3-11
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「ハァ…ハァ…ハァ…」
「フゥ…何とか逃げ込めたみたいだね」
息も切れ切れに蹲る柊と、周りの様子に警戒する斉場少年が潜んでいるのは『豊島清掃工場』の休憩スペースの一角。
いくつものベンチがあり、何台もの自動販売機が立ち並び、照明が落ちた工場の中で人機は明るくなった場所である。
すでに営業時間が過ぎているのか、工場内には人の気配がなく、ここに来るまで誰にも出会うことがなかった。
「通用口が開いていていたのは、実に運が良かったな」
息が整ってきたのか、余裕が出てきた柊は、斉場少年に習って辺りの様子を警戒する。
「しかし、あの左文字とか言う奴は何なんだ。俺たちが何をしたって言うんだよ」
自分がここまで追い詰められている状況に、柊は不安を殺すためなのか、精一杯の悪態を付いて見せている。
確かに、今回の左文字が自分たちを追い詰めて来る様は、事前に周到な下準備があったものと思われる。
例えば木部良を捕らえた警察官たちの動員がその最たるものだろう。
そのことを踏まえると、今回の喰い逃げ屋は最初から自分たち4人を標的として仕組まれていたのではないかと思えてくる。
「きっと俺たちの活躍を妬んでこんな事をしてきたに違いない。斉場もそう思うだろう?」
それについて斉場少年に同意を求めてくる柊だが、自分たちが狙われている理由はそこじゃないのは確信を持って言えるような気がした。
「…しっ、誰か来ますよ」
騒ぎ立てる柊を宥めようとする斉場少年が言うように、長い廊下の曲がり角から人影が一つ立ち、こちらの方へと歩いてくる。
「あれは左文字か? それとも職員か?」
「遠くて暗くて解らない。でもどっちみち隠れよう」
こちらは不法侵入をしているのだ。誰に見つかってもややこしい事になる。
それを重々承知している二人は手始めに、ベンチと自動販売機の陰に隠れて様子を見ることにした。
――― …やはり左文字。
コツコツと床を靴で鳴らしながら休憩スペースまでやってきたその人影は、やはりというべきか追っ手組の左文字であった。
そして左文字はその場に立ち止まり、キョロキョロとあたりの様子を伺っている。
きっと自分たちのことを探しているのだろう。追っ手組であるならばそれも当然か。
そしてもしもここで左文字に捕らえられてしまったのなら今度はイッタイどんなに酷い目に合わせられることだろうか。
それを想像すると震えが止まらなくなる。
「チョット、音を立てるんじゃないよ。斉場!」
「柊さんだって」
小刻みに震える自分の動きがベンチをカタカタと音を立ててしまっている。
それを柊が咎めるが、彼も彼とて同じこと。その振動が自動販売機を揺らしてしまっているじゃなか。
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ
ここまで来たら最早止めようがない。
気付かれるのも時間の問題だろう。
しかし、どういうわけか、左文字はこれを見逃して、スタスタとその場を去って行ってしまったではないか。
「…助かったのか?」
「…どうなんだろう?」
ノソノソと這い出してきて、斉場少年と柊は左文字が去っていった先を見る。
すると左文字は廊下の先で、何かの部屋に通じるドアの向こうへと消えていくのが目に入る。
―――何か用事があるのだろうか?
