序章
その日、屋敷は歓喜に湧いていた。
歴史ある伯爵家に、新しい家族が誕生したからだ。
「一時期はどうなることかと思ったけれど、奥様もお子様もご無事で良かったわ」
「本当に。お生まれになったお子様は、由緒あるベンダーラ家に相応しい髪色と瞳をお持ちだとか。今回は呪いがかからなくてよかったこと」
「ここだけの話。もし、呪いがかかっていたならば、離縁になっていたらしいわよ」
「そうでしょうとも。不貞を疑われたた先の奥様の二の舞にはなりたくないでしょうに」
「ねぇ。あの色は、呪い以外ないでしょうに」
遠慮ない侍女たちの会話は、薄い戸を隔て、中にいた幼い少女の耳にも聞こえてきた。
硬い寝台の上で、体を丸めてうずくまっていた少女は、変わらぬ己の運命を悟って静かに涙を流した。
(わたし、売られるんだ……)
今日、新しい命が誕生した。
そしてそれは、少女にとって悲劇を意味する。
なぜならば、少女は知っていた。
なぜ、忌み嫌われる自分が生かされているのか。
なぜ、家族に会えないのか。
カビ臭い薄いシーツに顔をうずめた。
(かぁさま……)
自分を産んだ母は、どんな気持ちだったのだろう。
『あんたなんか、生まれて来なければよかった! あんたのせいで、お母様は心を病んで亡くなったのよ! この悪魔……ッ。あんたのせいですべて壊れたのよッ』
耳をつんざく金切り声が消えない――。
初めて会った姉は、顔を見るなり嫌悪と憎しみをあらわにした。
少女は、姉にとって愛すべき妹ではなかったのだ。棒きれのような少女の頬を何回も叩き、狂ったように彼女は嗤った。
『二度とその汚らわしい顔を見せないで! 汚い髪、汚い目、悪魔の血が混じったあんたとわたしは違うわ。わたしは誉れあるベンダーラ家の長子アルヴァラーナ。この黄金の髪と菫色の目がその証拠よ。あんたはベンダーラ家の一員ですらないわ』
『お嬢様、それ以上は――』
『離しなさい! 奴隷をどう扱おうとわたしの勝手だわ。この子はわたしの奴隷よっ。そこらの野良と同じく朽ち果てればいいわ!』
姉の言葉は、今も脳裏に張り付いて消えてはくれない。
じくじくと痛む心。
あのあと少女は高熱を出し、寝込んだけれど、使用人におざなりに看病されただけだ。
姉はもちろん、父も会いには来ない。
(とぅさま……)
少女は、父に会ったことがない。
けれど、『視た』ことはある。
父と呼ぶにはあまりにも感情のない無機質な声で、少女に告げるのだ。
さるお方に、仕えるように、と。
そのときの少女は、まだ十になったばかりだった。
珍しい色の少女に興味を持った高貴な方が、少女を引き取りたいと申し出たのだ。
それは、養女として、ではない。
ましてや、年が七倍以上離れた老人に嫁ぐ、ということでもない。
ただ物言わぬペットとして売られるのだ。
父と呼ぶべき男性から差し出されたグラスには、赤い液体がたゆたっていた。
それを歓喜を浮かべて受け取る少女に父は言った。
『さあ、飲め。お前に声などいらぬだろう』
くつり、と嗤った目の奥に仄暗さが宿っていた。
そして、知るのだ。
父にも愛されていなかったことを。
いや、憎悪を抱かれていたことを――。
それはすべて『視た』世界でのこと。
けれど少女は知っていた。
それが未来に起こることを。
じくじくと更に痛む心。
薄暗い部屋の中とは反対に、廊下は明るい声が響き渡っていた。
「たす、けて……」
掠れた小さな呟きがこぼれ落ちた。
痛い。
寒い。
辛い。
自分が何をしたというのだろう。
ただこうして売られるために死ぬことも許されず、かといって着飾ることも、ベンダーラ家の一員として認められることも許されず生かされている日々。
「たすけ、て……」
あと五年。
あと五年もすれば、この身から声は失われ、高貴な方に売られていくのだ。