3-7
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「そうなんですか!? 斉場君は『喰い逃げ屋』をやっているのですか」
斉場少年が始めて伯爵のピザトーストを食べたあの日から数週間。彼と文とは幾度かの逢瀬を交わしていた。
今日も二人は連れ立って『ロサ会館』へ映画を見に行ってきた帰りであり、逢瀬の終わりには決まって『伯爵』に立ち寄っている。
「そうなんですよ。今のはやりに乗っかってというわけです」
二人の目の前にはいつもの注文するようになったピザトーストセットが置かれており、斉場少年は楽しげに文と語らいながらそれを少しずつ齧ってゆく。
そして、通いつめた事でコーヒーの味を覚えた斉場少年は、その香り高い液体で口に残った濃厚なトマトソースを洗い流す。
その一連の所作がなんとなしに自分を大人にしているようだった。
「カッコいいのですね。憧れてしまいます」
「いやいや、そんな大層なことじゃありません」
けれども、そんな大人ぶった余裕も、文に掛かればバナナの皮を剥くよりも簡単に剥されてしまい、年相応に浮き足立った斉場少年に戻ってしまう。
しかし、文が喰い逃げ屋に詳しいとは。それ以上に熱心なファンであることは、思っても見ないことだった。
そんな文に褒められると、自分でもなんだが喰い逃げ屋というものが、凄いことをしたような気がして気が大きくなる。
「この前なんか、駅前の牛丼屋で喰い逃げ屋をやりまして、余裕で勝ちました」
そして自然に嘘を吐いた。
確かに斉場少年たちは芳野が経営する牛丼屋で喰い逃げ屋を働いた。しかし、それはとても胸を張れるような試合ではなかった。
普段の斉場少年ならば公言することも憚るだろうが、どうしても喰い逃げ屋のファンだという文の気を引きたくて、そんなことを言ってしまった。
そこから先は目も当てられなかった。
雪玉が坂を転げ落ちるように、話の大きさがドンドンと大きくなってゆく。
ヤレ負け知らずだの、ヤレ十人前のとんかつを食べ切っただの、ヤレ五十人の追っ手組を相手にしただのと、出来もしない根も葉もない事を、歯の浮くような言葉で語ってしまう。
宛ら栓の壊れた蛇口のようだった。
「本当に強いのですね。斉場君は」
そして、文はそれを真に受けているようで、その羨望の眼差しを浴びていると、どうにも歯止めが効かなかった。
実際はというと、未だに柊達のイイように使われるまま、『喰い逃げ屋』とは到底呼べないような悪行の限りを尽くしているのだが、それは口が裂けても文に言うことはできるはずもない。
言ったら最後、幻滅されることだろう。
そんな後暗さを隠しながらも文に語って聞かせるこの時間が、斉場少年には歪んでいながらも幸せな時間だった。
「それでしたら」
心地よく語り尽くす斉場少年の言葉を切って、文が何か思い付いたかの様にそう呟く。
「斉場君も一廉の喰い逃げ屋でしたら、『喰い逃げ屋 左文字』のことはご存知ですか?」
左文字の名前を耳にして、斉場少年は何かを思い当たる。
―――確か、何処かで聞いたことがあるような。
何か喉の奥に痞えた小骨のような、そんな取っ掛りを覚えるその名前を思い出そうとするが、何だか思い出さない方が幸せな感じがする斉場少年。
「ほら、この人が左文字さんですよ」
しかし、文から突き出されたスマホの画面に映された写真を目にしたら、嫌が応でも思い出してしまう。
「ああ、この人ですか」
―――あの時の変人じゃないか。
左文字が記憶と繋がって、斉場少年の表情は険しいものへと変化する。
何時ぞやの池袋大橋で自分を突き落としかけたこの人物。それが左文字だということは以前確かに聞いていた。
