3-9
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「宜しい。それでは『一品香』喰い逃げ屋真剣勝負! スタート!」
ピッと高い電子音を響かせて、スマホのタイマーのカウントが時を刻み始める。
「いただきます」
そう言ったのは斉場少年ただ一人だったが、四人は一斉に箸を取り、自分の目の前に置かれた各々の丼へ目掛けて躍りかかる。
―――ヨシヨシ、計画通りだ。
この流れに柊は内心でニヤけている。イッタイ何が計画通りなのか。
それはこの喰い逃げ屋を賭けに持ち込んだことでもの、敗北条件をあやふやにしたことでもない。
開始の時間を遅らせたことこそが、柊の真の狙いだった。
現に左文字が料理を運んできて、柊たちと色々話をしている内に、既に時間は10分近く経過しているのだ。
つまり、その間中、料理は放っておいたままになり、徐々にその出来立てにあったものは失われていくのである。
その最たるものが温度である。
そして、喰い逃げ屋のような大食いと早食いを両方求める場合において、温度はとても重大な要素を占める。
熱さとは食べ易さに直結する。箸の進みが遅くなればその分食べることに時間がかかる上、その分腹の中で食べたものが膨れてしまう。
その上、今回の大餐ターローメンに限っては熱の要素がとても大きい。
なにせスープにトロミがあるのだから。
ご存知のようにスープにトロミがあったなら、その熱は冷めにくくなる。
その熱さは出来立ての状態であったなら、きっと食道も焼けてしまうほどのものであったことだろう。
だが、それはこの10分の時間を置いたことで大分熱を冷ますことができたはず。だから柊はほくそ笑んだのだ。
現に見た目からもわかる。運ばれてきた時にはホカホカと白い湯気を立てていた大餐ターローメンだったが、今はその湯気は出ていないではないか。
―――狙い通りだ。
柊は心の中でガッツポーズを取るのだった。
だが待って欲しい。今日の相手は麺類である。
麺類を提供されてから時間をおいてしまったらが、麺が伸びてしまうだろう。
普通に考えれば柊の作戦は悪手だろう。
だが、それでも柊がこの作戦を決行した理由はこれまたスープのトロミである。
スープにトロミが付いているという事は、スープの水分を片栗粉がたっぷりと抱え込んでいるという事。
これにより、スープから麺へと移る水分の量を最小限に減らし、麺が伸びることを抑えてくれるのだ。
さらに言えば、この大餐ターローメンの量も起因である。
量が少ないということは、丼の中にある麺の量も少ないということ。つまりは麺が伸びたとしても、高が知れているということだ。
これは単に勝機でしかない。ここに付け込まないなんて選択肢はないだろう。
だから、柊たちは何の注意も警戒もなく、勢いよく丼から麺を手繰り寄せて啜り込んだのだった。
「「「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!っ」」」
3人ともに声にならない悲鳴を上げながら、机の上でのた打ち回る。
ある者は口に含んでいられないと、せっかくのターローメンを吐き出したり、またある者は何度も口内に空気を送り込んで抵抗したり、そしてまたある者は、卓上のピッチャーから直接冷水を飲み込んでいる始末。
その惨状をタダ一人、出遅れたことで回避できた斉場少年が、周りの連中の様子から、まさかと思って手を動かす。
「嘘だろ…まだこんなにアツアツだなんて⁉」
斉場少年も心底驚いたように、先程までの凪いだ海のように湯気の一つも立っていないターローメンだったはず。
しかし、一回箸を入れて中身をかき混ぜてみると、どういうことか火山の噴火のように爆発的な白い湯気がボフンと吹き出してくる。
―――きっとこの限りだと。
「あッッッッッッッッッッッッッッッッッッチィっ!」
斉場少年は相当に注意して、恐る恐る口へと運んだというのに、無慈悲にも大餐ターローメンは熱さを以て彼の唇を刺す。
まるで赤く焼け溶けた鉄の様な熱さだ。
斉場少年は赤く腫れた唇を庇いながら湯気の勢いを少しずつ弱くしていく丼と、その白煙越しに涼しい顔をしている左文字を睨みつけていた。
―――イッタイどうなっているんだ。いくら何でも熱すぎる。
あれだけ時間を置いたのだ。微温くは成っていなくとも、食べるには支障のない温度には成っていても可笑しくはないはずだ。
それなのにこの冷めやらぬ熱気。絶対何かしらの仕組みがある。
