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喰い逃げ屋 左文字‐3  作者: 楠木 陽仁
6/12

3-6

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「文さん…。素敵な人だぁ…」

 上の空の斉場少年は自室で悶々としながら、数週間前に知り合った美女『左 文』の事を思い返していた。

 この日は珍しく例の3人組も家には来ておらず、親も相変わらす長期出張のため、実質この家には斉場少年只一人。

 これは実に悶々日和。ヨンドコロナイ事も致し放題だ。

 しかし、これだけ斉場少年が文に入れあげているのには理由が有り、彼が文と会ったのはあの一回のみで無いからだ。



『あれ? またお会いしましたね』

 初めて文とぶつかったその日から数日後、柊達の使い走りとして再び池袋の町を徘徊していた斉場少年。

 そこで偶然にも文とまた出会ったのだ。

 こんな運命的な再会が有るのだろうか? まさか小説でもあるまいし、話が出来過ぎているとは思う。

 しかし、そんな事を思う余裕は無く、あまりに突然の事で口をパクパクさせている斉場少年に、文はあの時に見せたのと同じ笑顔を向けて来る。

『君は驚くといつもそんな顔をするんですね。斉場君』

『―――変でしょうか?』

 笑われたことにハッと気が付き、顔を揉み解した斉場少年は、気まずそうに赤らんだ顔を俯ける。

『いいえ、可愛いと思いますよ』

 男として可愛いと言われることはどうなのだろうか。どうにも複雑な気分になるが、楽しそうにしている文の様子を見ると、否定して話の腰を折る事が忍びなくなる。

『それで、左さん。怪我はその後どうですか?』

 だから斉場少年は、いま最も気に掛かっている事を聞くことにした。

 あの時は咄嗟の事で応急手当しかできなかった文の足の怪我だが、その後に何の音沙汰も無かったので心配に成っていたのだ。

『文で大丈夫ですよ。ほら、見ての通りです』

 斉場少年の心配そうな顔に何かを察したのか、優しげな表情を浮かべる文が、チラリと少しロングスカートの裾を上げる。

 布に隠されたその奥で、白く輝く(くるぶし)の眩しさに思わず直視するのを躊躇ってしまうが、張り付けられた絆創膏には血の滲んだ様子は見られない。

『君が素早く手当してくれたからでしょうね』

 あの時の怪我が大事では無かった事にホッとするのも束の間、改めてお礼を言われた斉場少年は、さっきにも増して顔が赤くなる。

 ここまで誰かに褒められたことが今まで有っただろうか。お礼を言われたことが有っただろうか?

 誰かに叱られたり、勝手に失望されたり、訳も無く罵られてばかりだった斉場少年には、こんなに自分の事を肯定してくれる人には覚えが無かった。

 ―――もっと文さんと話がしたいな。

 思春期の扉を開いたばかりの斉場少年の脳裏に、そういった考えが浮かんできたのは当然の事だった。

 しかも、その感情は斉場少年にとって今まで一度も経験が無く、何と呼んでよいのか分からない物だったが。

 ――― …あれっ?

