兄の心
この時期は、冬の精が舞い降り、白い氷の花びらが一面を覆う。
ヴェル=ヴォーニ公爵が治める領地の一つヴェル=ヴォーニは、比較的雪に閉ざされることは少ないが、外へ一歩出れば身を切るような冷たい風が頬を過ぎていくようだった。
ヴェル=ヴォーニ公爵を父に持つハルフィッドは、寒さで耳を赤らめながら目当ての場所へと突き進んだ。
「ハルヴィー様」
「目を覚ましたとき、いの一番に見せてあげたいんだ」
咎める声を無視し、温室へと足を進めたハルフィッドは、保たれた室内で美しく咲き誇る花を見つけて頬を緩めた。
「なにも貴方が動かずとも」
眉を寄せるのは専属騎士であるアシロットだ。
「僕がしてやりたいと思ったんだ。なかなか楽しいものだな、選ぶというのは」
この上なく高貴な身の上であるハルフィッドは、自ら動かなくとも何でも手に入れることができた。それこそ、庭師に命じれば、毎日、眠るあの少女の元へ花束が届けられただろう。
いつものハルフィッドならば、そうしていたはずだ。
けれど……。
(不思議なものだな。血の繋がりはないというのに、『妹』であることで何かをしたいと思わされるのは)
彼女に恩義を感じていたのは確かだ。
彼女が居なければ、父は無残に散り果て、死に目にも駆けつけることが叶わなかっただろう。
次期公爵として教育を受けているとはいえ、まだ十歳。
公爵の名を継ぐことはできず、父方の弟が中継ぎで選ばれたはず。
そうなっていたら、王家に次ぐ権力を持つ公爵家は地に落ちていただろう。
(よもや叔父上が裏で糸を引いているとは考えにくいが)
決してあり得ない話ではない。
ヴェル=ヴォーニ家の当主の座を狙う者は多いのだ。まして、ハルフィッドが居なければ、その座に最も近いのが叔父なのだから。
放蕩息子として名高かった叔父は、今もふらふらと遊び回り、受け継いだ莫大な財産を湯水の如く使っているという。破滅するまで時間の問題。その前に、当主となって公爵家の財を食いつぶそうと考えるかもしれないのだ。
「ハルヴィー様もようやく人の心を……」
うぅっと泣き真似をするアシロットを胡乱な眼差しで一瞥した。
アシロットは生まれたときからハルフィッドの専属騎士になるために育てられたこともあり、ハルフィッドがどのような人物であるのか的確に知る数少ない人物である。
「僕は父上とは違う。人並みに感情はあるさ」
父が自分をどう思っているのかなんて知っていた。
貴族として生まれた以上、過分な愛情など必要ない。
父に嫌われているとは思っていないし、次期公爵として信頼されている事実だけで、十分だった。
何より、父から与えられなかった愛情は、乳母をはじめとした公爵家に仕える者たちが十二分に与えてくれた。
だが、あの少女は違っていた。
親姉妹だけでなく、周囲からも煙たがられずっと苦しみながら生きてきたのだから。
ふっと、思い浮かぶのははじめて見た彼女の姿だ。
痩せきった小さな体。
あかぎれだらけのボロボロの指先。
艶のない髪の毛。
あれでもまだマシになったほうだと伝えられたときの衝撃は忘れられない。
ハルフィッドは、父に隠れて街へ下りたことも何回もある。
そこで幼い浮浪者を見つけたことがあった。その姿と少女がどこか重なって見えたのだ。
けれど彼女は、由緒ある伯爵家の令嬢。
いくら秘されていたとはいえ、その身に流れる血筋は卑しくない。
だというのに、扱いはそこらの浮浪者と変わらなかったのだ。
ハルフィッドの知る令嬢は、綺麗なドレスに身を包み、艷やかな髪を宝石のついた髪留めでまとめ、傷一つない滑らかな肌をしていた。
それこそが本来の姿のはずだ。
だからこそ気にかけてしまうのかもしれない。
これまで享受できなかったものを与えたいと思ってしまうのだ。
――――それは、きっと『憐れみ』なのだろう。
手折った花を抱えたハルフィッドは、少女が眠る部屋へと赴いた。
「おやまぁ、今日もですか、坊ちゃま」
少女を迎え入れるために設えた部屋は、女の子らしい色合いと調度品で溢れていた。七歳という年齢からすると、いささか可愛すぎる部屋に仕上がってしまったかもしれないが、きっと気に入ってくれることだろう。
「まぁ、今日も綺麗な花ですこと」
ハルフィッドの乳母であった女がハルフィッドから花束を受け取ると、控えていた侍女に生けるよう命じた。
「まだ、目覚めないか?」
「ええ……きっと心と身体が休息を欲していらっしゃったんでしょうねぇ……」
伯爵家から連れ出したあと、近くの宿屋で医師の診察を受けた。
肺を壊し、危ない状態だったと知った父は、少女の負担を考え、その宿屋で一週間も過ごしたという。ようやく馬車での移動も問題はないと許可が降り、この地へ辿り着いたが、少女の意識は依然として戻らなかった。
「このまま目を覚まさないなんてことあるのか?」
「どうでしょうねぇ……。お医者様は、時が来れば、としかおっしゃいませんし」
「だが、すでに半月だ……」
このまま死んでしまったらと考えると、胸がすっと冷えた。
ハルフィッドは、寝台の傍に膝をつくと、柔らかなシーツの上に投げ出された細い手を宝物を触るかのように両手で包み込んだ。
外にいた自分の手よりは体温が高く、それに安堵した。
生きている……。
「早く、お前の目を見てみたいな。この世の宝石をかき集めてもお前の瞳には敵わないと父上がおっしゃっていた。……案外父上も詩人だな。そんなこと、知らなかったよ」
くすりと笑ったハルフィッドは、彼女の手を包み込んだまま、そっと己の額に押し当てた。
「大丈夫。怖いことなんてない。僕も父上もお前のことを守ってあげる。だから、目を覚ましていいんだよ」
それは神聖な儀式のようでもあった。
大きな窓から差し込む淡い光に包まれた二人の姿は、どこか侵し難い雰囲気に包まれていた。
傍で見ていた乳母の目が潤む。
「成長なさって……」
どこか感情を置き忘れた少年に育ってしまったことを乳母である彼女は人知れず悩んでいた。
次期公爵としては完璧な姿だが、まだ十歳の子供なのだ。心を素直に開け放つことも大事なのではないだろうか。
もしかしたら、少女の存在が、その鍵となるかもしれない、と心から歓迎した。
と、そのとき。
「……ぅ……ん」
「!」
緊張が走った室内で、少女がゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとさまようオパールのような双眸は、この上なく美しい輝きを宿していた。