side 騎士アシロット
感じた気配に、すっと柄に手を当てようとしたアシロットは、しかし、害のないものだとすぐさま判断した。
同じく、気配を察したであろう主人が、ちらりとこちらに視線をよこしてくる。それに対し、小さく頷くと、そっとその場を離れた。
アシロットと入れ替わるように、騎士の一人が主人に付き添った。
伯爵家の令嬢はそんなことに気づきもせず、秀麗な主人に夢中である。
(本来なら、専属騎士である私が離れるべきではないけれど……)
ハルフィッドは、公爵家の第一子である。
次期公爵という立場だけでなく、 その身には王家の尊い血も流れおり、いつなんどき命を狙われてもおかしくはない状況だ。
ベンダーラ伯爵家は、反王家を掲げるセルヴァント派とは懇意ではないとはいえ、裏で繋がっていないという確証はない。
(まったく、旦那様にも困ったものだ)
元はといえば、フィルティラー侯爵のせいでもある。
『知っているか? ベンダーラ伯爵家の噂を』
『噂だと?』
『あそこには、秘された子がいるらしい』
隣の領地ということもあり、彼の耳には密やかに届いていたのだろう。
けれど、貴族図鑑を調べても、ベンダーラ伯爵家に記されている子の名は二名分。
もう一人の存在はどこにもなかった。
それに興を注がれたのがヴェル=ヴォーニ公爵だ。ぜひ我が屋敷に、という招待を受けていることもあり、常ならば無視するところをこうして訪れたわけである。
だが、フィルティラー侯爵の話が事実だとすれば、事は重大である。
貴族だけでなく、ターリアン国の民ならば、子が生まれたらすぐさま出生届を出し、古の女神の加護を受ける必要があるからだ。加護を受けるということは、女神信仰が根深いこの国において重要なことである。
それを失していたとなれば、見過ごせるはずもない。
眉間に皺が寄りそうになったが、すぐに目的の気配に近づくと表情を和らげた。
「どうしたの? お嬢さん」
そこにいたのは、薄汚れて、やせっぽっちの小さな少女だった。
年の頃は五歳前後だろうか?
明らかに栄養の足りていない体。
灰色の薄い服は裾がほつれ、薄汚れていた。
きっと、アシロットが少しでも力をいれれば、簡単に砕けてしまいそうな小さな少女を前に、驚きを慌てて飲み込んだ。
(なぜ、こんな子がここに……)
この子が、秘されていた子なのだろうか?
そうだとしたら、あまりに哀れな風体だ。
アシロットに気づいていなかったのか、びっくりしたようにゆっくりと顔を上げる少女に、ことさら笑みを深めた。……少女を怖がらせないように。
「ふふ。冒険中ですか? 汚れが……失礼」
青白い顔に煤や砂がついていた。
どうやったらこんなものをつけられるのだろう。
髪や手も汚れていた。
懐から絹のハンカチを取ると、そっと少女の顔を拭った。きっと、こんな光景を主人が見たら、爆笑するに決まっている。
艶のない銀色の髪も手で梳けば、驚くほど真っ直ぐになった。磨き上げればきっと、美しい輝きを放つに違いない。
「せっかく綺麗な髪がもったいないですよ」
「……」
そう言うと、少女は固まって動かなくなってしまった。
目を覆うように伸びた前髪のせいで表情はよくわからない。
それに焦れたように片膝をつくと、唇をわずかに震わせる彼女の顔を覗き込んだ。
「どうしました? どこか具合でも?」
小動物のようにぷるぷると震えながら小さく首を振る姿にほっとする。
「貴女は……失礼ですが、お名前を伺っても? 私は、ヴェル=ヴォーニ公爵家のご子息ハルフィッド様にお仕えしております騎士アシロットと申します」
けれど、彼女の口から発せられた名前に、眉が寄った。
忌み子。
それは、名前ではない。
もしかしたら、彼女には名前すら与えられていないのだろうか?
フィルティラー侯爵の言葉が現実味を帯びたような感じがして、くらりと目眩がした。
伯爵家の令嬢がきちんとした教育をされていないのも罪であれば、出生届けがなされていないのは更に重罪である。
貴族として生まれたからには、その血に相応しい教育を受けなければならない。
だというのに、由緒あるベンダーラ伯爵家がその法を犯すとは何事だろう。
騎士の一族に生まれ育ったアシロットは、幼き頃から騎士としての道徳を叩き込まれてきた。
小さき者
弱き者
女性に対して
守り、そして優しくあれ、と。
だからこそ、少女に対する仕打ちが許せなかった。
と、そのとき。
「あ、あの……信じ、られない、かも、しれないけど……。公爵様の、馬車、の車輪に、気をつけて……っ。鼻の高い、頬に大きなほくろがある、人が、さわったあと、は、ちゃんと、確認してっ。それ、だけっ」
「あ…、お待ちをっ」
アシロットがしっかりと理解する前に、少女の体は消えていった。
伸ばした手が力なく空を切る。
(頬に大きなほくろ……)
思い当たる人物は一人いる。
だが、なぜ遠く離れたこの屋敷の子供が知っているのだろう。
偶然と片付ければよいが、どことなく胸騒ぎを覚えた。
「また、お会いできるだろうか……」
幻みたいな子だった。
けれど、ハンカチについた汚れが夢ではないと教えてくれる。
ぎゅっとハンカチを握りしめると、さっと身を翻した。
(どうか、古の女神よ……あの小さな幼子に、加護をお与えください)
あの子の進む道が少しでも平坦であることを願わずにはいられなかった。