3-12
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
―――ああ、なんて酷い夢を見た。
『ロサ会館』の一角にある牛丼屋『牛若丸』で並盛りを注文した斉場少年は、吹き出してくる油っぽい汗を拭っていた。
入院している左文字の部屋を掃除した後、映画を見ながら不覚にも居眠りをしてしまった斉場少年。
そのせいで映画を全く見ることもなく、料金が丸々無駄になってしまった事もそうであるが、それよりも斉場少年を気落ちさせているのは、この時に見てしまった夢の内容であった。
まさか、左文字と出会った頃を思い出してしまうなんて。
正直に言うとあまりイイ思い出ではない。無茶苦茶やったものであるし、無茶苦茶されたものでもある。
無理やりに左文字の弟子とされた後にあった日々も、突拍子もないものだった。
チョット思い出しただけでも、よくぞ今まで真面にあの人と付き合ってこれたものだと不思議に思ってしまうほどだ。
―――それよりも、文さんの事がなぁ。
だが、一番にショックであったことは文さんの事を思い出してしまった事だった。
未だに自分の中であの人のことが引っ掛かっているのか。
その正体が衝撃的な形で明かされたというのに。
事実を知った斉場少年は、三日三晩熱に魘されて、ようやく目を覚ましたその時には、一週間前までの記憶をソックリ忘れていたほどだった。
きっとこの時の忘却は心の平穏を保つため、一時的に起きたものだったのだろう。
『やあ、斉場君。元気でしたか?』
さもなければ、再び左文字と顔を合わせ、すぐに全てを思い返すものか。
その時は再び卒倒してしまったものだが。
その後、左文字に連れられて『一品香』へとやってきた斉場少年は、大いに困惑したものだが、何とか落ち着きを取り戻す。
前に言われていた通り、陳さんに謝罪をした斉場少年は、何とか許して貰えたが、喰い逃げ屋の際に見た彼の殺気を思い出すと、やっぱり恐ろしくて仕方がない。
『そんなに萎縮しなくてもイイですよ』
左文字が気を利かせてそんなことを言うが、斉場少年にとって本当に恐ろしいのは自身だという事に気が付いているのか?
その後も、数週間のギクシャクした関係が左文字と斉場少年の間に続いたのは考えるに値しない。
それでも、斉場少年が左文字の元を離れなかったのは、彼の性根が律儀であったからに他ならない。
牛丼を待ちつつ、斉場少年はポケットから一枚の紙片を取り出した。
丁寧に折り畳まれたそれを広げてみると、そこにはまさに夢で見た内容と自分で書いたサインが記載されている。
「まさか、こんなものが師匠と僕を繋ぐことになるなんて」
それはお察しの通り、件の『契約書』であった。
左文字の部屋を掃除した際に、机の奥にしまってあったこの契約書。それを斉場少年はコッソリと持ち出してきていたのだ。
見つけた勢いで持って来てしまったが、さて、どうしたものか?
あの頃の、左文字に出会って間もない時期の自分だったならば、迷わずこの計画書は破り捨てていただろう。
しかし、今となっては最早違う。
人間の慣れと言うものは不思議なもので、一ヶ月もの間、左文字との日常を過ごしてしまえば、その為人が何となく解ってくる。
やはりというか何というか、左文字の生活能力の破綻具合に辟易としつつも、それが左文字の人間性のような気がしてくる。
つまり親しみが感じられるようになったのだ。
そして、いろいろな喰い逃げ屋に参加して、さまさまな場所へ行き、左文字と共に行動を共にしたことで、その絆はより強くなって行ったように思う。
勿論、今でも左文字のことを理不尽に思うこともある。
しかし、それ以上に左文字と一緒に居ることが、楽しくて仕方がなく成っている。
正直に言えば、今がどれだけ充実しているか。それまでのクソみたいな生活と比べればどれだけマシだろうか。
いや、それまでと比べることは比較対象として正確ではない気もするが。
ともあれ、左文字と出会ってからのそろそろ1年に成ろうとする。
「自分でもよく一緒に居るものだな」
注文した牛丼を食べつつ、斉場少年はもう一度、広げていた契約書を目にした。
改めて見ると、何て無意味な紙だろう。
それはもはや形骸化した紙切れに過ぎない。
そもそも、こんなものを真に受けていた自分が恥ずかしくさえ思えてくる。
だから、そんなものに意味はないと、丸めてゴミ箱へ放り込んでしまっても、大して支障がないだろう。
―――だって、自分と師匠との関係は、もうこんな物で繋がっているわけでは無いのだから。
『牛若丸』からの帰り道、それまでの経緯を思い返しながら一人呟く斉場少年。
冬の夜の池袋の風は寒くて凍えてしまいそうになるが、もう何日かすれば春の足音が聞こえてくる。
その頃にはきっと左文字も退院してくるだろう。
そうなれば、また、騒がしい毎日もまた帰ってくる。
彼がポケットに触れると、カサカサと紙の擦れる音がする。
結局、斉場少年は例の契約書を捨てることも、破ることもせず、元の左文字の机の中へと戻すことに決めていた。
何故そうしたのかといえば、簡単なことで、これを破棄してしまうのは何か左文字との繋がりを断ち切ってしまう様な、そんな気がしたからに他ならない。
まるで草木を根っこの部分から引き抜いてしまうような、そんな感じがするからだ。
ただの草木ならば植え替えれば元に戻るかもしれない。しかし、人と人との関係はそんな簡単な物ではない。
何せ草木と違って人の関係は形が無いものだから。
根差すものが無くなってしまえば、霧散してしまうかもしれない。
だから、形ある何かで留めておきたい。そんな風に思うのだ。
「明日辺り、もう一度病院へ、師匠のお見舞いに行ってみようかな」
とは言え、形に残していたとしても、何度も繋がりを確かめなければ、すぐに途切れてしまうのも人の縁でもある。
だから甲斐甲斐しく左文字の世話をするのも弟子の務め。
それに、コツコツと積み上げてきた左文字との関係性、すなわち好感度がある。
実際、左文字との関係はここ最近の看病を通し、かなり良好になっている。
このまま行けばきっと何かお返しを貰えるかもしれない。
願いの一つも聞いて貰えるかもしれない。
「また、文さんに成って貰えないかな。師匠」
そんな淡い希望を胸に、斉場少年は誰もいなくなった自宅へと帰っていった。
喰い逃げ屋 左文字‐3 終