 そんな気持ちの昂ぶりから、斉場少年が文の事を見つめていると、何だか違和感と言うか、既視感と言うか、そんな不思議な感覚に襲われる。

『その、ちょっと思ったのですが、文さんとは以前何処かでお会いしたことが有りましたっけ?』

 そんな唐突な質問を投げかけられた文は、にこやかな表情のままに疑問符を浮かべる。

『…この前に斉場君がぶつかってきたのが初めてだと思いますが?』

『ええ、そうですね。…確かにその通りなんですけれども、何か、こう、あなたの顔を何処かで見たような覚えが有りまして…』

 記憶の隅まで探すように考えあぐねる斉場少年を見て、文は『フフフ』とまた品よく笑った。

『それってまるでナンパの手口みたいですね』

 思いの他ませているのだと笑う文。一方の斉場少年は慌ててそれを否定する。

『いえ! 別にそういう訳では! 決して下心とか、その…』

『解っていますよ。チョットからかっただけです』

『もう! 意地悪しないで下さいよ!』

 意外に意地悪な一面に斉場少年も笑いながらも膨れてしまった。



 ―――そうだ、表に出てみよう。

 あの日は、そんな他愛なくも短い会話で終わってしまったが、まだまだ彼女とは話をしていたい斉場少年は、ベッドから飛び起きると街へと繰り出した。

 ―――もしも運が良かったら。

 また池袋の街角を宛も無く彷徨う斉場少年だが、以前と明確に違うのはこれが自発的で尚且つポジティブだという事。

 通りを歩き、路地を覗き、彼女の影を探して振り返る。

 数週間前の自分ではこんな事をしているなんて予想もしない事だった。

 しかし、暗闇に光を見つけたならば、そこへ向かって行くのは当然の事だから、斉場少年も一心不乱に彼女の事を探すのだった。

「あ…。見つけた」

 そして、街を歩き回って十数分。またしても幸運な事に斉場少年は彼女、文の姿を見つけることが出来た。

「あら、斉場君。こんにちは」

 嬉しい事に文の方も斉場少年に気が付いて、いつもの様に朗らかな笑顔を見せて挨拶してくれる。

「こんにちは、文さん。お加減は如何ですか?」

 歩き回ったせいなのか、それとも彼女を見つけることが出来て浮足立っているのか。

弾んで止まらない自分の息が何とも恥ずかしい斉場少年が、それでも必死に平静を装って彼女の怪我を気遣いつつも挨拶を返す。

「ええ、お陰様でスッカリ良くなりました。随分と心配を掛けてしまったみたいでご免なさい」

「いいえ、元はと言えば僕のせいなのですから、心配して当然です」

「いいえ、私もあのときは不注意でしたから、実質御相子様です」

「いいえ、それでも怪我をさせたのは僕ですし」

「いいえ―――」「いいえ―――」「いいえ―――」「いいえ―――」

 堂々巡りと成りかけて、ふと気が付いたら数分間。繰り返される「いいえ」の台詞は次第に二人の笑い声へと変わってゆく。

「もう、私達『いいえ』ばっかり言っていますね」

「本当ですね。それに僕、実を言うともう謝る理由がネタ切れでした」

「奇遇ですね。私もです」

 そうしてまた二人は大いに笑い合った。

 このやり取りが何だが気の置けない友人の様な、そんな安心感のある雰囲気が二人の間には自然と出来上がっていた。

「斉場君、どうでしょうか? こんな所で立ち話もなんですから、どこか落ち着けるところでお話でもしませんか?」

 それは願っても居ない事だった。斉場少年としてももっと彼女と話がしたかったし、彼女の事を知りたいと思っていたからだ。

「そうですね、何か食べたいものが在りますか? 好きなものが在るならば私がご馳走しますよ」

 年長者としての心得なのか、斉場少年に文は御馳走すると言う。

 しかし、この問い掛けに斉場少年は困ったような顔に成る。

 ―――好きな物…と言われましても。

「どうしましたか?」

 渋る顔をする斉場少年の表情を、怪訝そうに覗き込む文。

 それに斉場少年は恥ずかしそうに頭を掻く。

「その…、解らないんです」

「…解らない?」

 斉場少年の返答が予想外だったのか、文はらしくなくオウム返しをしてしまう。

「その、恥ずかしい話なんですけれども、僕は何が好物なのか、何が好きなのか、それが解らないのです」

「それはどう言う事なんですか?」

「こんな事を文さんに言うのはどうかと思いますが、僕は自分で何が好きなのか解りません。そもそも料理とか食事とか、好きではないのです」

「珍しいことを言うのですね」

 そんな人もいるのかと、珍しい人を見る様な文の視線に、「僕自身そう思います」と自嘲気味に斉場少年が続く。

「僕はタダ出された物を、置いてある物を食べていただけなので、自分は何が好きなのか、解らないのです」

 斉場少年にとって食事とはいつもそうだった。楽しむものでは無かったのだ。

 共働きの両親は作り置きをしていることは有っても、共に食べることは滅多に無かった。

 そして今に至っては、柊達が喰い散らかしたお零れで生きているようなもので、食事が楽しいと思ったことは無かった。

 だから、斉場少年にとって食事とは栄養補給でしかなく、だからどんな高級料理も栄養補助食品も変わりなく、特に何が好きということが無いのだった。