左文字の不可解な行動に、斉場少年は警戒の色を顕にするが、一方の柊はそのような考えを持ち合わせてはいなかった。
「あのヤロウ、目に物を言わせてやらないと気が済まない」
―――これはいけない。
そう斉場少年が感じるくらいに、柊の瞳は怒りに燃えて、周りが見えなくなっているようだった。
「チョット、柊さん落ち着いて! 今は逃げるチャンスなんだよ」
「五月蝿い! アイツのせいで粟田も木部良も酷い目にあっているんだ! 絶対仕返しをしてやる」
それは仲のイイ仲間がやられたことへの義憤なのか。
復讐に燃える柊は斉場少年の制止を振り切って、左文字の後を追いかける。
そして、それの跡を追う斉場少年も、左文字の消えた部屋の中へと辿り着いた。
「―――ウッ!」
その部屋の中に入った瞬間、全体に充満する鼻を突く臭に思わず二人は息を止めた。
部屋の中は薄暗く、その全容を知ることは出来なかったが、声の反響の仕方から随分と大きな空間なのだということは受け取れる。
そして、この激臭の正体。それは目にしなくとも推し量れる。
―――ここって、ヤッパリ。
そう確信した瞬間、部屋の中全体が眩い光に満ち溢れた。
何が起こったのか困惑しながら、光から目を庇っていると『あぁ、テステス』と何処からともなくスピーカーの声が響き渡る。
『聞こえますか? クソガキども』
その声を聞き間違うはずもない。今は自分たちの天敵である左文字の声に他ならない。
「何だってんだ! 何処にいる!」
『ああ、御免なさい。照明、加減しますね』
慌てながら何か機材でも弄っているのか、斉場少年たちを照らす明かりの強さは次第に調節され、ちょうど良くなる。
そして、それに伴って、斉場少年は目でも自分たちのいる現状を把握することができたのだ。
「ここって、ゴミの集積場⁉」
『ザッツライト。その通り』
やはりと言うべきか、斉場少年たちが脚を踏み入れたその部屋は、豊島区から排出されるゴミの大部分が集められる大きな穴の如き空間だった。
―――うぅ、気分が悪い。
目で見たことで改めて意識が及ぶ。
集められたゴミたちは腐敗して激臭を放ち、目鼻に滲みて涙が出てくる。
その上腐敗熱もすごく立ち上ってきており、否応なしに変な汗がダラダラと体中を伝うのが感じられた。
こんなところに何時までも居られない。サッサとここから脱出しなければ、いつか倒れてしまいそうだ。
『ムダムダ、無駄です。そこからは出られませんよ』
取って返して扉から部屋を脱出しようとする斉場少年に、スピーカーから響く左文字の声が忠告する。
「…嘘だろぅ」
「何だよ、斉場。早くしろよ」
「それが、鍵が掛かっていて開かないんだ」
顔を青くする柊に斉場少年も焦ってガチャガチャと、ドアノブを乱暴に扱う。
それでも、その扉は巌としてその口を開けようとはしなかった。
『イイ加減無駄だって言っているでしょう。話を聞いて下さいな』
そうして数分間の格闘虚しく、完全にその不快な空間に閉じ込められた斉場少年たちのことを、飽き飽きとしながら語りかける。
「おい! 聞いているのか⁉ 俺達を閉じ込めてどうしようって言うんだ」
押し潰されそうになる恐怖に抗うためか、声を荒げる柊だが、左文字は『カカカ』と意地悪く笑うのみである。
そもそも左文字はイッタイ何処に居るのだろう?
スピーカーから声が出ているし、部屋自体に奴の気配がない。
「何処にいるんだ! 正々堂々と姿を現せ!」
そんな斉場少年の疑問を代弁するように激昂する柊に応えるように、空間の壁、その一角が四角く光り輝いた。
どうやらそこはこの空間に併設された一室で、ガラス越しにこちらの様子を伺うことができるようになっている。
その作りと中から覗く機械の様子から察するに、そこはこのゴミ集積場の管制室に違いない。
そして、その中に左文字は一人ポツンと座しているのが見て取れた。
「姿を見せやがったな! 待ってろ、今そっちへ行くからな!」
親の敵でも見つけたように、目を血走らせながら柊が左文字の方へと駆け寄ろうとする。