しかし、脳が拒絶していたのか、それとも記憶に封をしていたのか、ついさっきまでスッカリ斉場少年は忘れおり、思い出したくもなかった。
「どうやらこの左文字さんという人は、喰い逃げ屋界隈ではかなり有名な人なのだそうですよ」
「…らしいですね」
「おや、流石は斉場君。既にご存知でしたか」
「というか、その、会ったことがあります」
「ええ! それは益々スゴい。アレですか? 喰い逃げ勝負でもされたのですか」
「まあ、そんなところです」
まさか殺されかけたとも言えるはずもない。
「ソレで、どんな人でしたか? 左文字さんって。有名な喰い逃げ屋なのですから、きっとスゴい人なんでしょうね」
文がそう言って左文字についてのイメージを聞いてくる。
そうか。きっと文は左文字に合ったことがないのだろう。だから、そんな夢見がちなことを口にするのだろう。
「いいえ、何と言いますか、変な人でしたよ」
だから、直接会った時に後悔させるよりかは、今ここで自分が率直に感じた左文字の印象を伝えておくべきだろう。
そう考えた斉場少年は、オブラートに包むことなく、左文字について語りだす。
男か女か解らない得体の知れなさ。喰い逃げ屋を趣味ではなく職業としていることの胡散臭さ。そして追っ手組に捕まった後の往生際の悪さなど、斉場少年が覚えたマイナスの印象を包み隠さず文に伝えた。
「ですから、正直関わり合いに成りたくないですね。あんなのと同類にされるなんて同じ喰い逃げ屋として恥ずかしいです」
冗談交じり、そのつもりで斉場少年は左文字のことを蔑んだ。
この語り口、柊たちとのやり取りで染み付いたものだろう。
人を嘲って悦に入る。実に下卑た話だが、斉場少年の周りではこれが当たり前になっており、何も可笑しいとは思わなかった。
「…そうですか」
だから急に文さんが不機嫌な態度を見せた理由が解らなかった。
―――何でこうなる? 柊たちは笑うのに。
それでも自分に落ち度があったことくらいは理解できた斉場少年は、イッタイ何がいけなかったのか、それを考えだした。
―――ヤッパリ左文字をディスったのがいけなかったのだろうか?
明らかにその前後で文さんの態度が豹変しているのだから、そこに原因があるのだとかんが言えることは自然だろう。
―――何で文さんが、左文字なんかで臍を曲げる?
そこがイッタイどう繋がるか、それが解らず斉場少年はなんとかその理由を探し出そうとした。
そして今一度、斉場少年は左文字の写真に目をつけた。
相変わらず得体の知れない人物だ。
映し出されたその写真も何処となく解像度が悪く、顔の輪郭が若干ボヤけており、その身に纏ている半纏の、染め抜かれた㊧の印だけが鮮明に映し出されている。
そして、幾らスワイプしたところで、同じようにボヤけた写真が永遠に続いているのだから、薄気味悪いったらありはしない。
―――何か写真の機械を狂わせるものでも出ているんじゃないか? コイツ。
そう思えてしまうほどに不可解な写真写りの悪さの左文字だが、それを見ている内に何となく違和感を斉場少年は覚える。
―――文さんに、似ている。
不可解にもそんな事を思ってしまった斉場少年は、恐る恐る目の前の文のその美しい顔を覗き見る。
「? どうかしましたか」
唐突にこちらの顔を見定める斉場少年に、文は小首を傾げて問いかける。
「いえ、何でもありません」
そう言って紛らわす斉場少年だが、その胸の中に根付いた疑念の種は、みるみる育って影を落とす。
写真の顔はハッキリしないし、記憶にある左文字の顔は目の前の文とは確かに違っていたはずだ。
なのに何故か二人が重なる。姿形ではなく、雰囲気というか、形容し難い空気感がソックリだった。
それはつまり…。
―――文さんは左文字の妹なのか?
