛いのか。
考えれば考えるだけ、胸の痛みは増していく。
そうか、誰かを愛するという事はこういう事なんだ。
そう気付いたとしても、その想いを伝えられる人はもういない。
私の手元にはもう冷え切ったローブしかない。
冷たいローブを握りしめて目を閉じると、彼女の声が耳元でささやくように聞こえた。
『明日、また星を数えましょう』
その言葉がまだ私の中で響いている。だけど、その声を返す人はもうどこにもいない。
次の日の朝。
羅針盤の針は変わらず北を指していた。
その先に、彼女がいるのかもしれない。いや、いなくても、私はこの旅を続ける理由を見つけなければならない。
輝く水平線を見ると、彼女が笑っていた姿が瞼に浮かぶ。
それはまるで私の中の水平線に、彼女の残像が焼き付けられたようだった。
寝る間に握りしめていたローブは風に飛ばされてしまったのか、手元から消えてしまっていた。
元々気ままな一人旅の船。そんなに広くないはずなのに、彼女がいなくなった今、この船はまるで私には広すぎるように空虚な場所に感じる。
彼女はいた。
確かにそこにいた。
そして私たちの間に確かに何かがあった。
人はそれを恋だとか幻だとかいうかもしれない。
でも私はそこに愛があったと思う。
彼女を失った苦しみは今も深く胸を突き刺す。
だが、それでも船もこの心臓も止まることはなく動き続けている。
彼女がいなくても、海も船も変わらず、私の人生もまた止まることなく進み続ける。
「北を目指そう。」
彼女のいない航海でも、進み続けるしかない。
彼女にはきっともう会えない。
どんな理由があったにせよ、ここにはもう彼女はいないのだから。
その理由を私が知る事は永遠にできない。
時間と共に、いつかこの胸の痛みも消える日がくる。
だけど私は今を生きるために航海を続けなくては。
隣に彼女がいなかったとしても。
彼女と過ごした日々は、確かに星のように輝いていた。
彼女を愛していた。
あの瞳を、指先を、私をからかう声を。
確かに私は愛していた。
だけどもういない。
愛を伝える術も、許しをこうことも。
声をかけることも、聞くことも。
もうできない。
この広い海で、彼女だけが私の光に見えた。
たとえ光を失っても、私はこの船を進めなくては。
空虚を抱いた胸に手を当ててみると確かに心臓の躍動を感じる。
私は生きている。
老いぼれのみた美しい夢だったのかもしれない。
本当に御伽話だったのかもしれない。
だけど、彼女との日々が私の中には確かにある。
舵を切って、北を目指す。
輝く水平線に、新しい夜明けを見つけるために。