「そうですか」

 それを文は静かに聞いていた。特に驚く様子も無く、奇異の視線を向けることもせず、ただ斉場少年の語りに耳を傾けていた。

「それではこうしましょう」

 一頻(ひとしきり)聞き終えて、一拍の間が有った後、文は先ほどの話など端から無かったかのように、晴れやかな顔をして手を打った。

「ここは、私の好きな物を一緒に食べに行きましょう!」



 池袋北口の地下通路から階段を登って地上へと出たとき。そこで真っ先に突き当たるH字路が有る。

 路の北側の一角。その場所には都心の駅前ならば当たり前のようにビルが有る。

 だが、そのビルの外壁は、珍しい事に『レンガ造り』と成っている。

 ビルの中はホテルと成っており、ビジネスマンから観光客まで、駅のすぐ近くという立地の良さから使う人は多くあり、興も賑わっている。

 そして、このホテルで最も人の賑わいを見せるのが、二階に設けられた喫茶店である。

『珈琲専門館 伯爵』。それがこの店の店名であり、その名に恥じぬほど中の様子は『レトロ』に傾倒していた。

 これぞ純喫茶と言ったような店内。ドアを開けて中に入っただけなのに、一昔前にタイムスリップしてしまったかのような感覚に陥る。

 店の中も壁にはレンガ模様が設えられており、厨房と直結したバーカウンターではユニフォームをパリッと着こなしたウェイターがミルクセーキを作っている。

 奥の方へと目を向けると、そこはホールと成っており、大きな楕円形の卓が真ん中に置かれ、見知らぬ他人たちがそれぞれ席を一つ空けながら各々の時間をコーヒーと共に過ごして居る。

また、ホールの壁側は三方をガラス張りにしてあり、眼下にいつまでも途切れることの無い人の行き交いと、見上げる様なビルの群れが敷き詰められた池袋の町並みが見ることが出来る。

「この人の行き交いだけでもボーっと見ていれば、時間を忘れて一日退屈することなく過ごしてしまえますね」

 この窓際の席の座る文は、ガラスから下の様子を覗き込みながら、対面に座る斉場少年にそう語る。

「そうなんですか…?」

 一方の斉場少年は随分と居住まいが悪そうにしながら、付き合いと言った様子で窓の下を眺めている。

 斉場少年にとってこの様な、純喫茶と呼ばれる店に入るのは初めての事だった。

 一言でいえば大人の空間。スタバやサブウェイなど最近よく見かける様な喫茶店すら入ったことの無い斉場少年にとって、伯爵の雰囲気の中に在って自分がまるで場違いの様な気がしてならなかった。

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」

 文の方はと言うと流石に常連であるため、この店の雰囲気に溶け込んでリラックスした様子で微笑んでいる。

 そんな彼女が何だか羨ましいと言うか、彼女に釣り合う自分に成れたら、そう思う憧れも感じていた。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

 そこへウェイターがお冷を持ってやって来る。

よく教育されているのだろう、その身の熟しの端々に神経が行き届いており、無駄の無い動きの惚れ惚れしてしまう。

 だが、見惚れていてはいけない。店に入ったのなら注文しなくてはならない。

 喫茶店なんて入ったことの無い斉場少年は、イッタイ何を頼めばイイのか、それが悩みの種だった。

 やっぱりコーヒーがイイのだろうか? だが、コーヒーは飲んだことが有るが、あれは苦くて受け付けなかった。

 個人的にはオレンジジュースがイイけれども、これ以上自分の事を文さんに子供っぽいと思われたくない。

 どうしたものかと悩んでいると、文さんがチョイチョイと自分の事を突いてくる。

「ココは私に任せてくれますか?」

 そのお願いを斉場少年は二つ返事で了承してしまう。

 誰だってあんな仕種と笑顔でお願いされたなら、断れるはずがないだろう。

 それに思い返せばここへ入ったのも、『文さんの好きな物を一緒に食べるため』だったはずだ。

 それならば、注文は彼女に一任することが筋かも知れない。

「どうぞ、お任せします」

 そう考えての事だった。

「では、ピザトーストセット2つ。飲み物はコーヒーで」

「…んっ?」

 斉場少年の口から思わず疑問符が飛び出した。

 コーヒーを注文されたことはまあ仕方がないだろう。

喫茶店なのだからコーヒーこそが売りなのだろう。だから、始めて店に来たのなら、その味を楽しむことこそが礼儀とも言える。

しかし、それとセットで注文された物、『ピザトースト』に斉場少年は思わず声が漏れたのだ。

文の事だからコーヒーとセットで頼むとしても、ケーキとかそう言ったデザート系の甘い物なのだろうと思っていた。

しかし、予想外に注文された物はガッツリ系。完全な食事である。

―――しかも『ピザ』と『トースト』⁉

それはイッタイ何なのか。斉場少年は困惑する。

確かに洒落た喫茶店ならばピザなりパスタなりを提供する店もあるだろう。

だが、ピザに被せてトーストを一緒に持ってくるという事はあるのだろうか。

焼きそばパンやラーメンライスの親戚で、炭水化物の塊なのだろうか?

