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喰い逃げ屋 左文字‐3  作者: 楠木 陽仁
4/12

3-4

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 週末の池袋東口界隈は普段にも増して人の出入りが激しくなっている。

 平日ならば通勤通学の乗降客がひっきりなしに通り過ぎてゆくだけの、この通路であるが、週末ともなればショッピングやら映画鑑賞やらといった、レジャーのために利用する客の方が多くなる。

 そうなれば自ずと待ち合わせる必要が有り、そのために待っている人が居る分だけ、人の数が多くなったように感じるのだろう。

 そして、ここ池袋駅にも待ち合わせスポットとなるべき目印がいくつかも受けられており、東口階段下の地下通路にある『いけふくろう』の石像もその一つである。

 渋谷駅の『ハチ公像』や東京駅の『銀の鈴』のように、駅に一つや二つある待ち合わせのモニュメントであるこの『いけふくろう』像。

ではあるが、池袋の名前をダジャレなそのネーミングのバカバカしさと、『不苦労』に転じる縁起の良さから多くの待ち合わせ客の門出を応援しているようでもあり、利用者から長年受け入れられてきたモニュメントである。

 現に、そこで待ち合わせている人たちの顔の何とイイものか。

スマホを弄る若者はこれから暫くぶりに集まった学友たちと旧交を温めるべく、界隈の呑み屋へと繰り出す算段を付けているところだろう。

時計を何度もチラチラと伺う少女は、何度目かのデートの約束をしたボーイフレンドが駆け寄ってくるのを今か今かと待ち侘びている。

母親とその子供らしき二人連れは、運悪く休日出勤と成ってしまった父親が、仕事を切り上げて合流し、せめて夜の時間だけでも休日を楽しむべく映画とレストランへと行くのだと、目を輝かせながら待ち焦がれている。

そんな、これから楽しい事しかないのだと、雰囲気明るいその場所に、ただ一人、意気消沈した様子の少年が立っていた。

かれこれ既に一時間、その場に立ち尽くす少年は、スマホの画面を確認し、最早何度目か数え切れない回数の溜息を吐き捨てた。

 もちろん彼も人が来るのを待っている。待ってはいるのだが、できれば来て欲しくない。そんな矛盾した心持のまま、少年は通信アプリのチャット画面を再度確認する。

『おい、斉場。今度の土曜日の17時に『いけふくろう』前に来い。チョットでも遅れたら承知しないからな』

 見るたびに陰鬱になるその字面だが、到底無視するわけには行かない。もし仮に無視でも決め込もうというものなら、どんな恐ろしい目に合うことになるのだろうか。想像するだけで身震いがしてしまう。

だから、遅れるわけにもいかず、予定の時間よりも30分早く来たというのだ。

 そう、来たというのに、奴らは来なかった。既に待ち合わせ時間として指定された17時は1時間以上前に過ぎている。

 これだけ待って来ないというのなら、奴ら人を呼び出しておいて忘れているのではないだろうか?

 そんな考えが頭に過ると、むしろそちらの方がどんなにイイだろうかとさえ思えてしまう斉場少年。

 しかし、奴らはやってきた。時間は既に19時を回っていた。

 ギャアギャアと品のない、そしてどうしようもない内容の会話で盛り上がっている柊たち3人が、仏頂面でいけふくろう前に立ち尽くす斉場少年を見つけると、まるで獲物を見つけた肉食獣のように舌舐めずりをする。

「よう、斉場。逃げなかったんだが」

 何が面白いのか、ニヤニヤと笑いながら斉場少年の肩に手を回す柊。

 日頃の不摂生からか、鼻を摘みたくなる程の病的な匂いの吐息が斉場少年の顔に吹き掛かると、思わず彼は顔を(しか)めてしまう。

「今日はイッタイ何をやるのですか?」

それでも、なんとか我慢して斉場少年が問いかければ、柊は気元良く「それな」と相槌を打つ。

「この前、お前の家で喰い逃げ屋をやろうって言ったのは覚えているか?」

 それはもちろん覚えている。だってあれは昨日のことだったのだから忘れようもないだろう。

「それを今日やろうって言うんだよ」

 なんて無計画な。

 あまりに無鉄砲な申し出に、斉場少年は口をあんぐりと開けたまま、二の句が告げなくなってしまう。

 柊はイッタイ何を根拠にあんな酔狂なことをやろうと思ったのだろうか。

 それに粟田も木部良も乗り気なのが薄気味悪い。

「チョット待って下さい。本気なのですか?」

 身の危険を感じて、普段の斉場少年らしからず、彼らを静止する言葉が口をついて出てしまう。

「あん? 何だよ。文句あるのか?」

 案の定、3人からは白い目で見られるが、それでも珍しく斉場少年は食い下がる。

「だって…あんな真似はどうヤったって素人には無理じゃないですか。そもそも、僕らはあんなに大食いだってできませんし、その上、大食いした後に走って逃げなくてはいけないんですよね? そんなの普通に考えて無茶ですよ」

