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転機


「こほっ……」


 薄いシーツを口元に当てた少女は、こみ上げる咳を必死にこらえようとするが、かえって激しく咳き込んでしまった。

 咳によって消耗する体力。

 節々は痛み、高熱によって頭は霞がかったようになっていた。


 あの騎士に伝えて、未来が変わったのか知るすべはない。

 いくつもの月が流れ、少女の痩せた体には辛い冬がやって来た。

 毎年、この時期には寝込んでしまう。凍えるような寒さの中で、薄いシーツ一つでは体を温めることすらできないのだ。

 将来的に売る予定の少女を死なすのをよしとしない伯爵家は、おざなりに看病はしてくれため生きながらえている。


(くる、しぃ……いたい、よ……)


 はぁはぁ、と呼吸が荒くなる。

 孤独さが更に少女を追い詰め、涙がポロポロとこぼれ落ちた。

 

(とぅ、さま……) 


 会いたい、と思うことは罪なのだろうか。

 大きな手で頭をなでてくれたのなら、それだけで呼吸が楽になる気がした。愛されることは諦めたはずなのに、病気にかかると、心の奥底に隠れた願望がすっと浮かび上がる。

 父と義母と、姉と異母妹……。

 自分がいないその空間は、きらきらと輝いて、穏やかさに満ちているのだろう。


 ぐっと胸が詰まった。


 気が遠くなりかけたそのとき、戸の外が騒がしくなった。


「こちらには何もございません。お通しするわけには……っ」

「使用人風情が、だれに口を利いている!」

「きゃあっ」


 がんっと倒れる音。

 悲鳴を上げる声。


 不穏な様子に、けれど少女にはそれに構う余裕はなかった。

 意識が闇の中に沈んでいく。

 その一瞬、勢いよく開かれた戸の奥に、輝きを見つけた気がした。






   ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆





 そこは、物置小屋のようでもあった。

 薄暗い部屋は、隙間風のせいか外と変わらない温度だ。

 とても、人が過ごせる環境ではない。


「ほぅ、これは、なんとも」


 銀の紗がかかる黄金の双眸をすっと細めた男性は、ひと目で惨状を把握すると、控えていた騎士たちが止めるのも構わず大股で塊にを手にすると、そっと宝物を抱くように持ち上げた。