そう考えれば文さんの不機嫌も納得がいく。
誰だって自分の身内を悪く言われたら、腹に据えかねるだろう。
それに、年齢的にも丁度イイ。左文字が見た感じ二十代中盤で、文さんが話では二十代前半なのだから。
つまり血縁がある証拠じゃないか。
そこまで考えが至って、斉場少年は額に脂汗が滲む。
「けれども、何だか落ち着いてて、すごく大人びてカッコイイ人だと思いましたよ。何と言いますか一つの物事を極めた人の風格と言いますか、匠やマエストロといった感じです。やっぱりその道の第一人者は違いますね」
慌てて取り繕うように、斉場少年が乾いた布巾から雫を絞り出すような感じで左文字の良い点を論う。
「何より手の形がイイ。すごくイイ手の形です。モナリザみたいな」
終いには訳の解らにことを褒め始める斉場少年だったが、そこまで言ったらもうネタも尽きてしまう。
「そうですか。それは良かった」
しかし、その甲斐あってなのか、目を回しかけている斉場少年をクスクスと笑う文さんに、さっきまでの不機嫌な雰囲気は曇りの一つも見ることもなかった。
―――ああ、良かった。
何とかなったのだろう。文さんの軟化した態度を見て斉場少年は胸を撫で下ろす。
理由は解らなくとも、斉場少年の必死さは伝わったのだろう。
斉場少年としてもこんな下らない事で文さんに嫌われたくないのだ。
「そういえば、実は、私も一軒、喰い逃げ屋を執り行っている店を知っているんです」
「おや? 文さんが? お店を?」
唐突な申し出に斉場少年は目を丸くして声を上げる。
しかし、考えてみれば当たり前か。
さっきも言ったように文さんは喰い逃げ屋の熱烈なファンであり、尚且つ左文字の妹ではないかと推測される。
それだったらばこの界隈で喰い逃げ屋をやっている店の一つや二つ、知っていても何の不思議はないだろう。
「そうなのですか。是非教えてください」
だったらその話、乗っておいて得だろう。上手くいけば会話も盛り上がるだろうし。
そんな心持ちでの斉場少年の返答に、文さんも狙い通り気を良くしたのか乗ってくる。
「すぐ近くにある『一品香』という中華料理屋さんなのですが、知っていますか?」
「…ああ、そう言えばありましたね」
斉場少年も記憶の糸を辿って行くと、文がいったその店に思い至る。
宛ら碁盤の目のように区割りされた池袋北口繁華街。
そこは中国人街らしく大小様々な中華料理屋が立ち並んでおり、件の『一品香』もその一つ。街角にヒッソリと佇む小さな店だ。
―――たしか、黄色いビニールの庇に屋号の書いてある、ぶっちゃけると小汚い店だったなぁ。
斉場少年にはそんなイメージしかないその店が、まさか喰い逃げ屋をやっていたなんて思いもよらなかった。
「どうですか? もし宜しければ、今度そこで斉場君が喰い逃げ屋をやっているところを見せてもらえますか?」
「… ! ボクがですか?」
この時ほど斉場少年の胆が冷えたことは無かった。まさか喰い逃げ屋を文さんの前でやるなんて。
「ええ、きっとイイ勝負が見られると思うのです」
どうやら彼女は本気らしい。その眼差しは真っ直ぐに、疑うことも無く斉場少年の事を見つめている。
―――どうにも困った事に成ったぞ。
斉場少年の内心は、嵐の如く漫ろいで、浮足立っていた。
―――マズイますい拙い! 超まずい!
最前から何度も言うように、斉場少年にとって喰い逃げ屋は熱中しているスポーツなどでは無く、あくまで柊達への恐怖から強制してやらされている、嫌で仕方がない行事でしかない。
だが、見栄を張って、それをさも得意であるかのように文さんへ風潮してしまった事がいけなかった。
彼女としては斉場少年の勇姿が見たい、その好奇心から生まれた純粋な申し出であったことだろう。
しかし、その勇姿は実態が無く、全て嘘で固めた砂上の楼閣にすぎず、一つ試しにやってみれば馬脚を現すことに成る。
「いや、その、今日は調子が出なくて…」
「あら? そうなのですか」
苦し紛れの斉場少年の言い訳に、心配そうな顔に成った文さんが、本気で斉場少年の体の事を気遣ってくる。
「大丈夫です。チョット具合が悪いだけで、そんな大事じゃないですから」
その様子が真に迫っていて、本気で自分の事を心配しているのだと気付いた斉場少年は、何とかはぐらかして話を収めようとする。
「そうですか。でしたら今日はこの辺にしておいた方がイイですね。お体が優れないならば、無理に着き合わせてしまってはいけませんし」
「あっ… ぇ… その… はい」
斉場少年は萎む様な様子で、その提案を呑むしかなかった。
「困ったぞ…大いに困ったぞ」
文さんと別れた後の『伯爵』からの帰り道。早足になる斉場少年は焦りを顕にブツブツと呟いていた。
今日は喰い逃げ屋を避けることは出来たものの、その日は孰れ訪れる。
そうなった時に自分はどうすればイイのだろうか?
何か手はないか? 文に忘れさせられないか? 日付を引き伸ばせないだろうか?