「どうかしましたか? 難しい顔をして」

 訳が分からず目が回りかけていた斉場少年の様子があまりにも不審だったのか、心配した様子の文が話し掛けてくる。

「いえ! 何でもないですよ!」

 否定はしたものの妙に上ずった声が何とも情けない斉場少年。それに何を感じ取ったのか「そう、そうですか」と文は安心した様に言う。

「その、文さんはこのお店ってよく来るのですか?」

 コホンと咳払いを一つして、斉場少年はその事を聞く。

 さっきの慣れた注文や好物を食いに来たという事から、文がこの店の常連だという事は簡単に推し量れる。

「ええ、結構来ていますよ。特にここの席がお気に入りで、座って珈琲を飲んでいると落ち着くのです」

「そうなんですか。けれども意外ですね。文さんくらいの人ならもっと若者らしい所が好きなんじゃないかと思っていたのですが。確か大学生でしたよね?」

「そうですよ」

 前にも聞いた通り、文は立教大学に通う大学生だと言う。

「そう言う設定です」

「…?」

「何でもありません」

 フフフと笑ってはぐらかしてくる文だったが、その様子は妙に大人びていて、彼女の見た目とは不釣り合いなほどの人生に裏打ちされたような、そんな妙な自信を感じさせるのだった。

「話を戻しますけれども、この店は私の思い出の店なのです」

 文の話によると、彼女が昔お世話に成った人に何度か連れて来てもらったのがこの『伯爵』だと言う。

 話の感じからするとそのお世話に成った人と言うのが、壮年の紳士らしく、それならば文が歳に似合わず純喫茶の常連となっていることも納得がいく。

「その人には大変お世話に成りまして、よくこの店に連れて来てもらって、御馳走してもらったのが『ピザトースト』なのです」

「つまり、思い出の味なのですね」

「ええ、そして今でも大好きです」

 飾り気なく、屈託なく、童女の様に笑う文の表情に、ああ、この人は本当にここのピザトーストが大好きなのだなと斉場少年は思った。

「それでは、今度は君の話を聞かせて貰って良いですか」

 話が弾んできたのを見計らったかのように、次に文が斉場少年の身の上に興味を示して聞いてくる。

「そんな、僕の話なんて聞いても面白くないですよ」

 これは卑下でも謙遜でもなく、実際にそうなのだから仕方がない。

 自分がこれまで歩んできた後ろ暗い転落人生なんて、聞いて誰が喜ぶだろうか?

 そもそも、こんな事を知り合って間もない文に話しても、彼女はドン引きして返事に困るのが関の山ではないか。

「そんな事を言わないで、教えてくださいよ」

 それでも文は諦めず執拗(しつよう)に食い下がって来るものだから、斉場少年もホトホト困ってしまった。

 ―――どうしたらイイだろう…。適当な事を言って誤魔化す…?