 斉場少年の熱の篭った説得に、不良3人組は一瞬、シンと静まり返る。

 だが、次の瞬間、堰を切ったように3人ともが斉場少年を嘲笑いだしたのだ。

「斉場ぁ、お前はホント馬鹿正直なやつだな」

「久々に大笑いしたぜ」

「あー苦しい」

 何でそんなに笑われなければならないのか。訳も解らず困惑する斉場少年に、柊はしたり顔で言い放つ。

「何もクソ真面目に付き合う必要はない。要は、こちらの都合のイイように振る舞えばイイという話だ」

 ますます訳が解らない。眉間に(しわ)を寄せる斉場少年に対して、3人の不良たちは「イイから黙って付いて来い」と伝え先導する。

 イッタイどこへ向かうのか。嫌な予感しかしない斉場少年だが、この場に残ってもあとが怖いため、渋々彼らの跡をついて行く。

「ここだ。ココがイイ」

 そうして歩くこと10分。柊が足を止めたのは一軒のラーメン屋の前であった。

 一見する何の変哲もない、何処にでもあるようなラーメン専門店であるが、その入口の所に張り紙で『喰い逃げ屋 挑戦者募集』と書かれている。

「本当にやるのですか。喰い逃げ屋」

 柊達が言ったことが冗談であってほしい斉場少年だが、当の本人たちは「何を今更」と(のたま)って(はばか)らない。

「ここまで来たんだ。覚悟を決めろ」

 そうして真っ先に柊が暖簾を潜ると、店内から「いらっしゃいませ!」と威勢のイイ声が掛けられる。

 その言葉に後押しされて、意を決した斉場少年は、不良3人が占拠する4人がけのテーブル席へと腰掛ける。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」