そんな後ろ向きな、正面から迎え撃とうという気概が毛ほども無い心構えが、斉場少年をさらに惨めにさせていた。
―――ああ、こんな自分なんて文さんには見せられない。
自宅のソファーに腰掛けて、散らかって荒れ放題の部屋の隅で斉場少年は数時間頭を抱えていた。
ゴミが積み重なり、食べ残しが悪臭を放ち、足の踏み場もないこの一室。まるで今の斉場少年の心情を形容しているようだった。
そんな中、斉場少年のスマホに着信がある。
生気のない表情でそれを見た斉場少年だったが、弾かれたように立ち上がると、積み重なったゴミが山崩れを起こす。
『今からそっちに行くから』
それは柊からのメッセージだった。
よりにもよってこんな時に。今は殻に篭ってすべて閉ざしてしまいたいのに。
そんな心情の斉場少年なんて知る由もない柊たちは、メッセージから10分もしない内に部屋までやってくる。
まあ、知っていたとしてもお構いなしだろうが。
「マッタク、チョットは片付けろよ」
部屋に来るなり開口一番、柊は部屋の散らかりように文句を垂れる。
「饗す準備が出来てないよな?」
「人間性を疑うぜ」
粟田と木部良も柊に同調して斉場少年を非難する。
―――元々はお前達が好き勝手やったせいだろう。
そんな言葉が喉元まで出かけるが、歯を食い縛って押し込めた斉場少年は「今片付けるから」とイソイソと片付け始めた。
もちろん手伝う者はなく、たった一人で数分間、ゴミの山と格闘し、なんとか部屋の体裁を整えた斉場少年は、ゴミ捨て場で一人、小さな溜息を吐く。
何一つ変わっていない。地獄のようなこの人生。
そこに差し込んだ光のような文さんの存在さえも、自分自身で翳りに変えてしまうのだから、ほとほと嫌になってしまう。
―――やはり、池袋大橋で…。
そんな考えが浮かんでしまうが、そこにどういうわけか左文字の顔が浮かんできては、邪魔をする。
「ああもう! イッタイなんなんだ!」
ニヤける左文字の顔を振り払って部屋まで戻ると、そこでは柊たちが早速買い込んできた食べ物を広げて部屋を散らかしている。
折角片付けたのに、と思う間もなく彼らに呼びつけられると、斉場少年は否応なしに彼らの間に座ることになる。
「それでさ、次の喰い逃げ屋なんだが」
こいつ等まだ飽きていなかったのかと呆れてしまう斉場少年。
「今度は斉場に任せようと思うんだ」
しかし、柊から発せられたその言葉に体中の血管が凍りつくような戦慄を覚えた。
「チョッ…! チョット待ってよ柊さん。えぇ…!? 僕がですか? 何だってまた僕なんですか?」
急な申し出で訳が解らず、なぜ自分がやらなくてはならないのか、そればかりを問いかける斉場少年。
「お前には積極性が足りないんだよ」
それを柊はバッサリと切り捨てた。
「お前は俺たちとつるんじゃいるが、一歩引いているじゃないか」
「そんなつもりは…」
「いいや、そうしている。俺たちの跡を金魚の糞みたいについで来てはいるが、やらされている感が否めない。そうやってどこか一線を画していることで、自分だけが安全なつもりでいやがる」
斉場少年が本心では彼らと一緒に居たくないと思っていること。そのことが自身の言動に如実に現れたということなのだろうか。
そして表面に現れてしまった感情は、周りの人間にも容易に悟られてしまうもの。それが柊にとって腹持ちならない事なのだろう。
「ですが…」
言うに困って口篭ってしまう斉場少年。
まさか一日の内に喰い逃げ屋をやれと2回も、別の人から言われるなんて思いもよらないことだった。
「だってもクソもない。やるんだよ。自分で自分の手を汚せ」
揺すられても無言を貫く斉場少年にホトホト呆れ返ったのか、柊は鼻に突く病的な匂いの溜息を吐いた。
「仕方がない。だったら二択だ」
「二択って…何を…」