それを確かめなければ自分たちに勝機はないと、斉場少年はグチャグチャと、丼の中身を箸で穿り返した。
「あああ、酷い事しますね」
斉場少年のその所業に、流石の左文字も眉を潜める。
だが、そんな事は気にしてはいられない。こちらは死活問題なのだ。多少の無礼と行儀の悪さは目を瞑ってもらわなくては。
「! これか」
そうして斉場少年が見つけたのは、丼の底にある黒い鉄のような、石のような、何やら解らない塊であった。
だが、それがとてつもない熱を湛えていることは、斉場少年が一見しただけでもハッキリと解ったのだった。
その塊は覗き込むだけで遠赤外線としてその熱が斉場少年の顔を焼く。
その塊に触れたトロミスープは、ジュッ! と高い音と立ててモウモウと立ち込める白い湯気へと形を変える。
まるでマグマと海の狭間みたいだ。
斉場少年が子供の頃に一度だけ家族で行ったハワイ島。その海岸で今まさに海へと雪崩込む赤い溶岩が海を焼いて白煙を立てている様子を思い出した。
「…いかん! そんな事を考えている場合じゃない!」
丼の中に繰り出される壮大な景色に我を忘れかけた斉場少年だが、そんなことに気を遣っていたら、喰い逃げ屋ではとてもじゃないが潰されてしまう。
「オヤ? アノ子、仕掛けに気が付いたみたいネ」
「そうみたいですね」
その様子を見て厨房の陳さんが左文字に語りかける。
「丼の底に仕込んだ焼け石。これによってスープは常に加温された状態になり、どんなに時間を置いたとしても、熱々のまま冷めやらぬという寸法ですよ」
「ヨくテレビの情報番組とかデ、スープが冷めたラ焼け石ヲ入れて温めるラーメン屋が紹介されてイルけども、それの応用ネ」
「その通り。しかもこの焼け石は、丼にピッタリと張り付いているのだから、取り出すなんてことは出来ないのですよ」
「フフフ、左文字サンもワルだねぇ」
「いえいえ、こんなの序の口ですよ」
褒められたと思ったか、照れたように頭を掻いている左文字だが、陳さんは呆れた表情をして苦笑いする。
「しかし、ソレでもこんなに早く焼け石の仕掛けニ気づかれるとは思っていなかったナ。アノ子、幼く見えるけれドモ、かなり注意深いネ」
それはそれとして、陳さんは斉場少年が見せた、その洞察力と危機感知能力に舌を巻いている。
そもそも、彼だけが丼に特攻しなかったため、ほかの3人とは違ってターローメンの一口目で悶絶しなかったし、先ほどだって真っ先に焼け石に気が付いたのは誰あろう斉場少年なのだから。
「彼ですが、私の見立てが正しければ、彼は逸材ですよ」
左文字としても斉場少年のことは高く買っているらしく、その語り口には何やら期待のようなものが覗いているように聞こえる。
「ヘェ、随分ト気に入っているんダネ」
「まあ、私も彼とは何度か話を交わしたものですから、感情移入でもしてしまったのかもしれませんね」
左文字としても斉場少年のことを大いに気に掛けているらしく、悶絶する他三人の事など一向に目もくれない。
その視線が優しさに溢れた、左文字が滅多に見せないものであった事に、陳さんは何かしらピンとくるものがあった。
「チョットいいか? オマエが女装シテ会っていたのっテ、あのサイバとか言う少年だったんだよナ?」
「そうですよ。それがどうかしましたか?」
左文字に顔を寄せて、ヒソヒソと声を抑えながら問い質す陳さんに、左文字は何で陳さんがこんな質問をするのか解らないと言ったように、頭に疑問符を浮かべながらアッケラカンとした感じで答えを返す。
「マサカ…マサカとは思うガ、お前さん、あの少年にラブになっちゃったんジャ無いだろうナ?」
「…ん? 何を言っているんですか?」
「イヤ…女装シテ、メスになっちゃったトカ」
「もう、そんなどうしようもない事を考えていないで下さいよ。陳さん。そんなことを考えている暇が少しでもあったなら、もっとこの食い逃げ屋に集中して下さい。ほら、見てください。動きがありますよ」
陳さんの質問を些細なことだと切り捨てた左文字。その指差す先にいる挑戦者たち4人に新たな展開が起ころうとしていた。
―――そっちがその気なら、構っていられない。
何かを覚悟したように、斉場少年はカッと目を見開くと、テーブルの上にあるピッチャーへと手を伸ばす。
「チョっ! マッ! おまッ! 俺の水!」
ピッチャーの水を抱え込むようにして飲み下していた粟田が慌てて文句を叫ぶが、斉場少年は聞く耳を持たずその蓋を開ける。
粟田が殆ど飲み干してしまったためか、ピッチャーの中には水は少なく、氷ばかりがガラガラと音を立てて詰まっているのみだった。
