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喰い逃げ屋 左文字‐3  作者: 楠木 陽仁
5/12

3-5

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「おらぁ! 死ねぇヤ!」

 粟田から振るわれた拳が顔面を捉え、先ほどまで自分たちを追いかけ回していた牛丼屋の店員が宙を舞って吹き飛んでゆく。

 音を立てて地面に体を叩きつけられた店員は、呻く事すらせずにピクリとも、指の一つも動かなくなる。

「コッチもこれで終わりだ」

「ぐガっッ…!」

 そして振り返れば路地の奥では、木部良が店前に置かれている(のぼり)を支える重しを使い、倒れ伏している店員たちへ丹念に止めを刺していく。

「オイオイ、やり過ぎるなよぉー。俺たちはもうすぐ少年法が適用されなくなくなるんだから」

 暴れ回る二人の事を(たしな)める様な柊だが、その言の根に本心は無く、彼自身で横たわる店員を足蹴にしては嗤っている。

 そんな殺伐とした路地の中で、斉場少年が出来る事と言えば大人しく隠れている事くらいだった。



 あの日、池袋のラーメン屋で初めての喰い逃げ屋を自分たちが打った後。

 運が良かったのか。それとも無理が通っただけなのか。斉場少年たち4人は追っ手組からの追撃を逃れまんまと逃げおおせることに成功したのだった。

『いやあ、思ったよりチョロかったな』

『でも結構スリル在って楽しかったよな』

『それじゃあ、俺この動画上げてくるわ』

 自分たちが犯した罪の深さをマッタク理解していないのか、柊達の三人は、まるで遊園地帰りの子供の様に喰い逃げ屋の感想を、目を輝かせながら語り合っている。

 ―――うう、居づらい。こんな所に居たくない。

 一方、良心の呵責、罪の意識で押し潰されそうに成る斉場少年は、彼らとできるだけ距離を取りたいと思うモノの、例によって彼らが入り浸っている場所が自分の家である事実から、逃げ出すことも出来なかった。

『おい、斉場。コーラ出せよ。流石に喉が渇いたぞ』

 我が物顔で家に陣取り、斉場少年を扱き使う柊に反感を覚えながらも言うとおりにする斉場少年。

 彼がキッチンから冷えたコーラを用意して持ってきたときには、3人はリビングで何やらパソコンで動画を見ているようだった。

 何を見ているのだろうか? そんな興味とも、恐れともつかない感情に突き動かされて、斉場少年は画面を肩越しに覗いてみる。

 そこにはイッタイ誰が取っていたのか、先ほどの自分達が打って見せた喰い逃げ屋の様子が映し出されている。

『イイ感じに撮れているじゃないか』

『再生数も着々と上がってきているようだな』

『それは最近人気のコンテンツだからな。注目度が違う』

 斉場少年は(おのの)いた。自分たちの蛮行を晒して歓喜している3人もそうであるが、その様子を見に来る奴らがいることに。

 ―――こんな物を好き好んで見に来る奴がいるなんて。

 斉場少年の培ってきた良心では、その理由が理解できなかった。

『しかし、こんなに簡単に、しかも上手くいくなんて。思いもしなかったな』

『ああ、今回も喰い逃げ屋でコツも掴めたし。行けるんじゃないか?』

『そうだな。じゃあ次はこの店がイイんじゃないか?』

 呆気に取られる斉場少年の耳に、信じられない様な3人の台詞が聞こえてくる。

『あの…次って?』

 恐々と問いかける斉場少年に、三人が冷めた様な視線を向ける。

『あん? 次と言ったら次だよ。またやるんだよ、喰い逃げ屋』

『…何ですって?』

 柊の言った言葉は解る。しかし、とても呑み込めるような事では無かった。

 まさか、まだあんな無法をやろうだなんて、斉場少年にはとても理解できない柊達の感性だった。

 

 