 店員がお冷とおしぼりを手に御用聞きへとやって来る。

 その店員の服装を見て斉場少年は目を丸くする。

 その姿、昨日の夜に池袋大橋で、左文字なる変人を捕まえていた料理人の服装と同じではないか。

 向こうはこちらに気付いてはいないが、それでも斉場少年は、顔を伏せてなるべく気付かれないように身構える。

 何だって昨日の今日でここへ来てしまったのか。

 今にして思えば、左文字を彼らが捕まえた時も、喰い逃げ屋だと言っていた。

 そして、その時に十数回目にして初勝利だと言っていた。

 その言葉の裏を返せば彼らは左文字を通じて十数回もの食い逃げ屋を経験している、即ち追っ手組の熟練者ということになる。

いよいよ以てヤバイのではないか。

 脂汗をにじませるさいば少年だが、そんなことを知らない店員は、その顔には自分たちが普通の団体客であると写っているのだろうという様子が伺える。

 それもそうだろう。自分だってラーメン屋に入ったならば、普通のラーメンかもしくはつけ麺を注文するだろう。

「このチャレンジメニューを人数分」

 しかし、柊達の当初の目的通り、食い逃げやチャレンジのメニューを頼むと、店員の顔が真剣なものへと変わりゆく。

「…お客様。束のことお聞きしますが、『喰い逃げ屋』というものをご存知で注文されているのでしょうか?」

 念を押してくる店員。その目には自分たちのような子供に喰い逃げ屋をやることなんて、到底無理難題なのだという決め付けが見て取れる。

「あん? 何だよ。この店は客を選り好みするのか?」

「それって差別だよなぁ」

「お客様は神様だぞ。神様の注文は絶対だぞ」

 それに対して柊たちは喧嘩腰で構えている。

どうして穏便にやれないのだろうか。斉場少年は肩身の狭い思いで縮こまってしまう。

「…どうなっても知りませんよ」

 店員と不良たちの間で一瞬の火花が散る。これが最後通告だと言うように、店員が再確認するが、柊達は取り合わない。

「イイからオーダー通せよ」

 どこまでも突っかかる柊に、遂に店員は諦めたのか「喰い逃げ屋、一丁入りました!」と自棄(やけ)っぱちの如く響く大音声で宣言する。

 その声に伴って、店の空気がゾワッと震えるのが感じた。

「喰い逃げ屋とかマジかよ」「アイツらが? どう見ても子供じゃないか」「どうせ冷やかし。遊びのつもりなんだろう」

 ヒソヒソと柊たちを盗み見る客たちの奇異の視線に晒されて、斉場少年は今すぐにでも消え去ってしまいたい思いに駆られる。

 一方の柊たちはというと、そんな視線など慣れたものなのか、ふてぶてしくも椅子に座り崩しながら各々スマホを弄っている。

 どうやら彼らはSNSで自分たちが喰い逃げ屋をやる事を発信しているのだろう。

 彼らのアカウントを登録している斉場少年のスマホから、引っ切り無しに通知が入るためそれが窺える。

 そんな余裕綽々の彼らだが、斉場少年は不安で仕方がない。

 喰い逃げ屋に関して彼らは何か策はあるのだろうか? まさか無策で挑むわけではあるまいか?

 斉場少年と柊達との付き合いは1年以上経ってはいるものの、彼らが取り立てて大食いと言う訳でない事は知っている。

 彼らは料理を頼んでも喰い散らかすだけ散らかして、満足したら完食することなく食卓を後にする。

 その際、彼らに『いただきます』も『ごちそうさま』も無い。何に対しても、誰に対しても感謝の一欠片も無いのだ。

 要するに、彼らにとって食事とは、生きるためにタダ必要だからやっているだけであって、呼吸や睡眠と同じことであり、こだわりは微塵も無いのだろう。

 だったら点滴でも打っていればイイのでは。そのままベッドで過ごして居ろと、斉場少年は常々思うのである。

 そんな彼らが何の因果か喰い逃げ屋に挑戦する。これには嫌な予感をヒシヒシと感じずにはいられなかった。

「お待ちどうさまでした。こちら、当店の喰い逃げ屋チャレンジメニュー『超特盛油そば』でございます。

 数人係で運ばれてきた器がテーブルの上に置かれると、ズゥン…と地響きが鳴った様な、そんな錯覚に陥る。

 それくらい、運ばれてきた油そばは、常軌を逸する程の威圧感を放っては、テーブルの上に胡座を掻いて占拠する。

 ―――ああ、なんてバカなことに付き合ってしまったのだろうか。

 斉場少年が後悔するほどに見上げるその油そばは、よもや一食分どころか数日分の食事ではないかと思える。

 目方で換算したくらいでも、優に二十人前は軽く超えているだろう。

 それが4つもテーブルの上に乗ったのだから、もはや互の顔を見合わせることすら侭成らない。

 これを食えというのか…。

「制限時間は30分です。途中のギブアップ、または完食できなかった場合は失格と見なし、私共の勝ちと致します」

 既に戦意を喪失している斉場少年を置いてけぼりに、話は着々と進んでゆく。

「なお、もし負けた場合には、食事代として、一人1万円ずつ請求いたしますので、ご了承ください」

 そんなの聞いてない!

 思わず声に出してしまいそうになった斉場少年だが、寸でのところで歯止めが効いて踏み留まる。

 しかし、負ければ1万もの金を払わなければならないなんて、どれほどリスキーなゲームをしなくてはならないのか。

 自分たちの勝ちの目が薄いこと、そしてその先に待つ地獄に動揺する斉場少年だが、「イイから始めろよ」と催促をする柊達の声には迷いが感じられない。

「成程、覚悟はよろしいようで」

 覚悟など出来ていない斉場少年の事など露知らず、柊たちしか眼中に無い店員がその手に掲げたストップウォッチのボタンに指をかける。

「それでは、喰い逃げ屋、スタート!」

 そして電子音が響くとともに、斉場少年たちとラーメン店との喰い逃げ屋真剣勝負の幕が切って落とされた。

しかし、半分パニック状態に陥っていた斉場少年は、放心状態でいたためスタートダッシュに遅れてしまう。

… ⁉ ああっ!イケナイ。

数秒経ってようやく気が付いた斉場少年は、店員の持つストップウォッチのデジタル表示の数値が刻々と変化していくことに焦り、すぐさま箸を『超特性油そば』の丼の中へと突っ込んだ。