―――けれども、問題無いな。
ニヤリと笑った斉場少年は、何を思ったのだろうか。勢いもそのままにピッチャーを傾けると中の氷を一斉に、マグマ波打つ丼の海へとダイブさせたのだった。
「ああ、ヤッパリそうなりますよね」
斉場少年の行動を見て、左文字も思ったとおりだと頷いている。
「オイオイ、スープの味が変わってしまうゾ」
一方、陳さんは困惑したような、怒りを覚えているのような表情で左文字と斉場少年を交互に見返している。
「まあ、作った陳さんからすれば腑に落ちないことかもしれませんが、あれは熱いものを早く食べる時の常套手段ですよ」
不満を漏らす陳さんに、左文字がそれを嗜める。
どんなに熱い料理だとしても、水や氷などもっと温度の低いもので薄めてしまう。
そうすることで空気で冷ますよりも早く、そして確実に料理の温度を下げてしまうことができるのだ。
だが、それは料理を手塩にかけて作ってくれた料理人への冒涜にもなる。
それもそうだろう。言うなれば画家が丹精込めて書き上げた絵に、遠慮無く墨汁を垂らすような所業なのだから。
だから陳さんは怒っているのだ。
「とはいえ、それはあくまで禁じ手。喰い逃げ屋の心意気がある人間だったならばまずは取らない手ですがね」
斉場少年の行いに苦笑いをする左文字に、「アイツ見所なんてナイよ!」とチンさんが悪態を付いてくる。
「そうか! そうすればイイのか!」
「やるな斉場よ!」
「頭イイな!」
斉場少年がとった行動を見て、柊たちも続けて真似をし始める。
各々ピッチャーの中の氷を丼の中にブチ込み、足りなくなれば左文字に怒鳴り散らしては、他の席のピッチャーを持って来させる。
そうやって丼の上には具材の野菜やかきたまよりも、氷の方が山と積まれたターローメンが出来上がっていった。
「フハハ、これであのマグマのような熱さも無くなった!」
「やっと普通に食べられるな!」
「覚悟しやがれってんだ!」
「彼ら調子が出てきたみたいですね。…それはそうと、チョットだけ落ち着いてもらってイイですか? 陳さん」
急にイキりだす3人に向けて、陳さんが今まさに中華包丁を持って殴り込みに行こうとしているのを左文字が何とか宥めている。
「離すネ! 今晩は『豚の叩き』って決めてるネ!」
「怒りはご尤もですが落ち着いて。機会はちゃんとありますから」
数分に渡る揉み合いの末、陳さんは「コレだから喰い逃げ屋なんテやりたく無かったノヨ」とブツブツ言いながら厨房へと帰っていく。
―――まあ、そう言ってくれなさるな。陳さんよ。
憤慨するその背中を見送って、左文字は申し訳ないと思いつつも、仕方がない事なのだと割り切って再び挑戦者たちに目をやった。
「よし、大分冷めてきたようだ」
斉場少年がグルグルと掻き混ぜる丼の中身には、大量にぶち込まれた氷は既にその姿は無かった。
代わりにどんなに掻き混ぜても、モウモウと立ち上っていた白い湯気もマッタク出ることは無く、完全に冷め切っている事が見て取れる。
それはどんなに熱く熔け落ちる溶岩であっても、大海原に浸かってしまえばどうあっても冷めてしまう。
そんな自然の摂理を見ているようだった。
この結果に斉場少年は思わずニヤリと口角が上がる。
―――やったのだ。やってやったのだ。
喰い逃げ屋の大御所である左文字が繰り出してきたその妨害行為。大餐ターロー麺の熔鉄の如き灼熱を乗り切ってやったのだ。
最強の喰い逃げ屋と聞いていて、恐れを成していた左文字だが、その手管も自分たちは適切な対処によって乗り越えることが出来るのだ。
それが解っただけで、斉場少年の心象は、暗闇を割いて一条の光が差し込んできたような、希望の光、救いの梯子が掛かるようだった。
そうだ、そうだとも、対処法さえ間違わなければ何とかなるのだ。
そう思って斉場少年は、したり顔で左文字の事を見やるのだが、当の左文字はアルカイックスマイルでこちらを見返しているだけだった。
―――ああ、コレからが苦難ですね。
したり顔の斉場少年がこちらを見ている事に左文字も気が付いていたが、その表情がすぐさま崩れ落ちることに成る事は、今の左文字には容易に想像することが出来る。
なにせ、彼らはスープを冷ましてしまったのだから。
そして、左文字が想像した通りの展開が、数秒もしない内にその目の前で展開され始めたのだ。
「ぅ…これは!」
斉場少年はその手応えの変化に驚愕したのだった。
先ほどまで若干のトロミは有ったものの、掻き混ぜるには問題ない粘性土であったターロー麺のスープ。