 そうして、その後、2回の喰い逃げ屋を経て、今日へと至る。

 その度に彼らは注文時に店員を(たぶら)かし、逃げては追ってきた店員たちに暴力を振るい、傍若無人の限りを尽くしていた。

 そんな中、自分はどうしているかというと、今まさにしている様に、頭を抱えて震えているしかなかった。

 自分は彼らの様に喧嘩は得意じゃないし、そもそもこんな事にだって付き合いたいとは思っていない。

 それでも逃げる事を諦めた自分には、この嵐が取り過ぎるのを静かに隠れて待つしか出来ないのだと、斉場少年は思っていた。

「おい、斉場。何やっているんだよ」

「マッタク、お前はホントに役に立たないな」

「何時に成ったら役立ちマンに成るんだぁ」

 そんな弱腰の態度を示す斉場少年を、柊達の三人が小突いてゆく。

 屈辱的な気分になるものの、言い返そうなんて微塵も考え付かない斉場少年は俯いて、黙ったままを通していると、路地の入り口の辺りが騒がしくなる。

「居たぞ! こっちだ!倒れているぞ!」「…ぅッ。お前たち…こんな酷い事をよくも!」「仲間の敵を討ってやるんだ!」

 現れたのは先ほど打ちのめした店員の仲間たち。彼らは仲間の弔い合戦に燃え、血走った目で仇の余人を睨みつけている。

「あーぁ。見つかっちまったよ」

「さっきの喧嘩でチョット疲れたな」

「面倒臭いし、とりあえずトンズラするか」

 その視線の先に居る柊達は、マッタク自分たちに非が在るとは思っていないようで、遊びに出かけるかのような軽い駆け足で、彼らとは反対方向、路地の出口へと向かって逃げてゆく。