そして、掴み取った麺の数本を口に運んだ。その瞬間、衝撃のあまり鼻から麺を噴きだしてしまいそうになる。

「えっ⁉ なっ⁉ (つゆ)⁉」

 啜り上げた中華麺に纏わり付く液体の舌触りに思わず声が出る。それは普通の油そばには有るまじき感覚である。

 ご存じの通り、油そばとは汁無しの麺料理である。

 濃い目に味付た少量のタレを注いだ丼の中に、中華麺、チャーシュー、味玉、ネギ、メンマなどなど。飾り付けるように具材を盛り付けて一杯を作るのが油そばである。

 そのため、ラーメンと酷似した料理であるが、その明確な線引きとしてスープが有るか否かという所に有る。

 この線引き、ラインこそが重要なのである。

 しかし、自分たちが注文したこの『超特性油そば』はそのタブーを易々と踏み越えてしまっている。

 必死に麺と具材を掻き分けて、漸く丼の淵をのぞき見ると、確かにナミナミと丼の中に液体が湛えているのが確認できた。

「ちょっと! これって油そばじゃなくラーメンなんじゃないか⁉」

「オーダー間違えてんじゃねぇよ!」

「やり直しだ! ノーコンテストだ!」

 柊達もこの事に気が付いたのか、口々に店を非難して騒ぎ立てている。

「そうだぞ… ! 勝負を中止…しろ!」

 斉場少年としても、出来るならこれ以上食べたくないし、ここで柊達に同調しなければ後々怖い事に成る。

 だから斉場少年もクレームを口にするが、言い慣れていない言葉は実に歯切れが悪く、口からボロリボロリとダマに成って零れ出る。

 宛ら小型犬の様な啖呵で攻める斉場少年のクレーム。こんな様子じゃ舐められる。

だが、それを含めた4人の文句を鼻で笑った店員が、落ち着く様にと言い聞かせる。

「お客様、お出しいたしました料理に御座いますが、決してラーメンでは無く、油そばで間違い御座いません」

「ウソを言ってんじゃねぇよ! ほら、見てみろ! ナミナミとスープが入ってんじゃないかよ!」

 冷静を装う店員を取っ捕まえて、無理やりに丼の中身を確認させる柊は、相当頭に来ているのか赤ら顔に血管が浮き出ている。

 そこまで乱暴しては大変だと、慌ててしまう斉場少年だが、店員は堂々と柊の手を払いのけると襟を正す。

「何の問題もございません。こちらは御注文して頂いた『超特性油そば』で間違いありません」

 どこまでもこれが油そばであるとして、決して意見を曲げようとしない店員に、柊達3人は今にも爆発しそうになっている。

 このままでは喰い逃げ屋どころではない。もっとヤバい事に成る。

 かと言って何が自分に出来るだろうかと、斉場少年は出来るだけ関わり合いにならないように小さくなっているしかなかった。

「まあ、落ち着いてください。論より証拠です。そのお客様がスープだと言っているその液体。一口飲んでみてください」

 そう促されて、恐る恐るレンゲで啜る斉場少年は、口に含んだ瞬間に思わず咽せってしまいそうになる。

「これって! 油じゃないか!」

 コックリ、トロトロ、ヌラヌラと。丼の中に揺蕩(たゆた)うそれは、紛れもなくタップリ注ぎ込まれたサラダ油だった。

「ねぇ? 汁じゃなかったでしょう?」

「ふざけるな!」

 どうだとばかりに見栄を切る店員だが、それに対して柊たちが食ってかかる。

「こんなものが油そばでたまるかよ! 別の料理じゃねぇか!」

「しかも食えたもんじゃない!」

「詐欺だよ! 詐欺!」

 ギャアギャアと好き勝手に喚き散らす3人だが、その罵声を一身に受ける店員はどこ吹く風の涼しい顔を決めている。

「油そばに、油が入っていて、何か、問題でも?」

「!」

 ズイッと詰め寄ってくる店員に気圧されて、一瞬押し黙る3人。

「けれども… 限度ってものがあるだろう!」

だが、それでも引き下がらないのが彼らである。

しかし、そんな風に啖呵を切る柊だが、最初の生勢は削がれている。

「まだ言いますか…。それならこのメニューを見てみなさい。ちゃんとここに書いてありますよ」

 グイッと突き出されたメニュー。その注文した『超特製油そば』のページをよく読んで見てみれば、確かに細かい文字で注意書きが記されている。

「こんなの正しく詐欺の手口じゃないか…」

 既に意気消沈気味の斉場少年だ。周りの三人も顰め面をしている。

「今ならギブアップを受け入れますよ。宜しければ、代金は半額て手を打ってあげましょうか?」

 既に勝った気でいる店員。そのしたり顔にイラついたのか、柊が腰を上げて手ぐすねを引く。

「チョッ! 待てよ、待て」

「落ち着けってさ。俺だって腹立ってるけどよ」

 しかし、意外なことにこれを止めたのが粟田と木部良であった。

 斉場少年としてみれば、この二人は柊と同調して直ぐにでも暴力沙汰を起こしそうなものだと思うのに。

 イッタイどういうことなのか。

 大人しく席に座る彼らに薄ら寒さを感じつつ、残り時間が刻々と減ってゆく現実を直視するため、斉場少年は箸を進める。

 しかし、この丼ナミナミの植物油は何なのだ。宛らフレンチドレッシングを直飲みしているみたいじゃないか。

 ゲップとともに油が込み上げてきそうになるこの油そばを、何とか黙々と食べ進める斉場少年。

 一方の柊たち三人組は机に肘を着き、悪態を垂れながらチマチマと食べてゆく。

 素人の斉場少年でも、3人のその食べるスピードは見るからに30分というタイムリミットに間に合うようには見えない。

 それなのに、3人は急ぐ様子もなく、宛ら勝つ気が更々無いようにも見える。

 本当に大丈夫なのだろうか?

 知っての通り、喰い逃げ屋は『喰い』を済まさなければその時点で負け。『逃げ』ることすら許されない。

 それは柊たちだって解っているだろうに。それとも彼らには何か秘策があるとでもいうのだろうか?