それが宛ら蝋のように固まって、箸を捕らえて離さない。
海に落ちた溶岩はどうと成る? それは固まり岩と成る。
これもまた自然の摂理なのかと慌てふためく斉場少年たちの表情に先ほどまでのしたり顔は既になく、蒼白になって見るも無残であった。
「まあ、そうなる様に仕向けたのは私なんですがね」
悪びれもせず、いけしゃあしゃあとそう宣う左文字。
それもその筈、この大餐ターロー麺。それをピンからキリまでプロデュースしたのは誰あろう、左文字本人なのである。
だから、挑戦者である斉場少年たちが、この大餐ターロー麺に対してどんな手を打ってくるのか、そしてその手段に対してどんなカウンターが発動するのか、まさに手に取るように解るのだ。
それ故に、今まさに斉場少年たちが動揺して驚愕しているスープに起こった現象も、単に左文字の仕業である。
「なんだぁこりゃぁ!」
「ドロドロってレベルじゃねぇぞ!」
「イッタイ何がどうなってやがるんだ!」
左文字の狙い通りにワチャワチャと、縄張り争い真っ最中の猿山の様な騒々しさを見せる柊達三人。
その中でただ一人、斉場少年だけが冷静に丼の中の様子を、マジマジと真剣に一点集中して眺めていた。
「何だろう、このトロミ…。普通とは何かが違う」
「あぁ? 違って当たり前だろうよ!」
「そうだぞ。冷やしただけでこんなにドロドロに成るなんて、普通じゃあり得ない話だろうが」
「きっと何か不正をしているに違いない。文句を言ってやる」
左文字を悪と決めつけて、文句と共に拳を見舞おうとする粟田だが、「それは聞き捨て成りませんね」と左文字の方からやって来た。
「どうにも君たちは何か私たちが食べられ無い物でも入れているんじゃない、などと思っているんじゃありませんかね?」
「…そ、そうだぞ。それ以外に何が有るって言うんだ」
「普通に考えてこんなの何か変な薬でも使っているんだって思うだろうがよ!」
「不正だ! ズルだ! 金返せ!」
「まあまあ、まだ君たちからは1円も貰っていないでしょうが」
ヤレヤレと言った感じで左文字は猛り狂う柊達を冷静に宥めている。
「確かに、そのスープは冷えればドロドロに成る様に工夫はしました。けれども誓って食べられ無い物や、普段使われない様な変な薬を使ってなんかしていません。無添加無着色、『医食同源』の名の下に体と健康にイイものを提供することが、この陳さんが命を賭ける『一品香』の心意気なのですから」
それに呼応するように、厨房にいる陳さんが自信たっぷりと言った様子でユックリと頷いている。
「だったらイッタイ、この状況は何だと言うんだ!」
それでも食って掛かる柊が、丼の中を見せつけると、そこには普通のラーメンでは考えられない様な状況が出来ていた。
斉場少年自身、これについては明確にしておきたかったことだ。
散々スープが固まっていると言ってきたが、その固まり方が明らかに常軌を逸したものとなっている。
例えるならば干ばつに喘ぐ大地の様に、表面にはいくつものひび割れが生じており、突き崩すとモロモロと崩れ落ちてゆく。
これがとても数分前にはトロミは有っても液体として流れていたスープだったとは、見ていなければ信じられはしないだろう。
―――しかし、この様子、このひび割れ。何処かで見たことある様な。
そんな中、斉場少年の記憶の中には、このスープの惨状が引っかかるのだが、今一思い出せないでいる。
―――あと少しで出て来そうになっているのに、それが解れば何とか成るかも知れないのに。
未だに左文字に食って掛かる柊達を置いてけ堀にして、深く考え込む斉場少年。
その様子に柊達を丁重に躱しながら斉場少年を見守っていた左文字は、ニコリと微笑んで呟いた。
「何度も言っている様に、その料理には食べられる物しか入っていません。むしろ身近な物しか入っていませんよ」
「あぁん! そんなの信じられるかよ」
「片栗粉でこんな風に、こんな事が起きる訳無いじゃないか!」
「絶対に何か別な物を入れてやがる。それを教えろって言っているんだよ!」
「目の付け所がイイですね。確かに、今回の大餐ターロー麺には片栗粉を使っていません。別なものでトロミを付けているのです」
「ヤッパリ! それが変な薬品だってことだろう」
「まさか、…ただの白い粉ですよ」
それを聞いて火に油。余計に苦情が燃え上がる柊達だったが、悩んでいるところにヒントを与えられた斉場少年の脳内は、より一層冴えていくようだった。
―――片栗粉じゃないって、そんなまさか。
―――他にトロミを出す材料なんてあったのか?