 それはそれで簡単に見抜かれてしまう様な、そんな確信めいた予感が文からは感じられたので却下する。

 そしてどうしようも無く成って、二進(にっち)三進(さっち)も行かなくなった斉場少年は、まるで殻に籠るかのごとく黙りこくってしまう。

「あらら、何か拙かったでしょうか?」

 これには文も困惑の色を隠せなかった。彼女にとって何気ない質問のつもりであったのに、ここまで口を堅く閉ざされるとは思わなかっただろう。

 ―――文さん。そんな困った顔をしないで欲しい。悪いのは全部僕なのだから。

 文への申し訳ない気持ちに押し押し潰されそうになり、このままペシャンコになって吹き飛んで行ってしまいたい気持ちに駆られる斉場少年。

「そうですか。何か話したくない辛い事でも有ったのでしょう」

 対する文は何かを察したかのように、一つ頷いて水を飲む。

「それでしたら、私も一つ、話し難い昔話をしましょう」

 話し渋る斉場少年に業を煮やしたのか、文が提案したことはあまりに意外な事だった。

「話し辛いなら事ならば、先に私から話してしまえばきっと話し易くなる。そう思いませんか?」

「いや、そう言われても…」

 実際どうなのだろうか? 困惑する斉場少年だが、文はそんな彼の事など何処吹く風で、再びの自分語りを始める。

「実はですね、私、天涯孤独なのですよ」

「えっ⁉」

 思いもしなかった語り出しに、斉場少年の困惑の色はさらに濃厚となる。

「私の両親は、私が幼いころに死に別れてしまいましてね。でもその後、今の家庭に引き取られたのです」

「…それが今の親御さんなのですね」

「う~ん…、どう言ったらイイのか、まあ、その人とは複雑な関係ですね」

 そんな事を言われても、そこまで複雑な関係性なんて斉場少年には想像することすらできはしない。

「そして引き取られた先の、そこの家庭の教育が厳しくて、色々と苦労したものです」

 シミジミと語る文であったが、その話の内容とは反対に、懐かしく良い思い出であるような語り口からそんなに悪いものではないのではと思うのだった。

 それもそうだろう。普通に考えれば(もら)い子である文さんの事を、シッカリと大学まで通わせているのだから悪いはずがない。

「…! それで、その辛いときに連れて来てもらっていたのが、この店だったと言う訳なのですね」

「そういうことです」

 話が繋がって合点の行った斉場少年は、成る程それでこの話をしたのかと納得する。

 そして、先に自分の後ろ暗い過去を文が話してくれたため、自分に纏わる話もまた話してみて良いかも知れないと思ったりもする。

 もちろんそれが、最初から文の狙いであったとしても、彼女もまた自分に負けず劣らずの過去の持ち主であるのだから、話しても流さず受け止めてくれるのでは?