心底嫌な予感がした。恐る恐る尋ねる斉場少年に、柊は悪魔じみた笑みを浮かべ鬼の如き返答をする。
「最近、お前、仲良くしている女がいるじゃないか」
心臓を掴まれた実感がした。
柊の言葉を聞いた瞬間、斉場少年のすべてが凍りついてしまった。
―――まさか、まさか、まさか。そんな事って。
現状、どうしようもない程に最悪の事態を突きつけられて、斉場少年はなかなか声を出すことも出来ないまま、口をパクパクさせている。
「…それが、どうしたってのさ」
何とか、それでも直ぐにでも消え入りそうな声で絞り出した言葉だが、死にかけのセミのような言葉には、柊の悪意を退ける力なんて有る筈がない。
「いや、どうもしない。タダな、あんな美人をお前一人が知り合いだなんて、実に不公平だと思うんだ」
こいつは本当に何を言っているんだ。
言っている意味はからっきし解らないが、それでもセリフの端々に、舐るような不快感と嫌らしさが滲みだしている。
そして、そんな言葉を紡ぎ出す舌先の答えは、聞くまでもなく明らかだった。
「だからさぁ、斉場。その女のことを俺たちにも紹介しろよ」
一瞬で斉場少年は絶望の淵へと叩き落された。
想像していた中で最悪の答え。それが現実に突きつけられたのだ。
それだけは、いけない。即答で脳裏に答えが浮かんできた。
もしも柊たちに文さんのことを紹介したとしたらどうなるか。そんな事は火を見るよりも明らかだ。
絶対に自分の時のように、お茶を囲んで清く正しく楽しい時間を過ごして終わりなんて事に成るはずもない。
最悪だ。どう想像しても最悪だ。
「…嫌だ」
だから斉場少年はそう言った。
この答えに柊たちは怪訝な表情をするが、斉場少年には唯一無二の答えだった。
「おい、聞き間違えたか? もう一度言ってみろ」
無言のまま、不機嫌の雰囲気を纏い、圧を掛けて詰め寄ってくる柊。これが、彼が斉場少年に気に食わないことがあると、よくやってくる行動だった。
この重圧に斉場少年は何度となく心が挫け、自分を曲げてやりたくもない事をしてきたか。数え切れないし、数えたくもない。
「嫌だと言ったんです!」
しかし、今日の斉場少年は譲らなかった。ここでもし後ずされば、文さんの事は守れない。その思いが斉場少年を踏み止まらせた。
この反応は粟田と木部良には予想外だったらしく、互の顔を見合わせて、驚いた様子を示している。
一方、柊は例の圧力を緩めることなく、一点、斉場少年を注視し続けていた。
「そうか、なら、やはり二択だ」
そしてその沈黙を破ると、柊は最前と同じように二択という言葉を口にした。
「どちらを汚すかだ。自分の手か? それとも女か?」
―――そんなもの、考えるまでもない。
「だったら、僕は手を汚す。喰い逃げ屋でも何だってやってやるよ!」
まるで重圧を振り払うかのように、勢いづけて啖呵を切る斉場少年。
その言葉を確かめて、無表情を貫いていた柊も「そうか」と満足そうに呟いた。
「だったら、やるなら早いほうがイイ。そうだな、今度の土曜にやろうじゃないか」
「なっ?」
そんなに早くやるなんて思ってもみなかった斉場少年は驚きを隠せない。
「決意が欠けないうちにやったほうがイイだろう。グダグダやって先延ばしにしたところで、どうしようもないからな」
「けれども、幾ら何でもそんなに早く何て…」
「おいおい、もう弱腰か? ちゃんと自分の手を汚すって聞いたぞ。だったら店探しからセッティングまで全部やってもらわないとな」
そうである。喰い逃げ屋をやるならば、まず店を探さなければならない。
そしてその目星はどうやって付けたものだろうか。
喰い逃げ屋をやる場合、コッチがやる気でも、店側の準備が出来ていなければそれは成立しない。
それが、今度の土曜日にやるなんて急が罷り通るだろうか?