――― ! だったらゼラチン…。いや、違うな。このスープはゼリーみたいに成っていないし。
―――他に、トロミのあるスープと言えば…。
そこまで考え込んだ時、斉場少年は子供の頃の記憶がフラッシュバックした。
「…小麦粉だ」
その言葉に皆が斉場少年の方を向く。
その言葉に左文字が一人、ほくそ笑む。
「小麦粉って、どう言う事なんだよ。説明しろよ、斉場!」
「思い返してみてくれ。覚えがあるだろう? カレーやシチュー、そのトロミは片栗粉じゃない、小麦粉のルーから出来るトロミだってことを」
「…! そうか、そうだとも。覚えがあるぞ。このトロみ方、一晩置いて冷めたカレーのそれじゃないか!」
斉場少年がこの答えに辿り着いたのも、まさにその経験が有ったからである。
まだ幼き日の彼が家族と共に食卓を囲み舌鼓を打ったのがカレーライス。
『一晩置いたら美味しくなるのよ』
母がそう言って余ったカレーのルーを鍋に入れたまま一晩寝かせたが、幼い斉場少年は待ちきれなくなったのか、コッソリと夜にベッドから抜け出してカレー鍋の様子を見に行ったのだ。
するとどうだろうか、あれほどトロトロと舌触りよくライスに万遍なく絡んでいたはずのカレーが、まるでクレヨンの様な、モロモロとした塊に成っていたのだ。
不思議に思った斉場幼年は、鍋に溜まったクレヨンの様なカレールーを、指で削いで舐めてみた。
その味は今も何となく覚えている。
妙にギトギト脂っぽくって、舌触りもネチャネチャとして悪く、口の中にベッタリと残っては、とても美味しく感じられない。
これが本当に晩に食べたカレーと同じなのか。斉場幼年は渋い顔をしながらも、新しい発見をした喜びが有った。
『チョット! 翔ちゃん、何やっているの!』
そんな所を母に見つかって、後で父から手酷く起こられたことも、またイイ経験ではあったのだが。
「つまりは、固まり方の違いなんですよね」
挑戦者たちの様子を見ながら、左文字は厨房の陳さんに語りかける。
「一般的に中華料理で使われるトロミ付の食材は片栗粉なのですが、これには冷めるとトロミが無く成るという性質が有るのですよね」
「『水戻り現象』という奴ネ。料理人なら常識ね。マァ、私ガ作る料理にハ、そんな事が一切ないと言い切れルけどネ」
これについては陳さんの方が詳しいだろうから,敢えて深くは語らない左文字。
「それでもって、あれだけの氷や水を一気に入れたりなどしたら、どんなに美味く火を通したとしても、片栗粉であるならばそれこそシャバシャバに成る。けれども、小麦粉は違います」
「ソレデモ、ヤッパリ料理人として、小麦粉ハ使いたく無かったヨ」
料理人としてのプライドが。美味しい物を良い物を提供しようとするその心意気が、最後まで陳さんに小麦粉を使わせることを躊躇わせていた。
「まあ、今回だけですよ。責任は私が持ちますから」
左文字も陳さんのその誇りを傷付けてしまった事には少なからず申し訳なく思ってはいるのだが。
「シカシ、奴らネバるネ」
何とか気を取り直した陳さんは、未だに大餐ターロー麺と格闘する斉場少年たちを眺めて呆れ顔に成る。
「そうですね」
左文字もそう言うように、彼らがいま食べ進めている大餐ターロー麺は見るからに拙そうで、見ているこちらが胸焼けしそうだった。
―――うぶッゥ…、込み上げてくる。
それは喰っている斉場少年自身が,いま最も感じている感覚だった。
ギトギトに固まった油と小麦粉の塊を、生のまま齧る。
そこに加えて水が入れば、腹の中身は水と油。相容れぬ二つが起こす大戦火は、斉場少年の胸を、食道を焼き尽くしてゆく。
しかもこのルー化したスープ。ネットリと麺に絡んで離れない。
暖かであった頃の粘性ならば、啜るときにある程度拭うことは出来るのだが、この蜜蝋の如きスープはそれが叶わない。
むしろ麺のみを掬おうとしても、丼の一角がゴッソリと持ち上がるほどの絡みつき方をして見せる。
これでは嫌が応にもルー化したスープごと食さなければならなくなるのだ。
まるで少しずつ、泥が腹の中に溜まっていくような感覚だ。
こんな感想が出てくるようでは、とても食欲が起きる訳も無い。
それでも、斉場少年がその箸の進みを止めなかったのは、単にせめて自分だけでも完食せねばと言う思いが強かったからだ。
「アー無理ムリ。こんなの人の喰いもんじゃねぇヤ」
「ほとんど食ってねぇな俺ら」
「ギャハハ! ヒデェ残飯だ」
柊達三人は既に食べることを諦めており、マッタク箸を動かすことなくお互いに駄弁っては時間を潰している。
きっと彼らは何時もの如く、難癖付けてはこのまま逃げへと強行しようとする算段なのだろう。
だから、どんなに残しても平気な顔して笑えるのだ。
―――こいつ等、賭けの事を忘れているんじゃないだろうか?