 しかし、秘策も妙案もマッタク持ち得ない斉場少年は、莵にも角にも食うしか打開策がないのは事実である。

だから、どんなに腹膨れて苦しくとも、臍から食ったものが漏れ出してきそうに成りながらも、斉場少年は黙って挑みかかるしか無かったのだ。

そんな一念が岩をも通したのか、斉場少年の前に山のように盛り付けられていた油そばも、次第にその高さを次第に低くして行く。

残り5分のところで普通の油そば1人前程を残すくらいに成っていた。

「おぉ!? 意外なことにあの小柄な少年、一番箸が進んでいるぞ!」「いやぁ…人は見かけに寄らないものだな」「それに引き換え他の3人はだらしがないな」

 店に(たむろ)する観客たちも、斉場少年の躍進に驚きの声を上げる。

 それは斉場少年としても同意見であり、自分自身もここまで食べることができたのかと驚いているところだった。

 しかし、ここからが苦しいところ。既に腹は十二分目を超えているのに、更にまだまだ一人前ほどを食べなければならない。

 懸命に箸を進めようとするものの、体が、手が拒絶する。

 無理に詰め込もうとすれば、涙と脂汗が噴き出してくる。

 その行為はもはや食事というよりも、苦行のようであった。

 どうして自分はこんな事をやっているのか? 叶うならばもう許して欲しい。

 しかし、許しがあるのなら、きっとそれは、この油そばを食い切った先にしか無いのだろう。

 だったら、一心不乱に、我武者羅に、斉場少年は食べ進めるしか道はない。

 そう腹を括った斉場少年は最早無心になっていた。

 心無く、気持ち無く、感情無く。箸と口を動かして、食べ進めるだけのマシーンと化していた。

 そうでもしないと、この辛い状況にめげそうになる。だから心を閉ざしたのだ。

 その甲斐あってか、油そばはその量を着実に減らし、丼の中には残り2~3口を残すのみとなる。

「残り1分です!」

 タイムキーパーをしている店員が、高らかに残り時間を宣言する。

 そのまま店員が挑戦者たちの現状を見てみれば、成功の目処が立っているのは斉場少年だけである。

 残りの3人はというと、自分のペースを守って食べ進めている。

それでも元の量からすると食べたのはせいぜい1/5程度で、大盛りの油そば一人前と大差ない量である。

―――あれだけの啖呵を切っておいてこの為体(ていたらく)。期待外れもいいところだな。

端からこの不良たちには期待していなかった店員だが、それでもやる気がマッタク無い奴らを相手する事ほど張り合いの無い事はない。

こんな奴らは見限って、一人だけ果敢に挑んでくる小柄な少年に集中した方が、何倍もマシなことであろう。

そう決めた、店員は意識を斉場少年の一挙手一投足に集中する。

息も絶え絶えに、嗚咽に喘ぎながらも諦めないこの少年の姿。

「おいおい! もうチョットだぞ!」「もら、あと少しだ。箸を止めるな!」「もう噛まずに飲み込んじまえ!」

見ている側として、観客たちの声援がより一層に大きくなり、敵である店員ですら手に汗握って応援したくなってしまう。

 とはいえ、これは真剣勝負。手心を加えてはそれこそ水を差すというもの。

 だからこそ、店員は一秒の誤差も見逃さないように、ストップウォッチの表示版を注視し続けた。

 一方の斉場少年もここに来てはラストスパートだった。

 最早何を食っているかも解らない。果ては自分が今、どうして食っているのかも定かではない。

 そんな朦朧とした状態にあっても、斉場少年は何かに縋り付くかのように、油そばを口に運ぶことを止めようとはしなかった。

 そして、丼を掴んだ彼は、そのまま口を着けて、一気に中に溜まった油を喉を鳴らしながら飲み下していく。

 見ているだけで胸焼けしてしまいそうな光景だが、そこにいる誰もがそんな事よりも、彼がこの挑戦に成功する瞬間を待ち侘びる事に必死になっていた。