もちろん、看板に『喰い逃げ屋歓迎』の店であるならば、飛び込みでも試合が成立するだろう。
しかし、この池袋近辺で喰い逃げ屋をやっている店は、柊たちが粗方荒らし回ってしまった後である。
この期に及んで飛び込みで試合を申し込んだとしても、自分が柊の関係者だと解ったならば、きっと門を閉ざされてしまうことだろう。
「もしも、一人でやれなかったら、解っているよな?」
自分たちで散々場を荒らしておいて、この言い様である。
しかし、どうなるかが解っている以上は、是が非でも土曜日に喰い逃げ屋を成立させないといけない。
―――そうでないと、文さんが…。
その瞬間、文のことを考えた斉場少年の脳裏に、彼女が話していた店のことが思い出された。
―――たしか、名前は…。
「一品香…」
「…? 何だ、その店?」
溢れるように口から出た店の名前に聞き覚えがないのか、柊は怪訝な表情で斉場少年に聞き返してくる。
「いえ、近くにある中華料理屋なんだけど、そこでも喰い逃げ屋をやっているって聞いたことがあるんだ」
「そうなのか? お前ら知ってたか?」
「知らね」
「俺も」
柊、粟田、木部良の三人は、互いに顔を見合わせながら、斉場少年から伝え聞いた『一品香』なる店について話し合う。
「おかしいな? この辺りは粗方やり尽くしたと思っていたのに」
よく知っていたものだと、斉場少年がどこからその店について知り得たのか質問してくる3人。
しかし、斉場少年は、事実を伝えても面倒臭い事にしか成らないと考え、「偶々です」と事実をはぐらかすに留めた。
「そうか、だったら…」
「解っているよ。今すぐ行ってくればイイだろう」
柊の言葉を遮るように、斉場少年はそう言い残すと、3人のことを振り切って部屋を飛び出していってしまう。
「おい、あいつ急いで行ってしまったけど」
玄関がバタンと閉まる音を聞き、冷めたような面持ちの木部良が柊に声をかける。
「ああ、きっとその店に喰い逃げ屋の挑戦状を叩きつけに行ったんだろうよ」
「そういうことか」
「律儀な奴だな」
感心するというよりも、呆れたような雰囲気の3人は、自然と笑いが込み上げて、声に出てしまう。
「ああ、滑稽だな。ヤッパリアイツはああで無くちゃならない」
「そうだな。自分たちより下の人間がいる安心感ってイイよな」
「堪らないな」
「しかし、柊。イイのかよ? 二択だとか言って。確かに、アイツに喰い逃げ屋に手を染めさせるのは賛成だけど、女のことは諦めちまうのか?」
「んん? 誰が諦めるなんて言った?」
柊は悦に入った表情を歪め、ゾロリと舌なめずりをする。
「もちろん女も戴く。そして喰い逃げ屋にも手を染めさせる。どっちも強いるのがイイんじゃないか」
ニヤリと笑う柊に、粟田と木部良の二人も笑い返す。
「あいつはな、俺らよりも数段下じゃなきゃダメなんだ。それこそ地べたを這いずるような。一切プラスじゃダメなんだ」
熱病のような語り口だった。
柊が笑いの混じったセリフを吐きながら、斉場少年を呪うさまは、まさに病的なまでの執着心だった。
「だから、俺はあいつから摘み取り続けるんだ。幸せが芽を出せば、丁寧に、根気よく、丹念に、摘み取ってゆく。そうすることで俺がアイツよりも幸せでいられるんだから。決して花実を咲かせるものか」
「おお怖い怖い」
「寒気がするね」
柊の異常なまでの執念を、二人は笑って過ごしている。
きっと二人も柊と同類。斉場少年を貶めて、自分たちが悦に入る事しか興味がないのだろう。
「それから、今度からこれを使ってみようと思うんだ」
「ん? 何だそりゃ?」
柊が取り出した紙片を注視する粟田が、そこに記載されている『契約書』の文字に疑問符を浮かべる。
「あんまり難しい事ならば、また今度説明してくれないか」
「違うぜ、粟田。これは俺が考えた事なんだ」
そう言って横から木部良が入り込んでくる。
「これは契約書なんて大層な事を書いているが、簡単に言えば『何でも言う事聞きますよカード』なのさ?」
「…何て?」
「ルールは簡単。喰い逃げ屋に勝った方が負けた方に何でも言う事を聞かせる。そう言った内容の事が書き記されている」
「つまり喰い逃げ屋に託けて、さらに好き勝手が出来ると言う訳だ」
満足そうに笑う柊に、粟田も木部良も醜い笑顔を現した。
「それって、店側だけじゃなく、斉場にも使えるんじゃねぇ?」
「流石だな。気が合うな」
そう言って三人は声を合わせて大笑いする。
「さて、手始めは既に成った。あとは転がり落ちるだけ。イッタイあいつをどこまで落とせるかな?」
それが楽しくて仕方がないのか、柊たちは延々とこみ上げてくる笑いを堪えきれず、ずっと引き釣ったように笑い続けていた。