自分だけは忘れていない。左文字に対して柊たちが自分を巻き込んで交わしてしまったあの賭けの約定を。
もしも負けてしまったら、自分はイッタイどれほど恐ろしい要求を突きつけられてしまう事やら。
想像しただけで、斉場少年は心胆寒からしめてしまう。
それを逃れるためにはこのヘドロの如き大餐ターローメンを食しきらなければならない。
そうでないと救われない。
宛ら地獄の責め苦に耐えて、煉獄の炎で焼かる禊の中で、天国への階段を夢見るような、実に生きた心地のしない一時だった。
そんな斉場少年の様子を仏のような面構えで見守っていた左文字は、店の壁に掛けられている時計を眺めた。
「あと、残り5分です」
左文字が発したその言葉に、斉場少年が思わず顔を上げ、左文字の方を見てしまう。
―――残り5分? これを? 5分?
思わずその手が止まってしまった。
斉場少年の目の前には、ようやくその全体の半分の量を食べ切った、ヘドロ状の大餐ターローメンが巌の如く転がっている。
氷を入れた件が有ったとはいえ、喰い逃げ屋真剣勝負を開始してから25分。漸く以て辿り着いた1/2である。
―――これは、もう…。
ダメなのではないか。斉場少年はそう心に過りかけた。
だってそうだろう。あれだけ苦しい思いをして食べてきた量を、それと同じ量を残り5分で食べなくてはならないなんて。
周りを見てみたって、柊たちはこの料理を残すことに何ら罪悪も危機も感じていないのだから、頑張る自分がバカみたいじゃないか。
それに、そもそも、こんな喰い逃げ屋なんて馬鹿げたことを真剣にやって何に成る。
何かの商品が出るとでも言うのか?
それとも誰かが自分の事を誉めてくれると言うのだろうか?
『喰い逃げ屋をやるなんて、斉場君は凄いのですね』
―――なんでこんな時に文さんがチラつくんだよ。
それはむしろこんな時だからだろう。喰い逃げ屋を愛する文さんならば、斉場少年の健闘を誉めてくれるだろう。
―――逆に諦めでもしようものなら。
そう考えて睨む先には、左文字がジッとこちらを静観している。
そうとも、左文字と文はおそらく血縁者。自分が無様な姿を晒そうものならば、きっと左文字の口から文さんの耳へと入るに違いない。
『ごめんなさい。斉場君には失望しました』
そんな悲しい言葉は、どんな苦しみを選ぼうとも聞きたくはない。
「うぁぁぁぁぁぁあ!」
腹の底から喉を突き破り、獣の如き雄叫びを上げて、斉場少年は再び大餐ターローメンへと立ち向かい始めた。
「おいおい、斉場、どうした?」
「無理すんじゃねぇよ」
「お前、次もあるんだぞ⁉」
我武者羅な姿勢を見せる斉場少年に、柊たち3人が驚いたように次々と、困惑したように声を掛ける。
しかし、それに対して斉場少年は全く以て耳を貸さない。
どうせ、奴らは自分のことを心配などしていないのだ。自分たちは残す気満々なのに、斉場少年だけが喰い切ること。それがバツの悪さを覚えるのだ。
だから、斉場少年も自分のためにやることにした。
食い切ったことで得られるだろう、文さんからの労いの言葉を。その金にも宝石にも変え難い至言を。
それだけが斉場少年を突き動かし、周りを見えなくさせていた。
だから、左文字が満足そうに微笑むことにも気が付く余裕も無かったのだ。
「うわ、うわうわうわぁ」
「マジかよ…」
「お前、そんなに食えたのか」
獅子奮迅鬼気迫る。顔を真っ赤にしながら一心不乱に大餐ターローメンを食らい尽くす斉場少年に、柊たちは唖然としながら溜息交じりに声を出す。
食べる事から逃げ続けて来た柊たちには、どうして斉場少年がここまで料理を食べられるのか、そしてどうして箸を止めないのか。その理由をマッタク以て理解できる訳も無かった。