「うぶぶぶ…。御馳走様でした」

 そしてその瞬間は遂にやってきた。

 斉場少年はその小さな体で、山のような盛りつけと、海のような油を湛えた油そばを見事に食い切ってみせたのである。

「でかした!」「よくやった!」「イイもの見せてもらった!」

 ごちそうさまの言葉を受けて、周りで注目していた観客たちが誰からともなく拍手を送り始める。

 その拍手の中に店員のモノも混じっていることを不思議に思う斉場少年だが、彼は今それどころではない。

 無理をして、意地を通して何とか食い切ってみせたものの、一歩も動くことが叶わない程に腹が膨れている。

 もしも下手に動いて胃を揺らしでもしたら、腹の中から波が来て、斉場少年はアッという間に決壊してしまうだろう。

 とは言え、これは喰い逃げ屋。喰ったからには逃げねばならぬ。

 その道理を弁える斉場少年は、どうにかこうにかユックリと、物理的に重くなった腰を上げて出口へ向かおうとする。

「さて、御三人は食べ切れていない様なので、問答無用で失格ですね」

 必死の形相で逃げを打とうとする斉場少年を一瞥して、店員は追いかける30秒の待ち時間を潰すべく、未だにダラダラ食べ続ける柊たち三人をそう言って止めようとした。

「は? 何か言ったか?」

 しかし、柊は店員の言葉を気にも止めなかった。

「…⁉ だから君たちは失格だと言っているんだぞ。解っているのか?」

 言葉に理解が追い付かず、店員は念を押すように3人の不良に言い聞かせる。

 だが、彼らはそれを嗤うのみ。意に介さず取り合おうとすらしない。

「確かに、喰い逃げ屋だったらば、俺達の負けだろうな」

 面の皮厚く、ふてぶてしく、柊はさも店員の意見が正論であることを確かめるようにそう呟く。

「けどな、店員さん。俺たちは『チャレンジメニュー』頼んだだけで、喰い逃げ屋をやるなんて一言も言っていないんだよな」

「そうそう、その通り」

「そっちの早とちりなんだよね」

 彼らの言っている意味がマッタク分からなかった。店員は狐に摘ままれた様な顔をしながら、頭の上に幾つもの疑問符を浮かべ続けている。

「だから、これは無効試合、無かった事に成るんだ。こっちが挑む気が無いのに、無理やり客に喰い逃げ屋なんてどうかしている事をやらせるなんて、どうかしているんじゃないのか?」

「…えっ…ぇえ?」

「だから、ここは代金支払わない事で手打ちにしようってことだ」

「そう言う事」

「いやぁ、優しいね。俺達」

 二の句を継げないまま、あんぐりと開いた口が閉まらない店員の横を、柊達3人は談笑しながらすり抜けてゆく。

 そうして店のドアが閉まった時には、後に散々食い散らかされた『超特性油そば』の残飯と、放心状態の店員と観客たちが残された。

「…⁉ いやイヤいや! それは無い。その理屈はおかしい!」

 だが、数秒後。漸く正気を取り戻した店員が、その柊達の理不尽に叫ぶ。

「そうだ! オカシイ」「これはズルだ!」「不正行為だ!」

 店員の言葉を受けて、店の中に居た観客たちも我に返り、口々に柊達の非道を非難し始める。

「あれは、そう、奴らは… !」

 そして、そんな非道を行う碌でなしの事を何と言うか。それはそこに居る誰もが知っていた。

「「「「「「食い逃げだ!」」」」」」



 店の中がそんな状況に成っているとは知る由も無い斉場少年は、太鼓の様に革の張りつめた腹を抱えながら、必死に逃げていた。

 ―――うぅぅ、重い。こんなに苦しいなんて。

 ここまで料理を食べたことも、その上に走ったことも、斉場少年の十余年の人生の中で経験したことは勿論ない。

 だから、この急激な体重の増加と、内側からの圧迫感に、普段の様な動きをすることは敵わず、ヨタヨタと数歩だけ歩いては止まり、電柱に寄り架かるを繰り返す、牛歩の様な進みの始末であった。

