イルティアナ
目が覚めるたびに、これは夢なんじゃないかと首をひねりたくなる。
けれど柔らかな寝台も、暖かい部屋も、すべてが現実だと思えてくれる。
今日も夢ではなかったことに安堵しながら身を起こした少女は、絨毯の上を裸足で進む。すでに暖炉には火をくべられ、薄着でも寒さを感じなかった。
そわそわと光がこぼれる窓辺に近寄った少女は、背伸びをして鍵を外そうとするが届かない。
「んーっ」
「あらあら、もうお目覚めですか? 今日もお早いですね、お嬢様は」
くすくすと笑いながら部屋に入ってきたのは年若い娘だった。
年は十五歳くらいだろうか。
年齢が近いほうがいいだろうという公爵の判断で少女付きになった侍女のコニーだ。紺色のお仕着せに身を包んだ彼女は、涼やかな目をほんの少し細め、素早く衣装室から服を持ってきた。
「いくら室内とはいえ、外気を入れれば冷えますからね」
「ありがとう」
「いえいえ、お礼は必要ありませんよ」
はにかみながら礼を言う主人の細い肩に、持っていた上着をかけると、鍵を外してそっと窓を開いた。
「うわー……、きれい……」
朝日がちょうど神々なる山脈から顔を出し、空が少しずつ白み始めるところだった。
「よくもまぁ、毎日飽きませんね」
「うん……だって、わたしがいたところはいつも薄暗かったから……」
朝が来るということがこんなに美しいとは知らなかった。
ゆっくりと吐き出した息が白くなった。
もうすぐ、はじまりを告げる鐘が鳴るのだろう。
いつまでもこうしていたい気もしたが、コニーを困らせてはいけない。
「……コニー?」
「! い、いえ……もう、いいですか? では身支度を整えましょうね」
どこか痛ましげに少女を見つめていたコニーは、ハッと我に返ったように笑みを作った。
パンっと手を鳴らすコニーの合図を待っていたかのように使用人たちが幾人も入ってきた。
「失礼いたします。……さあ、お座りくださいませ」
裸足のままの主人をそっと抱き上げたコニーは、猫脚の椅子へと下ろした。
少女のために用意された使用人たちは朝早くからの支度を嫌がることなく、賑やかにこなしていく。
「お嬢様がいらして本当に良かったですわ」
「ドレス選びも、髪型の細工も楽しいですものね」
「旦那さまと坊ちゃまは見目麗しいですけど、着飾らせがいがないですものねぇ」
「そういうところは頓着なさいませんもの」
「あなたたち、口を慎みなさい」
コニーが呆れたように片手で顔を覆った。
この中ではコニーが一番年下ではあったが、主人付きとなったコニーはだれよりも権限があった。若いながらも有能な侍女としての顔を持つコニーは、楽しげに会話を聞いていた主人に謝罪した。
「耳障りではありませんか?」
「どうして? 楽しいわ」
「……ならばようございました」
使用人の談話室のような会話に成り下がっていたが、気分を害していない様子に、コニーは知らず強張っていた肩の力を抜いたのだった。
(あとでナーシャ様に活を入れてもらいましょう)
礼儀には厳しい侍女頭を思い浮かべれば、不穏な気配を察したらしい使用人たちはぴんと背筋を伸ばし、支度する速度をあげたのだった。
「まぁ、お可愛らしいこと」
「サイドを編み上げて、ドレスとお揃いの深緑のリボンでまとめてみましたけれど、よくお似合いですわ」
口々に褒め称えた彼女たちは、うっとりと少女を見つめた。
目覚めてから少しずつ食べる量を増やしてきた少女は、けれどまだまだ標準とはいい難い体型だ。それでも、珍しい大きな七色に輝く双眸に、真っ白な肌、艶めく銀の髪は、見るものを引きつけるようだった。
ボロボロの状態から一生懸命世話をしてきた彼女にとっては、この輝きを見るのもひとしおなのだろう。うちのお嬢様がこの国一可愛い! を公言して止まない。
「いつもありがとう」
頬を染め、にっこり微笑む少女に、使用人たちがその場にバタバタと倒れた。
「お嬢様が今日も眩しいですわ」
「なんて尊い……」
「今日を乗り切れそうですわ」
「コ、コニー……」
「……少しお腹に何か入れますか?」
「あ、うぅん、だいじょうぶ」
「なら、温かい飲み物と果物をご用意しましょう。まだ朝食まで時間がありますからね」
いつものことと使用人たちのことを無視したコニーは、鈴を三回鳴らした。
入ってきたのは男たちだった。少女に一礼した彼らは、また今日もかと頬を引きつらせながら使用人たちを引きずっていった。
それと入れ替わるように、他の使用人が飲み物などを隣部屋に用意していく。
「その靴は痛くはございませんか?」
「うん、へいきよ」
なれない革の靴を履いていた少女は、靴ずれをおこしていた。見かねたコニーが、屋敷の中は布製の靴でしばらく過ごしたらどうかと提案したのだ。
「あのね、コニー……。わたしね、ここの一員になれてうれしい……。とっても、とっってもうれしいの!」
「ようございましたわ」
コニーに誘導されて続き部屋の長椅子に腰を下ろした少女は、蜂蜜をたっぷり入れたミルクを受け取ると、両手で包み込んだ。
指先から熱が全体に広まっていくようだった。
「なまえもね、もらったのよ……。イルティアナ……わたしのなまえ……」
胸がぽかぽかした。
父となった公爵が、公爵家の娘として相応しい名をつけてくれたのだ。
イルティアナは古代語で女神を意味するという。
伯爵家では与えられなかった名前をもらったことがとても嬉しかった。
「だからね、なにかしたいの。ううん、しなきゃいけないの」
「お嬢様……?」
ふぅふぅと息を吹きかけ、甘いミルクを口に含んだ少女──イルティアナは、意を決したように言った。
「もうすぐ、もっと寒くなって、雪がいっぱいつもるの。だからね、いっぱい蓄えないといけないの」
「蓄える、ですか?」
「そう。何日も家からでなくてもいいように……いっぱいいっぱい食べ物を用意するのよ」
「まぁ、お嬢様。この地は、溶けないほど積もることはめったにありませんわ」
「でも……でもっ、死んじゃうわ」
『死』という直接的な単語に、コニーは驚いたように目を見開いた。
「大好きな人たちが死んじゃったら、悲しい……」
イルティアナは、『視』たから知っていた。
大雪になることがほとんどないこの地では、長期保存のできる食料の準備などしていなかった。
家が雪によって閉ざされ、
外へ出ることも叶わず、
薪がなくなり、
食料が尽き、
ただ緩やかに訪れる死を待つ日々。
雪解けのあとに多くの家から遺体が見つかった。
それをイルティアナは『視』てしまった。
幸いにも公爵家には、領民とは違い、それなりに蓄えはあったが、それでも使用人全員を賄えるほどではなかった。これまで通り豊かな生活を送る公爵一家の下で、最初に餓死するのは食べ物を満足に与えられない奴隷たちだ。
「いまなら、きっと、まにあうの」