ただ、斉場少年が放つ気迫と真剣さだけは肌を切る程に感じることは、柊たちにも自然とできる事だった。
静の空間に動が有る。猛烈な斉場少年の一念は、やはり巌を貫くのか。
斉場少年が橋を動かすたびに、半分以上あった大餐ターローメンは少しずつ丼の中から姿を消していく。
「ハァぁ、アンナ小さい子ガ頑張るネ」
「そうでしょう、陳さん。だから面白いんですって」
この姿勢は敵であるはずの追手組、左文字と陳さんの胸を打った。
―――あと少し、あと少しで。
斉場少年がその意識をもうろうとしながらも橋を止めずにいた結果、丼の中身は徐々にその量を減らしていく。
そして奇跡とでも言うべきか、到底無理と思われた残り1/2の大餐ターローメンは、既に数口で食べ終えるところまで迫ってきていた。
「嘘だろ…」
「信じらんねぇ」
「見てて腹いっぱいになって来た」
柊たちも思いもしなかった斉場少年の健闘に言葉を無くしている。その一心に見つめる眼差しは、言葉にしなくとも彼を応援しているかのようだった。
「残り1分」
左文字の言葉が見せに響く。
「おい! 折角ここまで来たんだ」
「絶対全部喰ってやれ!」
「頑張れってんだよぉ!」
自分の事は棚に上げ、遂には斉場少年を応援し始める柊たち3人。
しかし、斉場少年はそれすらも耳を貸そうとしなかった。
いや、正しくは聞こえてすらいなかった。
心身ともに極限までに追い詰められた斉場少年。今の彼にあるのは己が身一つと食すべき大餐ターローメンのみ。
それ以外の物は一切入り込む余地のない、集中の狭間に有ったのだ。
だから、どんなに急かされても箸の進みを早めることはしなかった。けれども、絶対にとめることはしなかった。
「残り10秒」
カウントダウンを始める左文字。だが無心に食べ勧めた斉場少年の丼には、残り3口が有るのみだった。
後は掻き込むように流せばいい。
29分57秒。それが斉場少年が叩き出した、大餐ターローメンを完食したタイムであった。
「斉場! お前すげえじゃないか」
「なんか感動しちまったよ」
「お前トンデモナイ奴だったんだな」
斉場少年の勝利に柊たちも浮足立って彼のことを褒め称える。
それが何だか嬉しくて、どうしようもなくこそばゆくて、苦笑いを浮かべる斉場少年は手に持っていた箸を置こうとした。
その刹那、斉場少年が糸の切れた人形の様にしな垂れかかる。
―――ああ、きっと燃え尽きてしまったのだろう。
斉場少年自身そう思う様に、彼は全力で大餐ターローメンに立ち向かった結果、全力を尽くしてしまったのだった。
だから斉場少年は線香の白灰の様に崩れ落ちようとしていたのだ。
「おい、シッカリしろ!」
これにはさすがの柊も驚いて、斉場少年を助け起こそうと手を伸ばす。
しかし、その手は届かない。それどころか、柊も体勢を崩して倒れ込んでしまった。
この現象に訳も解らず顔を見合わせる粟田と木部良。しかし、その理由が解るのはその身を以て数秒もしない内だった。
「! 何だこれ、立ち上がれない!」
「靴が、あと椅子が張り付いている!」
二人がそう言う様に、彼らの靴は床と、そして尻は椅子とガッチリくっ付いており、どんなにジタバタ暴れても、一向に剥がれる気配はない。
それは柊と斉場少年も同じこと。二人とも床に倒れ伏していると言うのに、足と床、尻と椅子が離れないから変な格好になっている。
「おい! 何だこれ! イッタイ何をしたんだ!」
こんなこと自然にある訳が無い。
戸惑いと怒りが綯交ぜに成った柊の声が向かう先は、もちろん追手組の左文字である。
「ああ、気が付かれましたか」
それに受け応える左文字の様子はあまりに冷たかった。
―――何だアイツ…。あんな奴だったか?