 ―――こんな事ではすぐに捕まってしまう。

 それは解っている。追っ手は後から確実にやって来ることだろう。

 彼らは自分の様なハンデを負うことなく、普段の調子のままだから、きっと全速力で走ってくることだろう。

 そんなのに追い掛け回されでもしたのなら、ものの数秒で斉場少年が捕まってしまう未来は確実である。

 だったらせめて、一歩でも前へ。

 そんな強迫観念じみた意志の下、斉場少年は歩むことだけは止めようとしなかった。

 ………バタ バタ バタ バタ バタ。

 だが、そんな斉場少年の耳に届いてきたのは、後方から何かが駆け寄ってくる足音の群れだった。

 音のテンポや大きさからして、数は一人や二人ではない。

相当数、大人数の足音が斉場少年の方へと近づいているのだった。

 ―――しまった! もう来たのか。

 斉場少年もこれは覚悟の事だった。逃げると決めたのであれば追われることは避けようがない事である。

 だから、この足音の群れが、自分を追いかけてきた店の追っ手組達の物なのだと思ったのだ。

 彼らに捕まればその場で一巻の終わり。あれだけ苦労して油そばを食したことも無駄になってしまう。

 そのため、今すぐにでも走って逃げなければならないが、それが出来たら斉場少年も苦い顔をしない。

 しかし、斉場少年とて簡単に諦めると言う選択肢は無い。

 せめて今できる抵抗として、彼は隠れることに決めた。

 丁度、目に入った路地の裏。そこの電柱の陰にしゃがみ込み、身を顰める。

 そうして後ろから徒党を組んでやって来る追っ手組をやり過ごそうと考えたのだ。

 そんな足音の群れが彼の隠れるすぐ傍までやって来たのは、隠れてから10秒もしない内の事だった。

 ―――イッタイ何人追って来ているのか?

 せめて現状を把握しておこうと、電柱の陰から様子を除き見た斉場少年は、写り込んだその景色に目を丸くする。

 斉場少年が見たものは、ヘラヘラと笑いながら逃げる柊たち三人と、それを鬼の形相で追う店員たちであった。

 ―――これは…どう言う事なんだ?

 斉場少年は理解できなかった。なんで柊達が逃げを打っているのか、それが解らなかったのだ。

 自分だけが油そばを喰い切って、逃げようとしたその時に、チラリと3人の様子を窺っている。

その限りでは、3人共とてもではないが残りの制限時間で食べきれるほどの量が減っておらず、一目で既に駄目だと解るほどだった。

それなのに、柊達が逃げている。この理由は何かある。

―――まさかズルをしたんじゃないか?