しかし、『そうはいきません』と左文字の声に伴って、ピポッ!と何かの電子音が聞こえてきた。
するとどうだろうか、急に何かがガコンと音を立てたと思ったら、床が穴の方へと滑り出した。
―――これってベルトコンベアー⁉
気付いたときにはもう遅い。動く機械のその床が無情に斉場少年たちをゴミの穴へと落とそうと、速度を上げて進んでゆく。
「うぁぁぁ!」
立ち止まっていた斉場少年は何とか堪えることは出来たが、左文字に向かって駆け出していた柊は、勢いを崩されて転んでしまう。
「あぁ⁉ 危ない!」
落ちかけそうになる柊を寸でのところで引き上げて、何とか体制を立て直した斉場少年は、このコンベアーから逃れるために走り出す。
「チクショウ! このまま落ちるかよ!」
立ち直った柊も斉場少年の後に続いて走り出す。
宛らルームランナーのような光景。ただし違うのは、止まってしまえばゴミの中に真っ逆さまということだ。
『ゴミの運搬用のコンベアーですよ。こういう使い方もあります』
左文字の説明を聞いている余裕のない斉場少年たち。
それでも彼らの駆け足は、コンベアーの流れよりも速く、後数メートルのところで陸地が見えてくる。
『ホイッ』
だがそんな一縷の希望も砕く気の抜けた左文字の一言に、コンベアーの速度がさらに早くなる。
二人はそれに歯を食いしばって、駆ける速度を速めて対抗するが、騎士まであともう少しのところで再びベルトコンベアーの速度が上げられる。
『母がまだ、若い頃、僕の手を引いて♫ この坂を、登る度いつも溜息を吐いた♬』
どういう風の吹き回しか、左文字が急に歌いだす。
それは斉場少年の聞いたことのない歌だったが、物悲しい曲調が自分たちの行く末に影を落とすような気がして不安になる。
『溜息吐けば、それで済む、後ろだけは見ちゃダメと♬ 笑ってた、白い手はいつも暖かだった♪』
歌にしなくとも後ろなんて見るものか。目にしたところでゴミの山。助かる未来は前にしかない。
そんなに自分たちの苦しむ姿が楽しいのか、喉の調子が徐々に上がっていく左文字。
斉場少年はこの理不尽を強いる左文字に対して恐怖すら感じなかった。
『運がイイとか、悪いとか♪ 人は時々、口にするけど♬ そういう事って、確かにあると、アナタを見てて、そう思う♫』
歌詞が何かの暗示なのか、夜のこんな時間だというのに、コンベアーの向こう側から運悪いことにゴミの津波が押し寄せてくる。
「ああもう邪魔! 通路にゴミを捨てるなよ!」
柊も訳が解らなくなって来ているのか、支離滅裂なことを言う。
ここから先は障害物走となる。
ゴミ袋をハードル見立て、飛び越えたり回り込んだり、挙げ句の果てには払い除けてでも走り続ける。
けれども、そんなことが長続きするほど斉場少年も柊もタフではない。
数分しない内に二人の息は切れ始め、徐々にその走るペースは遅くなっていく。
これはイケナイと解っている。けれども振り絞った力の残りカスでは、これ以上は無理難題。今にも足が止まりそうだった。
「おい、邪魔だ! どけぇ!」
丁度そんな折だった。半ば朦朧としながら走り続けている斉場少年に柊がぶつかって来たのは。
柊としては前方から迫り来るゴミを躱すためにも右へと進路を詰める必要があった。
そして、そのためにはどうしても自分の右を並走する斉場少年の存在が邪魔になってしまったのだ。
―――だったら、斉場を除けばイイ。
実に短絡的な考えだったが、切羽詰った状況でそれ以上の妙案を柊が思いつくはずもなかった。
それにそもそも、柊にとって斉場少年とはその程度の存在。
言ってしまえば、このベルトコンベアーの上を流れるゴミと同等でしかない。
―――だったらゴミはゴミらしく道を譲れ。そのまま流れて下に落ちろ。
だから、柊は躊躇いがなかった。斉場少年を押しのけて、自分だけが助かるために、渾身の力と勢いを込めて突進してきた。
「なっ… ! うあぁ」
斉場少年はこれを躱すことが出来ない。
そのまま勢いに押され、ベルトコンベアーの外側へと突き飛ばされてしまう。
落下の最中、信じられないといった表情のまま、自分を突き飛ばした柊を見つめる斉場少年。