柊が一目でそう感じるほどに、左文字の雰囲気は豹変していた。
先ほどまでの左文字には、腹に一物あるだろうが、それでも話せば解る様な、人の範疇にある安心感が残っていた。
だが、今の左文字にはそれすら残っていない。それは左文字では無くマッタク別の何かにさえ見えてしまうほどに。
血の気が通っていないと言うのか、人と話している感覚さえない。何か得体のしれない悪意の塊がそこに有る。
そんな雰囲気を纏った左文字がニヤリと笑い、突き破りそうになる愉悦を押し殺した声で説明し始める。
「君たちはやり過ぎたんですよ。燥ぎ過ぎたのです。確かに喰い逃げ屋は外道の業です。大手を振って歩けない日陰者です。ですが、其処にも通すべき『筋』が、最低限のルールが有るのです。それを無視した貴方がたは、もはや人でも何でもなく、外道にも劣る畜生だという事なのです」
「じゃ、じゃあこれも?」
「ええ、私がそれをやりました。どうです? 最近の瞬間接着剤は強力でしょう?」
まさかそんなものが仕掛けられているなんて、意識を取り戻した斉場少年は状況を把握して大いに焦っていた。
確かにこの『一品香』、床も椅子も店の中の何もかもか油でコーティングされており、ヌルヌルツルツルとした触感に成っている。
それは店の入り口から席に座るまでの間、ずっと刷り込まれてきた事実であったがために、椅子の下と座面に仕込まれた接着剤の粘つきにも何ら不信感を得ることが出来なかったのだ。
そうで無ければ普通は気が付く。だって違和感しかないのだから。
「おい! こんなことをして許されると思っているのか!」
「明らかに傷害だぞ、これ」
「訴えてやるからな!」
己が置かれている危機的な状況と、それを仕掛けた左文字の悪辣さに柊たちが声を上げて左文字の事を罵倒する。
しかし左文字は涼しい顔。それどころか氷のごとにその無表情から、さらに冷めた眼差しを突き刺してくる。
「ええ、悪いと思っていますよ。イケナイ事だと十分に理解しています」
「…なん、え?」
「ですが、貴方がたが無法に訴えると言うのなら、こちらも無法で饗のが、外道の流儀ですので、悪しからず」
「…え」
「ああ、それから、警察云々と仰っておりましたが、ご心配には及びません。これは内々で解決いたします。御上が出て来る間もないほどに、万事丸めて処理しますので、心置きなく…ね」
「!!!ッ」
そこまで聞いて4人が全員、己のいま置かれている立場が最悪な事を完全に理解することが出来たのだった。
―――ヤバいヤバいヤバすぎる!
自身の実の危険を察知した斉場少年は、何時までも燃え尽きている場合ではないと、完全に覚醒して身構える。
兎にも角にも、此処に居ては危険なのだ。それだけは生物的本能で即座に答えの出たことだった。
宛ら罠にかかった獲物のようじゃないか。
蜘蛛の巣に掛かる夢見鳥、延縄に掛かる出世魚。どれも命を守るべく暴れてもがき苦しむが、捉えたその手に慈悲は無く、後は貪り食らうだけ。
そんな状況に今まさに自分たちが陥っている。そのことが斉場少年を顔面蒼白にさせるのだ。
「さて、食べ終わってから大分経ちますが、どうします? 逃げに移るのであればこれから30秒数えましょうか?」
それは余裕から出てきた言葉なのか、左文字は喰い逃げ屋の続行を、『逃げ』に移る意思はあるかと聞いてくる。
「バカ言うな。お前が逃げられなくしたんだろうが」
「このサディストが!」
「ぶっ殺してやる!」
威勢だけは萎えていない柊たちが、そう言って左文字の事を罵倒するが、これに左文字は「カカカカカッ」と乾いた笑いを返すのみ。
「いやいや、私はまだやるかと聞いただけですよ。もしもここで貴方がたが諦めると言うのであればそれでも結構。むしろ其方の方が,私の手間が省けますがね」
余裕綽々、勝ったも同然。獲物を前に舌なめずりをする肉食獣の心境で、左文字は挑戦者たちを煽るような言葉を紡ぐ。
「ですが、まあ、まだ喰い逃げ屋は続いているのですよね。こちらが筋を通すことを口にしたんですから、それは通さなければなりませんし。だから、もし、貴方がたが此処から逃げ切ることが出来たのなら、これまでの事は不問としましょう」
「何だって?」
「俺たちのことを許すっていうのか?」
「嘘じゃないだろうな?」
思いがけない申し出に4人とも左文字の方を凝視する。
「二言は有りませんよ。どうします? 続けますか? それとも諦めますか?」
そんな事、選ぶまでも無い。
4人の誰もがその左文字の問いかけに返答はしなかった。代わりに命がけで接着剤との格闘を再開し始めたのだった。
「なるほど、これは合意と見てよろしいですね」
左文字も何やら満足げにそう言うと、手に持ったスマホのタイマーを確認する。
「それでは、制限時間は30秒。フフフ、精々頑張って下さいな」
斉場少年たちのもがき苦しむ姿が楽しくて仕方がないとでも言う様に笑う左文字は、スマホをススッと操作する。
そして、ピッと言う電子音の後、4人の運命を決める30秒が始まったのだった。