そう考えた斉場少年は、彼らと追っ手組が路地に目も暮れず駆け抜けてゆくのを確認してから、その後を追う事に決めた。

「待てコノ食い逃げが!」「ズルしてんじゃねぇぞコラ!」「大人しく一万円を! 食事代払いやがれ!」

ソロソロと、気配を消して、影の様に彼らの後を追い続ける斉場少年の耳に、前を行く追っ手組の怒号が聞こえてくる。

―――やっぱり、あいつらルール違反をしたんだ。

呆れてものも言えなくなる斉場少年。その視線の先で未だに逃げ続ける柊たち。

どう考えても非は柊たちに在る。だったら追いかけられるのも致し方ない。

それにあの三人は逃げる事に関しては素人なのだ。それを怒りに燃える十数人もの店員たちが追っているこの状況。到底逃げ切れるものではない。

勝負は既に見えている。

ならばいっそ、せめて事の顛末だけでも見届けようと、斉場少年は彼らが入り込んだ路地裏の様子を、覗き込んだのだ。

その瞬間、斉場少年の顔の横を、何かが吹き飛ばされて掠めて行った。

驚きのあまり反射的にそれを見ると、そこには先ほどまで柊たちを追いかけていた店員の一人が転がっている。

―――えっ? えぇっ⁉

地べたに転がっている店員は、うぅ…と小さく呻いた後、こと切れる様に脱力して動かなくなってしまう。

よくよく見てみればその店員。あちらこちらに殴られたような跡が有り、血が滲んで流れ出している。

「ぎゃぁぁぁああ!!」

 そして、また一人、店員が路地の奥から吹き飛ばされてきたのを見て、この奥でとんでもない事が起こっているのだと、斉場少年は振り返る。

 そこに広がっていたのは惨憺(さんたん)たる光景だった。

 柊達3人とそれを追っていた店員たち十数人。その人数の差は確かに圧倒的な差が有ったはずだ。

 しかし、そんな事は然したる差では無いと言うように、3人は店員たちをメタメタに打ちのめしていたのだ。

 格闘技の経験がある粟田は勿論の事、柊、木部良の二人も妙に慣れしている様に、手際よく一人ずつ片付けてゆく。

 そうである。彼らは追っ手組の店員たちよりも、遥かに多くの喧嘩の修羅場を潜り抜けてきているのだ。

 不良なんてやっていれば、喧嘩は日常茶飯事。避ける事の出来ない災難である。

 逃げる事に関しては彼らは素人であるかもしれないが、喧嘩と成れば彼らは達人の域に達している。

 それ故に、喧嘩慣れしていない追っ手組など、どれほど徒党を組んでやって来たとしても、物の数では無い。

 正に鎧袖一触と言った様相だ。十数人程いたはずの店員たちは、皆が皆、打撲痕や擦過傷を体のあちこちに作って伸びている。

「フハハッ、暴れた暴れた」

「久しぶりに一方的にやってやれたな」

「見てみろよ。人の山が出来上がったぜ」

 喧嘩に勝利した三人は、嬉々として気絶した店員たちを積み上げてゆく。

 そして、誰の人の山が高く積みあがったかを競い合い、やれ自分の方が高いだの、やれ自分の方が一人多いだのと互いに自慢し合っている。

 ―――ああぁ、冗談じゃない。大変な事をしてしまった。

 遠巻きから彼らの様子を見ていた斉場少年は、彼らの蛮行の一部始終に恐れを成していた。

 店を騙し、ルールを破り、尚且つ暴力でそれを解決する。

そんな事、仮に一匙でも良心のある人間ならば、(まか)り通るわけが無いと、簡単に思いつくだろうに。

それを何の躊躇(ためら)いも無く、立ち止まることも省みることも無く、彼らは遣って退けてしまうのだ。

自分と彼らは決定的に、根底から違うのだ。斉場少年は今更ながらそう思い、自分の浅はかさを後悔するのだった。

「…あん? そこに居るのは斉場か?」

 頭を抱えて震えている斉場少年だったが、その小さくなっている様子が目に付いたのか、粟田に呼び止められてしまう。

「どうしたんだ? お前もこっちに来いよ」

 テンションが上がったままなのか、木部良も笑いながら手招いており、ここで逃げ出す選択肢など斉場少年には持ち合わせていなかった。

「お前も無事だったんだな。良かったぜ」

 恐々と、顔を青褪めながら3人の前にやって来る斉場少年に、柊が珍しく労いの言葉を掛ける。

「柊さん…どうしてこんな…」

 しかし、そんな言葉など心を戦慄(わなな)かせている斉場少年には届くはずも無く、地獄めいた目の前に、只々疑問を口にするしかできなかった。

「どうしてって…何かおかしいか?」

 そして柊達は、この事に疑問を持っている様子も無い。噛み合わないのだ。

「お前もバカだねぇ。真面目にあんなことに付き合うなんて」

「俺達みたいに上手くやれば、ただで飯食って、さらにこんな風に暴れられるのによ」

「尚且つ、動画をアップすれば人気にも成れるなんて、ホントにイイ世の中だよな」

 ―――ホントに恐ろしい事を言っている。

 下品に笑い合う三人のことがマッタク理解できなかった斉場少年。

 ホントに何で自分はこんな人たちと一緒に居るのだろう?

 自問自答する斉場少年だが、流されるままに、成り行きに任せるままにしていた結果なのだと解っている。

 そして、今の自分にはそこから抜け出す様な勇気は欠片も持ち合わせていないのだと解っている。

 だから、柊にその血濡れた手を肩に於かれたとしても、震えるだけで振り払おうとせず、また流されるままに彼らに連れ回されるだけだった。

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