一方の柊は勝ち誇ったかのような、満々の笑みを表情に湛えながら、一人自分だけ助かるべく、ゴールへと前を見据えた。
ドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサドサ…
そんな柊の頭上から、大量のゴミが豪雨のごとく落とされた。
そのゴミの山に埋もれた柊は、身動きも声を上げることさえも叶わずに、為す術も無くゴミの一部として下の穴へと落ちてゆく。
その一連の出来事を一部始終目の当たりにしていた斉場少年は唖然としていた。
彼は運が良かったのか、ベルトコンベアーから押し出された先が梁になっており、それにしがみ付く事で何とか落下を免れていたのだ。
だが、安心することも束の間。柊の最後を看取った斉場少年は、彼に裁きを下した物が何なのかをハッキリと解っていた。
オゥンオゥンオゥンオゥン…ウォウォウォ…
それはクレーンだった。しかも先端は爪のようになっており、開閉可能でゴミを掴める仕様になったクレーンだ。
重厚な機械音とワイアーの軋む音を伴って、縦横無尽に行き交うそのクレーンは、この空間に於いてまさに神の手に等しい。
『♪~♫~♬』
それを操っているのはもちろん左文字である。
先ほどの歌の続きを鼻歌にして口遊む様は、熟練の職人のようである。
実際、どこで覚えたのか、その操作技術は斉場少年の素人目を通しても、舌を巻くものである。
そしてついに自分一人となってしまった斉場少年に向けて、左文字の眼光が突き刺さる。
その威圧感、蛇に睨まれたカエルどころの話ではない。
『ようやく君の番ですね。斉場君』
なんて怖いことを言うんだ。
これには斉場少年も足が竦んで腰砕け、梁の上で石のように固まって身動きが取れなくなってしまった。
そして、左文字のクレーンはまさに生きた蛇の如く蠢いて、斉場少年に食らい付く。
「うあぁぁあぁぁ!」
そのまま、ブンブンと振り回される斉場少年。
相変わらず上機嫌に歌い続ける左文字。
力の差は歴然の関係に終止符が打たれたのはそれから数秒後。
突如として斉場少年はクレーンから放り出されたのだった。
「ああああぁぁああああうぁ!」
その勢いのままに窓を突き破って、飛び出した先は施設の北側。
丁度緑地帯と成っていた事が幸いしてか、木々がクッション代わりとなって、斉場少年を受け止めてくれた。
「さて、この辺でイイでしょう」
投げ出された斉場少年を見送った左文字は、人仕事終えたかのように浅いため息をついてみる。
「もしもし、警察ですか? ええ、不法侵入です。あと救急車もお願いします」
そして、左文字は取り出したスマホから警察に連絡した。
数分もしない内に駆けつけたパトカー及び救急車から降り立った警察官たちに事情を説明している。
「そうです。不法侵入した少年がゴミの集積場に落ちてしまって、救助をお願いしたいのです」
テキパキと要点を伝えつつ、自分に関しては影すら掴ませない物言いの左文字。
それを斉場少年は建物の影から遠巻きに見ていた。
―――なんて上手い立ち回りなんだ。
自分たちを陥れたある意味加害者の左文字だが、巧妙なやり口で自己を顕示して被害者ぶっている。
そもそも、アイツはこの『豊島清掃工場』にとって何の関わりもない、赤の他人に過ぎないというのに。
「彼らが急に押し入ってきて本当に驚きましたよ。ただ、巫山戯ていたのか、そこら中を駆け回った後に、集積場へ落っこってしまったのです」
「なるほど、解りました。ご協力感謝します」
そんな感じで完全に左文字のことを信用しきった警察官。
この一連の様子を目の当たりにし、斉場少年はサルベージされて連行されていかれる柊のことが不憫で仕方がなかった。
今回のことは身から出た錆とはいえ、彼がここまでボロボロにされることも無かっただろうに。
それもこれもあの左文字某なる輩と関わり合いになったからだ。
やはり奴は疫病神なのだ。触れる者を皆貶める祟神なのだ。
―――ふぇぇ、クワバラくわばら。
どうにもこうにも、これ以上こんな事に変わり合いに成っていては確実に身の破滅がやって来る。