 そんな淡い希望に誘われて、斉場少年は自分のこれまでと今の状況を口にし始めた。

 親から過度な期待を受けて、そして勝手に失望されたこと。

 望まないのに押し籠られた環境に馴染めず、常日頃周りから押し潰されそうな重圧を受けていた事。

 自ら望んで作った関係が裏目に出てしまい、切り離せない悪縁と成って纏わり着いてこの身を食らっている現状の事。

 それらの話が感情を伴って、堰を切ったように湯水のごとく溢れ出して止まらなくなってしまう。

マッタク、思い返しながら語っているだけで、自分でもあまりに情けなくて涙が出そうになってしまう。

 そして、それを文は静かに聞いてくれていたことが何よりも有難かった。

 話に驚くでもなく、感情的なるでもなく、無理に同情するわけでもない。

 ただ、黙々と聞くに徹してくれたことで、斉場少年はなんの気兼ねもなく、自分の胸の内を話すことができた。

「そうだったのですか」

 話し終えて一息吐いた斉場少年に、文は噛み締めるようにそう呟く。

「御免なさい。辛いことを無理に話させてしまいまして」

「いえ、それはお互い様ですから」

「それで、その、先ほどの話に出てきました悪いお友達。彼らとはどうにも成らないのですか?」

 文の言う悪い友達とは、もちろん柊たちのことだろう。

 この関係について、知らない誰かに遠慮なく触れられることは、斉場少年にとってこの上なく心地の悪いことである。

 しかし、不思議なことに文に聞かれるのはどういうわけか嫌な感じがしなかった。

「僕もなんとかしたいとは思うのですが」

 だからつい本音が飛び出してしまう。

 斉場少年としてもこのままの関係がずっと続くのは苦痛でしかなく、この縁は切れるならば早々に切ってしまいたいものだった。

「しかし、思い返してみても酷い人たちですね」

 文はそう言って悲しそうな顔になる。それほどまでに彼女はその心を痛めているのだろうか。

「確か、粟田という子には暴力を振るわれるとか」

「ええ、彼は格闘技の経験があるので、腕っ節は一番強いのです」

「あと、木部良という子には万引きの罪を擦り付けられた」

「そうです。万引きしたコンビニとは初犯だった示談で済んだのですが、あわや警察座他になるところでした」

「最後に、柊という子にはゴミをぶつけられたと」

「飲み終わったペットボトルとかしょっちゅうです。ひどい時には―――」

 言い淀む斉場少年の表情は悲痛に歪んでおり、その声もまるで喉から何かの塊を吐き出しているみたいに重い。

「すみません。気軽に聞くべきではなかったようですね」

 文としても思いの外辛い人生を、こんな年端もいかない少年が歩んでいたとは思いもしなかったことだろう。

「いいえ、こっちこそ詰まらない話をしました」

 それとは逆に謝ってくる斉場少年は、心底恥ずかしい話をしたとでも言いたげに、苦笑いと共に頭を掻いている。

「その、こう言うとなんだかキザったらしいんですが、僕たち似たもの同士かもしれませんね」

「そうかもしれないですね」

 照り臭さが極まって、さっきまでの陰鬱さはどこへ行ったのか、二人の間から自然と笑い声が響き合う。

 似た者同士。確かにそうかもしれない。

 だからこんなに惹かれ合う。その理由が何となく斉場少年は理解できた様な気がしたのだった。

「でしたら、きっとここのメニューも気に入ると思いますよ」

 文はフフフと微笑むと、キッチンの方へと目をやった。

 感性が似ているということは、嗜好も似ていると言いたいのか。

 納得がいく様な、いかない様な。そんな心持ちのまま文の視線の先を追うと、「お待たせいたしました」と見計らったかのようにウェイターが声をかけてくれる。

「こちら、『ピザトーストセット』になります」

 テーブルの上に置かれた料理に、斉場少年は納得がいった。

 ―――なるほど、確かにピザトーストだ。

 それはピザ生地の代わりに食パンを使ったピザのことだった。

 厚切りにした食パンの上。そこにはタップリと目に鮮やかな赤色のトマトソースが塗られており、それを薄切りにした玉ねぎとハム、ピーマンなどの具材が乗せられている。

 それらを(とろ)けたチーズが包み込み、立ち上る香りはそれだけでこの料理が美味であることを如実に感じさせる。

 もう、唾液が止まらない。

「さあ、冷めない内にいただきましょう」

 文もニッコニコのお多福顔となっており、齧り付く事を辛抱堪らないといったようである。

「いただきます」

 そう言ってピザトーストを手に持った斉場少年は。その伝わる熱さに慌てながらも、一口、齧り付いた。

 ―――ああ、これは。

 懐かしい。その言葉こそ斉場少年が先ず思いついた感想だった。

 気取らず、それでいて特別な、不思議なこの感覚。

 身近でありながら、何だか有意義な気分に浸れる、その一口。

 この感覚を懐かしいと言うのだろう。

 実際に斉場少年がこういったピザトーストを、以前に食した経験が在ったという訳では無い。

 それでも、斉場少年が懐かしいと感じるということは、この料理に対して、自分に紐づく何かがあるという事なのかもしれない。

 だから理由もなく斉場少年の目から涙が(あふ)れた。

「あれ…、なんだこれ?」

 その理由は斉場少年には解らなかった。

今まで食事が楽しいだなんて感じたこともない彼にとって、何かを食べたことで心が動かされるという感覚は有り得ないことだった。

 しかし、現に斉場少年は涙している。それはまるで(ひび)の入ったグラスから、中を満たす水が滲み出るように、もう止め処無かった。

「そんなに気に入ってくれましたか」

 周りに憚らず泣きじゃくる斉場少年を優しく見守る文もまた、ピザトーストを一口齧り、安堵したような溜息を吐く。

「そうです。これが『出来立て』の美味しさです」

「出来立て…?」

 涙を拭った斉場少年の問いかけに、文もユックリ頷く。

「この料理は今まさに作られたばかりの料理だということです。料理人が素材を一から下拵えをし、シッカリと火を通して作った料理だということです」

 文の言葉には言いようのない重みがあった。

「その作るという中で、料理人が手間と、思いと、誇りを込めているのです。それが一番に熱として感じられるのが出来立てなのです。こればかりは作り置きや出来合いのものを温め直したとしても得ることのできない味わいです」

「確かにその通りですね」

 斉場少年も文の言うその意味を理解できた。

 彼が今まで食べてきたもので、出来立てであったものは幾ら有っただろうか?

 ほとんどが親の作り置きした料理だったり、コンビニや宅配で買った料理を温め直したものだったりと、出来て時間を置いた物ばかりだった。

 だから出来たての料理の鮮烈さは涙するほどだったということだ。

 腹が減ったとかそう言う意味じゃなく、本当の意味で飢えていた味。それこそ人が丹念に思いを込めた出来立ての味だったからこそ、彼の琴線に触れたのだろう。

「有難うございます。僕にもやっと好物ができました」

「それは良かったです」

 文も満足したように微笑むと、ピザトーストを口にして、そのままコーヒーと共に流し込んだ。

 真似してコーヒーを飲んだ斉場少年だが、彼にはまだ大人の味。渋い顔をしてそれ以上は口にしなかった。

 