「ああぁ! 置いて行かないで!」

 自分の事など眼中に無いとでも言うように、サッサと逃げ出してしまう柊達を、焦って追いかける斉場少年。

「うぁ⁉」

「危ないっ⁉」

 しかし、路地の出口で通行人とぶつかってしまった斉場少年は、倒れたその人物の助け起こそうとする。

「待てぇコノ!」「逃がすかぁ!」「散々やりやがって! もう許さん!」

 そんな斉場少年の仏心など知る由も無い追っ手組は待ってくれる筈も無く、すぐ傍まで迫ってきている。

「その…、すみませんでした!」

 ここで捕まるわけにはいかない。斉場少年は謝罪もソコソコにその場から逃げ出してしまう。

 その足取りは先ほど食べた牛丼が胃で渦巻いているため重々しく、軽やかな物では無かったが。

「イタタ…。イッタイどうしたんでしょうか?」

 ぶつかって来た少年と、それを追う一団が通り過ぎるのを見送った人物が、埃を払いながら立ち上がる。

「なんだか最近、池袋が騒がしいようですが」

 通り過ぎたその先を見送るのはぶつけた腰を摩って溜息を吐く。

 羽織るその印半纏には『㊧(まるにひだり)』の文字が染め抜かれている。

「うぅ…左文字さんか?」

 そう呼ばれた印半纏の人物、左文字が声の方を振り返れば、倒れた人物に見覚えがある。

「チョット! 芳野(よしの)さんじゃないですか!」

 芳野の傍へと駆け寄った左文字は、彼の様子に眼を剥いた。

「酷い怪我ですね。イッタイ何が有ったんですか?」

 芳野の応急手当てをしながら問いかける左文字だが、当の本人は呻くばかりで要領を得ない。

 ―――それに、この有様は。

 左文字が周りを見渡せば、死屍累々積み重なっていて驚愕する。

 とりあえず彼らを何とかしなくては。左文字は救急車が到着するまでの間、彼らを付きっ切りで手当てをし続けた。



「お加減は如何ですか? 芳野さん」

 芳野たち牛丼屋の一行が病院に担ぎ込まれてから数時間後。手当てを終えた彼らが座る待合室に、左文字が見舞いにやって来た。

「見ての通り、軽い怪我で済んだよ」

 芳野が振るうその手には、巻き付けられた包帯が白く映えている。

 その下のガーゼには赤い染みが痛々しくて、左文字は顔を顰めてしまう。

「イッタイ何が有ったのですか? 差し支えないならば、詳しく教えてくれませんか?」

 差し入れのペットボトル入りのお茶を手渡しながら、芳野の横に腰を下ろした左文字。

 その興味の矛先は勿論、この惨事の理由であった。

「実はな、言いにくい話なんだが、喰い逃げ屋をやっていたんだよ」

「…? 何ですって」

 喰い逃げ屋というキーワードに、左文字の顔は表情に変わる。

 喰い逃げ屋たる左文字にとって、その喰い逃げ屋でこんな惨事が起きている事は、非常に看過できない事なのだ。

「けれども、何で芳野さんたちがこんな目に合っているのですか? ちゃんとルールを守っているのなら、こんな事には成らない筈なのに」

「それが、そうじゃ無いんだよ」

 そうして芳野は今日、柊達に挑まれた喰い逃げ屋の仔細について左文字に語って聞かせてくれた。

 その説明を聞くにつれて、左文字は彼らが如何に無法であるかを知る事に成る。

 注文した料理はほとんど食べきることも無く、喰い散らかすだけ散らかして、無残な残飯に成ってしまう事。

 そして食べ残したことはその場で失格であると言うのにも拘らず、難癖を付けてそのまま逃げ出してしまう事。

 極めつけは逃げる道中に、追っ手に対して暴力を振るい、今の芳野たちの様に病院送りにしている事。

「俺はまだマシだけれども、店の仲間の一人なんか、店先の電光パネルに顔ごと叩きつけられて、5針も縫う怪我を負わされているんだ」

 それらを聞かされた左文字は愕然としていた。芳野の牛丼屋を襲った喰い逃げ屋たちの無法ぶりに言葉も出なかった。

「左文字さん。アンタに言うのは申し訳ないが、もう俺は喰い逃げ屋なんて懲り懲りなんだよ。最近人気だか何だか知らないが、こんな道理の解らない奴まで出てきてしまって、これ以上関わり合いに成りたく無いんだ…」

「―――――――――ッ…」

 左文字は言葉を言いかけて押し黙った。

 それは違う、そうじゃない。喰い逃げ屋はそうじゃない。

 否定の言葉が喉を突き破って飛び出しそうになったが、それを言ったところで何が変わるという訳でも無いことを、左文字は理解していた。

 それは芳野たち一般の料理人にとって、喰い逃げ屋は傍迷惑な存在でしかないからだ。

 第一、代金も払わず、好きなだけ食べ散らかして、挙句の果てに鬼ごっこまで強要するなんて、どれほど喰い逃げ屋は虫のイイ話なのだろう。

 それでも、喰い逃げ屋が成り立っているのは、店側の好意に甘えてのことであり、そのことを左文字はいつも心して、彼らに感謝をしている。

 だからこそ店側の、芳野たちの信用を失ってしまったことは、大きな痛手であり、牽いては喰い逃げ屋界隈において取り返しのつかない損失となった。

 その事実に落胆しながら、左文字はトボトボと病院からの帰り道を歩いていた。

 信用はドミノのようなもので、一つずつ着実に最新の注意を払って積み重ねてきたとしても、ふとした拍子に一気に崩れてしまうものである。

 そしてそれが今なのだ。左文字は身をもって痛感していた。

 崩れてしまった牛丼屋、芳野との関係。それを修復する事が出来るだろうか?

