これがはじまり
「いいですか? 今日は絶対にこの部屋から出ないでくださいね!」
忙しそうに昼食を運んできた恰幅のよい使用人は、そう釘を刺すと、勢いよく戸を閉めて出ていった。
残された少女は、冷めきったスープをのそのそと口に運ぶ。
今日は運がいいことに、肉の切れ端が入っていた。
「おい…しぃ……」
口の中に肉の甘味がじゅわーっと広がる。
たとえ野菜のクズしか入っていなくとも、少女にとってはご馳走だ。失敗したのであろう焦げた黒パンだってもう馴れた。
使用人と変わらない、いや、それ以上に酷い食事であっても、少女には生きていくのに必要な食べ物であった。
「今日はいつも以上にピリピリシているわね」
「当たり前でしょ! ヴェル=ヴォーニ公爵家といえば、王家の血筋も流れているこの上なく高貴な家柄よ」
「そんな方がなんだってこんな田舎に」
「隣のフィルティラー領を訪ねていらっしゃったのを旦那様が強引に立ち寄らせたらしいわよ。ほら、あそこのご子息……」
「ああ、お嬢様と同じ年だったかしら」
「そうそう。お近づきになって損はないでしょうね」
いつにも増して賑やかな声が慌ただしく過ぎていく。
「ヴェル=ヴォーニ……」
どくんっと心臓が跳ねた。
木製のスプーンがからんと床に落ちた。
(そうか、だから……)
少女の脳裏には、これまで何回も『視』た映像が浮かび上がる。
車輪が外れ、バランスを崩す馬車。
そして、運が悪いことにちょうど崖が……。
少女はぎゅっと目を瞑った。
その先は、『視』ないでも想像がついた。
そして、場面が変わって、美しい少年の顔が現れる。
公爵と同じ色でありながら、もっと優しい顔立ちの少年は、いつも華やかに微笑んでいた。少女は彼のそんな笑顔が大好きだった。
けれど、父の死をきっかけに笑顔がなくなり、冷たい仮面をつけていく。
彼は知っていたのだ。
公爵の死が事故ではないということを。
復讐に燃える少年は、その手を血に染めていくのだ……。
(だ、め……)
だって彼には明るい笑顔が似合うのだ。
スプーンを拾って、スープを急いで飲み干すと、食べかけのパンもぎゅっぎゅっと口の中に入れた。
少女としては急いだつもりだったが、あれからかなり時間が経ってしまったらしい。
すでに公爵一家は到着し、歓待を受けているという会話が聞こえてきた。
少女は意を決して立ち上がると、古びた棚に近寄った。
物はなく、ガランとした棚は、ところどころ欠けていた。その棚を力いっぱい押すけれど、少女の細腕ではなかなか動かない。
それでも額に汗を浮かべて格闘していれば、細い少女が通れるほどの隙間ができた。その隙間に体を滑り込ませると駆けた。
ここは、だれも知らない通り道だ。
この部屋の持ち主が秘密裏に作ったのだろう。
姉と会ってから扉に鍵がかけられるようになった少女にとって、この通り道こそが外へと行ける唯一の手段だった。
使用人に見つからないよう裏手を進む。
どこに行けば少年に会えるのなんかわからなかった。
けれど、どうしても伝えなければ、という使命感が少女を支えていた。
「ねぇ、ヴェル=ヴォーニ様、我が家が誇る庭園をご紹介しますわ」
「ああ、ありがとう」
とっさに木陰に身を隠した。
数年ぶりに見た姉は、輝くような美しさだった。黄金の髪を優雅に巻き上げ、きゅっと眦が上がった菫色の双眸は、幼いながらも色香が滲んでいた。真紅のドレスに身を包んだ姿は、咲きはじめのバラを思わせた。
対するヴェル=ヴォーニと呼ばれた少年は、姉よりも淡い色の金髪だった。鮮やかな銀がかった黄金の双眸は優しげで、物語に出てくる王子様のような姿だった。
「…ど……しよぅ……」
姉がいる以上、話しかけることはできない。
打たれたときの痛みを思い出し、ひゅっと身が縮んだ。
うだうだと悩んでいる間にも、二人の姿が遠くなる。
後を追いかけようとしたそのとき、目の前に影ができた。
「どうしたの? お嬢さん」
柔らかな声音は、怖がらせないように慮ってのことだろうか。
屋敷の者に見つかったのかと顔を強張らせたが、屋敷の者だったらこんなに優しげな声はかけてくれないことを思い出し、恐る恐る顔を上げた。
「ふふ。冒険中ですか? 汚れが……失礼」
彼はくすりと笑うと、そっと絹のハンカチで少女の顔を拭ってくれた。
そして、ぐしゃぐしゃな髪の毛をさっと整えると、にっこりと微笑んだ。
「せっかく綺麗な髪がもったいないですよ」
「……」
年の頃は十五歳くらいだろうか。
すらりとした背丈。
腰に剣を差し、真っ白な制服に身を包んだ彼は、どこかの騎士のようでもあった。少年に負けず劣らずの美貌の持ち主を前に、少女はどぎまぎと頬を赤らめた。
こんなに優しく声をかけられたことも、
こんなに優しく触れられたことも、
こんなに優しく見つめられたことも、
――――初めてだった。
どう返していいのかまごついていると、彼はすっと片膝をついて覗き込んできた。
「どうしました? どこか具合でも?」
小さくふるふると首を振ると、彼はほっとしたように顔を緩めた。
「貴女は……失礼ですが、お名前を伺っても? 私は、ヴェル=ヴォーニ公爵家のご子息ハルフィッド様にお仕えしております騎士アシロットと申します」
「……ぁ」
なまえ……。
名前なんて呼ばれたことがないが、なんと言われているかは知っている。
きっと、それが名前なのだろう。
「ノルーシャ……」
「忌み子……?」
アシロットの眉が不快そうに寄った。
それを見て、自分の存在が不快に感じたのだと悟った少女は、舌をもつれさせながら言った。
「あ、あの……信じ、られない、かも、しれないけど……。公爵様の、馬車、の車輪に、気をつけて……っ。鼻の高い、頬に大きなほくろがある、人が、さわったあと、は、ちゃんと、確認してっ。それ、だけっ」
「あ…、お待ちをっ」
一気に言い切った少女は、パッと身を翻すと元の道を戻っていった。
心臓がどきどきしている。
こんなに喋ったのは初めてだ。
けれど、うまく伝わっただろうか?
見知らぬ少女の言葉など、だれも信用なんてしないだろう。
それでも、伝えずにはいられなかった。
少年のあの笑顔のために――――。
※ハルフィッドの瞳の色を変更しました。