「文さん。今日はどうもありがとうございました」

 店を出た斉場少年は、礼儀正しく文に向かって頭を下げる。

「いいえ、こちらから誘ったことですし、お礼を言われるほどのことでもありませんよ」

 二人分の金額が書かれたレシートを財布に仕舞いながら、文は笑って手を振っている。

「けれども、文さんに誘ってもらっていなかったら、きっと僕は鬱々としたままだったと思います。こんな風になったのは、文さんがご馳走してくれたからですよ」

「そうですか」

 若干照れ臭そうな文だが、斉場少年の言葉は真心であり、お世辞なんて少しも混ざらない言葉は真っ直ぐと届く。

 だから、文としてもこれで良かったのだと思うことにした。

「それで、文さん。もし、その、宜しかったらなのですが…」

 打って変わって吃り出す斉場少年は、恥ずかしそうにモジモジと、文の様子を伺ったままで言葉が中々続かない。

「何でしょうか?」

 しばらくそんな様子だから、どうしたものかと逆に聞く文のことを、意を決した斉場少年がシッカリと見据える。

「その! 今度一緒に『ロサ会館』へ映画を見に行きませんか⁉」

 ようやく出てきたその言葉が、思いの外大きな声だったため、周りの注目が集まってしまい、赤い顔を斉場少年が俯かせる。

「そういう事でしたら、こちらこそ喜んで」

「! 本当ですか!? ヤッタ!」

 文からのその答えを聞いた瞬間、斉場少年の顔は、まるで夜明けの境界線に顔を出した太陽のように眩しく輝いていた。

「それじゃあ、また来週末にご一緒しましょう。如何ですか?」

「そうですね…。大丈夫そうです」

 携帯端末でスケジュールを確認した文は、斉場少年が最も欲しかった希望通りの答えを返してくれる。

「それじゃあ来週末。約束ですよ。約束ですからね!」

 浮かれ調子の斉場少年は、別れの挨拶もそこそこに、手を振りながら何度も振り返りながら駆けて去ってゆく。

 それに手を振り返す文は、彼の姿が池袋の街並みに紛れて見えなくなるまで、その場で見送り続けた。

「ふぅ、やはりあのくらいの年頃の子は扱いが難しいですね」

 そう言って溜息を吐いた文の声は、先程までより少しトーンが低くなっており、宛ら少年の声のように聞こえた。

「さて、とりあえず帰りますか」

 やることは全部やったと、文がそそくさと歩いて帰ったその先は、中華料理屋『一品香』であった。

「ただいまでーす」

「オカエ…お帰りくださイ」

 戸を開けて中に入った文のことを見咎めたのは、この店の店主である陳さん。

 彼は文のことを心底奇妙な者を見るような表情で、無言のままに見つめていた。

「おや? どうしましたか陳さん。見惚れてしまいましたか?」

 そんなことなど露知らず、文はしたり顔のままスカートの裾をつまんで一回転すると、周りの他の客たちが、驚きラーメンを吹き出してしまう。

「ナッ! オマエ、チョットこっち来イ」

 事態の重大さから慌てた陳さんが、まだ営業時間中だというのに文の腕を捕まえて、力づくで店の裏へと連れてゆく。

「何ですか陳さん。強引ですね」

 その様子をからかうような文の様子に、陳さんは怒りの形相で詰め寄っていく。

「ナンなのよ、ナンのつもりダお前。営業妨害か⁉」

「いやいや、陳さん。落ち着いて」

 明らかに頭に血が上ってしまっている陳さんを宥めながら、文は拙い事になったと思いつつも何とかこの難儀を逃れようとする。

「五月蝿いネ! そんな格好で何言われてモ、真面目に聞こえるわけガ無いでしょうガ」

「それもそうですね」

 陳さんの意見に何故か納得の入ってしまった文は、「フハハハハ」と彼女から発せられたとは到底思えないほど豪快な笑い声を上げる。

 そして、手に持っていたバックから取り出したウェットティッシュを使い、徐に顔に乗っけた化粧を拭き取り始めた。

「マッタク…それで左文字、何でオマエはそんな格好をシテいる」

 文が化粧を落とし始めて数分間。呆れたようにその姿を見ていた陳さん。彼がそう声をかけた時には、文だった顔はそこには無く、見慣れた左文字の顔が現れていた。

「さすが陳さん。誰も見抜けなかった私の正体を見抜くなんて」

 陳の慧眼を讃える左文字だが、讃えられた方は心底どうしようも無いことを言われたような、深い溜息を吐いて返す。

「オマエ、それ本気で言っているノカ? もし誰にも言われなかっタのだとしたラ、キット気を使われただけだゾ」

「えぇ? そうですか? 若い男の子には思いの外好評だったのですが」

 それを聞いた陳さんは「何だっテ⁉」と目を丸くする。

「まさか、オマエ。何か犯罪的なことヲ企んでるンジャ無いだろうナ⁉」

 冷や汗を垂らしながら距離を取る陳さんに、左文字も慌てて否定する。

「イヤイヤ! そんな事ありませんて。逆に青少年の校生に役立っているというか」

「到底シンジラレナイね」

 店に戻って受話器を取った陳さんは110番へと連絡しようとする。