 それを思うと左文字は悲しい気分となり。その悲しみは怒りと成って矛先が(くだん)の喰い逃げ屋たちに向けられる。

 いいや、そいつ等は喰い逃げ屋とすら呼ぶことは出来ない。指し示す言葉が有るのなら『無法者』がピッタリだろう。

 彼らのそもそもがすべてルールを無視しているのだ。それを(まか)り通して憚らないそいつらに、流石の左文字もムカムカしてくる。

 喰い逃げ屋は確かに外道の商売だ。それは左文字も良く知っているし、良く口にしている事である。

 しかし、外道も立派な『道』である。だからと通すべき『筋』が有る。

 それすら無視するその輩の存在を、左文字は許しては置けないと思った。

 然るべき制裁が必要だ。そう考えたのだった。

 故に左文字は彼らの事を一から調べる事とした。

 まず手始めに、左文字が向かったのは、喰い逃げ屋の行われた牛丼屋であった。

 芳野がオーナーを務めるこの牛丼屋は、CMでもよく見かける有名チェーン店である。

 そんな牛丼屋が昨今の流行りを敏感に取り入れ、喰い逃げ屋チャレンジを始めたのは約一ヶ月前のこと。

 それは左文字も知っているし、実際に挑戦したこともある。結果はもちろん左文字の勝利であったが。

 しかし、そのことは大いに話題になり、ネットを通じ、『あの喰い逃げ屋左文字が挑んだメニュー』であると拡散した。

それが切っ掛けと成り、店の売り上げが普段の倍にまで膨れ上がったくらいである。

 ―――あの時は芳野さんから感謝されたものですがね。

 その時、左文字の手を取って満面の笑みを湛えながら感謝の言葉を述べていた芳野のことは、はっきりと思い出せるものの、今はその逆となってしまった。

 店に入った左文字が先ず気がついたことは、中に誰もいないということだった。

 普段なら時間を問わず客が座っているカウンター席にも、24時間休み無く動いている厨房にも誰一人として居なかった。

 それはきっと先の喰い逃げ屋に店の総出で立ち向かったものの、不良たちによって返り討ちに合い、結果、店を回せる人が居なくなってしまったのだと左文字は推し量る。

 この伽藍(がらん)(どう)な店内に物珍しさを感じつつ、店の中を見回すと、無法者たちが座っていたと思われる席がすぐに解った。

 なぜその席が解ったのかというと、机の上を未だに占拠する、山のような牛丼の食べ残しがあったからだ。

 その残飯を見た途端、左文字は余計に腹が立ってきた。

 喰い逃げ屋も地に落ちたものだ。そもそも出された食べ物を粗末にするなんて言語道断だろうに。

 もちろん新規の参加者は好ましいことではあるが、こういった輩が増えるという反面もあることが悩みどころである。

「マッタク…ほとんど食べていないじゃないですか」

 その席に近づきつつ、溜息混じりに文句を口にする左文字だが、ふと一杯の丼に目が止まったのだった。

 彼らが食い逃げ屋を行ったテーブルには4つの丼が置いてあり、再三言うようにそのほとんどが食べ残されている。

 しかし、その中でたった一杯だけ完食された丼があったのだ。

「ほぅ…」

 思わず左文字も唸ってしまう。よもやあの中に見込みのある奴が居たとは、終ぞ思わなかったからだ。

 そして次に左文字の中で起こったのは、この一杯を完食した人物はどんな奴だったのかという興味だった。

 その興味の対象を調べることは比較的簡単に出来た。

 理由としては、彼らがサイトへアップしていた喰い逃げ屋の動画がすぐに見つかったからだった。

 生真面目なのか律儀なのか、彼らは喰い逃げ屋を行った様子を毎回動画サイトへとアップしており、その経歴が丸解りだったのだ。

『一品香』の自室に戻り動画の一つ一つを見ていく左文字だが、その表情は常に苦い顔で固定されていた。

 彼らのあまりにもお粗末な喰い逃げ屋は、どれも左文字にとって反吐が出るような内容ばかりで、次第に腹が立っていく。

 それでも我慢して動画を見続けた左文字は、漸くお目当ての人物を見つけることが出来たのだった。

「どうやら彼みたいですね…」

 一見して他の三人とは違う、小柄で小心者っぽい少年が、あれだけの量の料理を腹に収めたのかと思うと(にわ)かに信じ難くある。

 それでも動画は彼が超大盛りの料理を完食したと言う嘘偽りない現実を写しており、左文字もこれには舌を巻いたのだ。

「…っ⁉ あれっ? この子は確か…」

 そして、左文字が一番驚いたのは、その少年に自身が見覚えの有る事だった。

 忘れもしない、それは数週間前の事。

喰い逃げ屋の『逃げ』の途中で『池袋大橋』にて突き飛ばし、危うく眼下の線路に叩き落とし掛けた少年。

 それが動画で料理を完食した少年と一致したのだ。

 何と言う奇縁だろうか。流石の左文字もこれには偶然を通り越した因果なものを感じてしまった。

 そうなってくると左文字の興味は決定的にこの少年へと狙い定まってしまう。

 ―――彼はイッタイどういう子なのだろう?

 ―――名前は何と言うのだろうか?