 ――――軽い。


 そして、熱かった。

 意識を失い、荒い息を吐く少女をぎゅっと抱きしめた彼は、身を翻すと医師の手配をするように告げた。

 命を受けた一人が、一礼するとその場を去った。


「公爵、わたくしが……」

「よい」


 薄汚れたシーツに包まれた少女をヴェル=ヴォーニ公爵に持たせるわけにはいかないとばかりに、騎士が手を差し出したが、鋭い一瞥にあい、すっと引っ込めた。

 彼らは知っていた。

 この少女を手に入れるために、公爵が奔走していたことを。

 冷酷と謳われたヴェル=ヴォーニ公爵が、今は甘やかに目を細め、大事そうに少女を見つめているなどだれが想像できただろう。

 嫡男であるハルフィッドにも向けられたことはない慈しみに満ちた眼差しだ。


「もう少しで、失ってしまうところだった。間に合ってよかった……」

「公爵様、こちらを。外は寒うございます」


 公爵家の騎士の証である獅子に盾が描かれたマントを差し出すと、頷いた公爵は少女に被せた。少しは寒さを和らげることができるだろう。


「よぅ、こっちは片付きましたぜ」


 馬車へ向かう公爵に気安い声をかけたのは、筆頭騎士のダンゼだった。

 その手には、血がついた羊皮紙があった。


「命までは奪ってないな? いかに非道とはいえ、アレでもこの子の親。悲しませることはない」

「ははっ、そこまでしませんよ。刑に処されるお貴族様を手にかければ、オレが目をつけられちまう」


 署名がなされていることを確認したヴェル=ヴォーニ公爵は、うっすらと笑みを引いた。

 これで、合法的に少女は伯爵家の縁が切れ、公爵の養女となった。思いの外、すんなりと手放さなかったことが難点だったが、ダンゼに任せたことは最良だった。

 すでに少女を迎え入れることは王や周囲にも根回し済みである。

 これでなんの憂えもなく少女を手元におけるのだ。


「……ぅ、ん」

「大丈夫。今は眠れ」


 少女が無理なく休めるようにと馬車にはクッションが敷き詰められていた。

 薄汚れたシーツを放り、自らの外套も少女に被せると、苦しげだった顔がほんの少し和らいだ気がした。


「公爵様、医師の到着まで今しばらくかかるゆえ、お薬をお持ち致しました。昨日より、熱を下げる薬を与えられていなかったようで……」

「なんということだ」


 小さく呻いた公爵は、汗でぺったりとくっついた前髪を横に流すと、薬が混ぜられた飲み物を受け取った。


「さぁ、口を開けて」


 喉が乾いていたのだろうか。

 水分だとわかると、小さく開いた口が動く。

 それでも、三口が限界だった。ごほっと吐き出されてしまえば、医療の心得などない公爵はうろたえるばかりだった。


「何も口にしないよりはましでしょう」


 薬を持ってきた騎士は、安堵したように胸をなでおろした。


「お待ちください!」


 少女を手に入れたからには、もうこの場には用がないとばかりに引き上げようとしたそのとき、伯爵家の令嬢が髪を振り回しながら駆け寄ってきた。


「なぜですっ。なぜ、その忌み子がっ」

「やめないかっ」


 顔を赤黒く腫らした伯爵が娘を落ち着かせようとするが、癇癪を起こす彼女は止まらなかった。

 憎悪に歪んだ眼差しが、馬車の中で眠る少女へと向けられる。


「その子は、わたしの母を殺した悪魔です! 人間ではあり得ない色を持つその子は、周囲に不幸を撒き散らすのですわ。公爵様もよくお考えくださいませっ!」


 令嬢は、伯爵の息子と年は変わらなかったはずだが、貴族としての教育を受けていないようだ。

 いくらデビュー前の子供とはいえ、王家に次ぐ有力貴族の当主に、無作法にも自ら話しかけるとは。


「たかだか伯爵家の娘が、公爵家の娘を悪魔呼ばわりとは、よい身分だな?」


 すっと目を細めると、蛇に睨まれたカエルのように令嬢が固まった。

 ようやく、自分が何を口にしたのか悟ったのだろうか。

 顔を青ざめさせ、ガタガタと震える令嬢に、興味を失ったとばかりに顔を背けると、馬車を出すように告げた。


「さあ、帰ろう、我が家へ」


 すっと真っ赤な頬に手を当てると、冷たかったのか、それとも薬が少し効いたのか、睫毛を震わせた少女がゆっくりと瞼を持ち上げた。


「だ……れ……?」

「!」


 それは、なんと表現したらよいのだろうか。

 オパールのように七色に輝く大きな双眸。

 角度によって色鮮やかに変化する瞳は、宝石をはめ込んだかのようだった。


 ふと、先程の令嬢の言葉が蘇る。


 人あらざる色。


 確かに、そうかもしれない。

 けれど、これは、悪魔の色ではない。

 天上の色である。

 あまりの美しさに言葉を失っていた彼は、今にも消えそうな小さな命を失ってはならないとばかりに、そっと髪をなでた。


「お前の父だよ」

「……と、ぅ…さ、ま……」


 ふっと嬉しそうに緩んだ目元。

 そのまま意識を沈めてしまったようだ。


「私の至宝……」


 この子は、私の命を救うよう女神が遣わした御子に違いない。


(守ろう。私のすべてを使って、この子を)


 最初は、アシロットの話を戯言と聞き流していたが、ダンゼは含むところがあったのか秘密裏に探っていたらしい。

 そして、公爵家に長く仕える(うまや)役の男が車輪に細工をしているところを見つけ、その場で捕らえたという。その男の特徴こそが、少女が伝えていた鼻が高く、頬に大きなほくろがある男だった。先代から仕える男だったため、まさか裏切るとは考えもよらなかった。

 賭け事で増えた借金を帳消しにする代わりに、公爵が乗る馬車に細工をしろ、と脅されていたらしい。

 もし、少女の言葉がなければ、もし、ダンゼが動いていなければ、自分の命はなかっただろう。


「私は、女神の狂信者ではないが……」


 これが女神の導きというものなのかもしれない。


 この子を脅かすものがあれば、すべて切り捨てればよい。

 この子を悲しませるものがあれば、すべて排除すればよい。


 子など、単に家を繋げるための道具としか思えなかったが、なぜか今は違う心地がした。


「あいつに会わせるのが楽しみだ」


 そわそわと家で待ちわびているはずの息子を想い、優しく微笑んだ公爵だった。

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