「チョット! 冗談でも止めてくださいよ。もう、心臓に悪いんだから」

 慌てて陳さんの電話を切った左文字。陳さんは左文字に付き合いきず頭痛がするのか、蟀谷(こめかみ)の所をグリグリやっている。

「トリアエズ着替えてきてくれないカ…見ているだけデ、腹が立ってクル」

「そんなにボロクソに言わなくても」

 自分の今の格好が陳さんにとってあまりに不評であることに、左文字は納得いかない様子を示す。

 しかし、陳さんが真剣な表情で中華庖丁を振り上げて、無言のままに見つめてくるものだから、流石に反論できず言われたままに部屋へと戻っていった。

 それから約10分後。

 化粧を完全に落とし、服装もいつものユニセックスに『㊧の印半纏』を纏った左文字が店のテーブル席に座っている。

「ソレデ、いまオマエはイッタイ何をしているんダ?」

 そして、左文字の対面に腰を下ろした陳さんは、淹れ立ての中国茶を勧めてくれる。

 折しも時間は午後三時。店の昼営業が終わり、お客さんも既に捌けたあとの店内は、左文字と陳さんの二人しかいない。

 額を突き合わせて話をするには打って付けだったのだ。

「まあ、何といいますか、チョット喰い逃げ屋界隈に関わることでしてね」

 中国茶と一緒に出されたゴマ団子を一つ頬張りながら、左文字が話した内容に、陳さんは怪訝な顔をする。

「その顔、陳さん信じてないですね?」

「当たり前デショウ。ソレがなんで女装する事に繋がるネ?」

「まあ、話せば長くなりますけど、説明しないと納得してもらえないでしょう」

 これ以上犯罪者扱いされるのはあまりに不本意であるため、左文字は事の仔細を余す所無く陳さんに説明する。

「…ツマリ、その少年たちガ、喰い逃げ屋ヲ語って悪さスルから、その事情を調べるためニ、変装して近づいたト?」

「流石陳さん、その通り」

「ないわー」

 話が早くて嬉しいと、陳さんのことを持ち上げた左文字だが、当の陳さんからは更なる不評を買ってしまう。

「無いって、そんなにダメですか?」

「ダメもなにモ、そもそも何でオマエは話を聞き出すだけで女装までシテイルのさ。イミが解らんゾ」

「それは簡単です。相手は若い男の子ですから、女性の方が警戒されること無く近付くことができると考えてのことです」

「ウソを吐くナ。絶対に女装はオマエの趣味ダロ」

「…まあ、確かに暫く綺麗な格好をしていなかったから、久々に…という思いは、その…3割ほど? ありましたけど…」

 目を泳がせながら吃る左文字に陳さんは片手を広げて5割だと言ってくる。

「もう! そんなに! …は、解らないですが、ともかく残りの半分はあの少年の事を考えてやった事ですから」

 決して自分の行いに、やましい事ばかりではないことを主張したい左文字は、声を大にする。

「確か、斉場クンだったっケ? オマエが気に掛けいてる男の子」

「そうです。今日、実際に彼の話を聞いて解りました。彼自身の性根はまだ腐っていないってことが」

 だから腐りきる前に、差し伸べた手を掴んで欲しい。そういう思いが左文字を突き動かしていた。

「シカシ、珍しいことモあるんだナ」

 唐突にシミジミとそんな事を言う陳さんのことを、左文字はキョトンとした表情で見つめ返す。

「何がです? そんなに私、変でしたか?」

「変トいうか、オマエがそうやって誰かニ深く肩入れスルなんて、今までに無かっタと思ってナ」

 そうだろうか。言われて思い返してみても、自分の事ながら解らない。

 特に気にした事が無いからか、確かに自分が老若男女問わず一人にここまでした覚えがない。

 ―――だとすれば、陳さんの言うとおりなのかもしれない。

 では、思いの外自分が薄情だったことを知らされて、それでも自分が斉場少年を思うのは何故なのか。

「それはきっと、私は彼に自分が重なるからだと思うのです」

 自分と彼が似たもの同士だ。それは二人の会話の中で結びついた共感だった。

 まるで鏡の中の自分に手を差し伸べて掬い上げるような気分だ。

 だから、左文字は彼を放っては置けなかった。彼を何とかしなくては、自分もまた救われないような、そんな恐ろしさを感じていた。

「言いたい事は解ったヨ」

 陳さんも仕方がないといったふうに、肩を落として首を振る。

「ソレで、話は終わりジャないんだろウ?」

 そして、すべて、左文字の腹の中を見透かしたような眼差しで、陳さんがこちらを見据えてくる。

 ―――やはり陳さん、話が早い。

 それも代を股に架けて『喰い逃げ屋 左文字』と付き合ってきた陳さんのことだから、当たり前と言えばそうなのだが。

「陳さんには手伝ってもらいたい事があります」

「ソウカ、ヤルんだな」

「ええ、地獄を見せてやりましょう」

 左文字のその言葉を待っていたかのように、陳さんはそのシワの寄った顔に苦い笑いを浮かべた。

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