 ―――そもそも、喰い逃げ屋に興味はあったのだろうか。

 グルグルと頭の中で浮かんでは消える疑問に対し、だったらばと左文字は思い経つ。

 そして部屋の隅に在るクローゼットを漁り始めて数分後、目当ての物を取り出した左文字は姿見に己とそれを映し出す。

 左文字のその手に在ったのは、女性物の服だった。



 牛丼屋での喰い逃げ屋からから数日後。斉場少年は一人で宛もなく池袋北口の雑踏の中を歩いていた。

 こうして歩いているのは、柊たちが今日も自宅を占拠しているため、帰る場所が無いからである。

 ―――まるで自分が除け者になったような気分だ。

 言い知れない孤独感と、見えない明日への不安感から斉場少年の胸中は嵐のように荒んでいた。

 ―――ちくしょう…、チクショウ…畜生!

 声に出すことの出来ない絶叫が頭の中で反響すれば、斉場少年は周りの事などお構いなしに駆け出したい気分となってしまう。

 気が(そぞ)ろと成ってしまっては、居ても立ってもいられないのだ。

 外聞も視線もかなぐり捨てて駆け出さないことには、何かが自分の中で破裂してしまう。

そんな強迫観念ともつかない衝動が斉場少年を襲い、彼の足を前へと全速で駆け出させたのだった。

「アッ!」

 しかし、その駆け足は向こう見ずに過ぎたのだ。

 犬も歩けば棒に当たる。街を走れば人にぶつかる。

 目の前を注意することなく走り出した斉場少年が、路地の出口で通りすがりの人とぶつかってしまうのは自明の理である。

 そしてその人物は、駆けてきた斉場少年の勢いにやられ、突き飛ばされた後に道路に(うずくま)っている。

 ―――ああぁ…! やってしまった。

 これには斉場少年も顔を青くする。いくら気が立っていたとは言え、見ず知らずの人にぶつかって、怪我をさせてしまったとなれば頭も肝も冷えるものだ。

 ―――どうしよう…。どうすれば…。

「イタタ…」

 焦りのあまり混乱し、斉場少年が手を(こまぬ)いている内に、大事は無かったのだろうか、倒れていたその人物が起き上がった。

「…あぁ、その、大丈夫ですか? お怪我は?」

 今更になって声を掛けることにバツの悪さを感じているのか、歯切れの悪い言葉を使いながら斉場少年が手を伸ばす。

「いいえ、大丈夫です。有難うございます」

 斉場少年の手を取ったその人は、彼が加害者であるにも拘らず、お礼の言葉を述べながら助けを借りて立ち上がった。

 その立ち姿を見て斉場少年は思わず息を飲んだ。

 彼は齢十余年というまだ蕾が綻ぶ程度の人生を生きてしかいないが、それでも彼のこれまで出会ってきた、そしてこれから出会うであろう人の中で、一番綺麗だと思えるような女性が自分の手を取っていたからだ。

 肩口で切り揃えられた黒髪がサラサラと風に(そよ)いでいる。

涼し気なその眼差しに溢れんばかりの優しさを湛えている。

斉場少年より少し上背のある華奢な体つきを、ユッタリとした冬物のドレスが優しく包み込んでいる。

 外見から察するに斉場少年より少し上。恐らく十代後半から二十代前半だろうか?

 その年齢の女性が持つ瑞々しい魅力が、内からはち切れんばかりの彼女だが、それでいて怪しげな色気が隠しきれない。

 それは例えるならば、歌舞伎の女型のような、得体の知れない色気があった。

 そんな彼女の圧倒されるほどの魅力に気圧されて、斉場少年は思わず差し出した手を引っ込めてしまった。

 そしてやってしまった事に後悔する。これじゃああまりにも失礼じゃないか。

 自分の失態に口をパクパクさせる斉場少年。その様子が可笑しかったのかその美女が「フフフっ」と品良く笑う。

 その笑い声さえもまるで鈴を転がしたように響きよく、いつまでも聞いて居たくなるような耳心地の良さだった。

「あら、御免なさい。笑ってしまうなんて失礼でしたね」

「いいえ…むしろ僕の方が謝らなくちゃ。その…ぶつかってしまって、本当にすみませんでした」

 なんて礼儀正しい人なんだろうか。自分の比例を攻めるよりも先に、自分の失態を詫びるなんて人は斉場少年にとって初めてのタイプだった。

 そして、その女性は斉場少年の謝罪に対しても「気にしないで下さい」と優しく微笑み返すのみだった。

「あんなに全速力で駆けてくるなんて、きっと何か急いでいたのでしょう? よっぽどの事があったなら仕方ないですよね」

 笑って誤魔化す斉場少年だが、その実は目的に向かっての疾走ではなく、現実からの逃避であったなんて。

 こんなことは格好悪すぎて口が裂けても言いたくない。だから斉場少年は「そうですね」と挙動不審に同意するに留めた。

「ああ、やはり。では長々と引き止めては申し訳ありませんね。それでは、これにて失礼します」

 しかし、斉場少年がそれに同意してしまうということは、自分がありもしない事情に急かされていたということで、気を使ったのか女性は話を切り上げてその場を立ち去ろうとする。

「あっ…」

 このまま別れるのはあまりに後ろ髪を引かれると、何か言葉にしかけた斉場少年だが、声にもならない音が出たのみで、そこから先が続かない。

 何て意気地の無い事だろう。自分のチキン加減に泣きたくなる斉場少年の心境など知らない女性は、ニッコリと笑って会釈をしたら、踵を返して去ろうとする。

「―――イタッ…!」

 だが、その一歩を踏み出した瞬間に、女性は足を止めて自分の右足を庇うような素振りを見せる。

「⁉ どうかしましたか?」

 見るからに緊急事態の彼女の様子に慌てた斉場少年も、彼女が抑える足を見れば、一目でその理由が理解できた。

 さっき転んだ拍子にでも傷付けたのか、彼女の細い足首を守る白いソックスに、鮮やかな赤い染みが刻々と広がってゆく。

 ―――これはいけない!

「手当てをしますから、チョット待っていてください!」

 その女性の「お構いなく」という言葉を背中で聞き流して、斉場少年はコンビニで応急セットを購入して戻ってくる。

「この位なら問題ないですよ。そんなに気に為さらなくても」

 少々大袈裟な斉場少年の反応に少し困ったような笑顔を向ける女性だが、「痕に成っては大変ですから」と斉場少年は強引に足の様子を見る。

「良かった。これなら僕にも何とかできそうです」

 幸い、女性の怪我は皮膚を擦り剥いた程度であり、この程度ならば斉場少年でも消毒と絆創膏で処置ができる。

「ありがとうございます。君は優しいのですね」

 処置を終えた斉場少年に、彼女は改めてお礼を言う。

「いえ、当然のことをしたまでです」

 彼女からお礼を言われることに味を占めた斉場少年は、元は自分が仕出かした過ちであることを棚に上げ、誇らしげに返事をする。

「それからもし、悪化するようなことが有ったなら―――」

 そう言って斉場少年は先ほどのコンビニのレシートに、自分の携帯の番号を走り書きして手渡した。

「ここに連絡を下さい。いつでも駆けつけますので」

 見ず知らずの人に自分の個人情報を無防備にも渡すのはどうかと思う。

 けれども、怪我をさせてしまった彼女に対して、このまま知らん顔を決めるのは斉場少年にはどうしても気が咎めたのだ。

「お気遣いありがとうございます。けれども何度も言うように大丈夫だと思いますよ」

 むしろ気軽に掛けて来て欲しいとスケベ心が鎌首を(もた)げる斉場少年だが、表に出さないように必死の笑顔を顔に張り付けていた。

「あれ? これは君の名前?」

 繁々とメモ書きを眺めていた彼女は、数字の他にも書かれている斉場少年の名前に気が付いた。

「そうです。僕、『斉場(さいば) (しょう)太朗(たろう)』って言います…。子供っぽい名前ですよね?」

 自分の名前があまり気に入っていないのか、嫌悪感と気恥ずかしさとが入り混じった何とも言えない表情を斉場少年がみせる。

「いいえ。カッコいいと思いますよ。まるでヒーローみたいで」

 しかし、彼女は卑下する斉場少年を優しく包み込む様な言葉で励ましてくれる。

 それがお世辞であったとしても、斉場少年にはこんな美人から自分の名前を褒められるなんて思っても見ない事であり、頬が熱くなるのを感じたのだった。

「そうですね。それならば私も名乗らなければ失礼ですよね」

 照れてしまって二の句が継げなくなっていた斉場少年に、彼女は花が綻ぶような笑顔を向けた。

「改めまして、私は『(ひだり) (ふみ)』と申します」

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