だったらヒッソリと逃げるしかない。
そう思った矢先の事だった。
「それでは署で事情を聞かせて頂きたいので、ご同行を…? あれ? さっきまで此処に居たのに」
左文字と話をしていた警察官が言うように、突如として左文字の姿がどこにも見当たらなくなる。
本当に一瞬の出来事だった。
斉場少年も逃げを打とうと、ほんの少しだけ目を離した隙だと言うのに、忽然と左文字の姿が消えていた。
「私をお探しですか?」
そして、その一言と共に斉場少年の肩にポンッと手が置かれる。
確実に心臓が止まっていた。
斉場少年の意識が一瞬飛んだ後、ふと我に返って振り向けば、そこには何食わぬ顔をした左文字が手を振っている。
本当にこの人は化物なんじゃないだろうか。
瞬間移動と見紛う早業で、斉場少年の背後を取った左文字の所業に、同じ人間とは思えない異質さを感じてしまう。
「おっと観念して下さいね。何度逃げても先回りしますから」
その言葉が脅しでもハッタリでも無いことを斉場少年は身を以て知っている。
彼自身もこの池袋のことは自分の庭のように、隅々まで熟知しているつもりではいたが、左文字はそれを遥かに凌駕する。
きっと自分はこの池袋に逃げ場は無いのだろう。
そう観念した瞬間に、斉場少年は精根尽き果ててその場にへたり込んでしまった。
「さて、柊君? でしたっけ? 彼が無事に鼻つまみ者と成ったところで、これで今回の喰い逃げ屋は私の勝ちでイイですね」
念を押すように勝敗を確認する左文字。
そんなもの好きにしたらイイと、斉場少年は諦めの境地にある。
最早抵抗する素振りも見せない斉場少年のことを、結束バンドで丹念に縛り上げた左文字は、一仕事終えた満足感にふと笑をこぼした。
「フフフ…久しぶりに追っ手組をやってみましたが、相手を追い詰めるというのは新鮮な心持ちですね」
「サディストが…」
精一杯の悪態を付いた斉場少年だが、当の左文字は「ええ、外道ですから」と全く意に介した様子もない。
「では外道ついでに、それをば」
そう言って、左文字が斉場少年の鼻先につき出してきたのは、何時ぞやの見覚えのある書類だった。
「これって…契約書じゃないか…」
斉場少年とて忘れるわけもない。この契約書は『一品香』での左文字との喰い逃げ屋を始める前に、調子づいた柊たちが左文字と取り交わしたモノに間違いなかった。
「これこのとおり。ここに書いてある様に、この喰い逃げ屋で負けた側は勝った側の言い分を聞くという取り決めでしたね」
改めて言われてゾワッとする。
勝敗が決した今この瞬間、左文字が持っている契約書の内容が履行されようとしているのだ。
それはつまり、斉場少年が左文字の意の侭になるという事。
そんなの冗談じゃない。
「そんなの無効ですよ! 第一、それは柊くんがアンタと勝手に取り決めたことで、僕は知ったこっちゃない!」
突っぱねる斉場少年に、左文字は一瞬目を丸くする。
「けれどもねぇ、ここ見てくださいよ」
しかし、その表情も一瞬のこと。左文字はすぐに嫌味ったらしいニヤケ顔をする。
「この契約書には君もちゃんとサインをしたじゃないですか。ホラホラ、ここにクッキリと君のサインがありますよ」
そう言えばそうだった。
あの場の空気に流されて、柊に言われるが侭書いたサインが、こんな形で自分の首を絞めてくるなんて。
想像もしていなかった結果に、斉場少年がジリッ…と後ずさると、それに合わせて左文字が一歩詰め寄ってくる。
このままじゃいけない。イイ様にされてしまう。
そう最少年の脳裏に過った瞬間、同時にひとつ思い出したこともあった。
「で…ですが、やっぱりその契約書は無効だぞ」
苦し紛れに聞こえる斉場少年のその一言。だが、それにしてはその瞳のうちに確固たる地震が見える。
「ほう、何か根拠があるようで」
「だって、それは喰い逃げ屋の勝敗が決した場合に履行されるものだろう?」
「確かにそうですね」
シゲシゲと契約書の内容を読み返す左文字。その内容は斉場少年の言ったとおりで間違いはない。
「しかし、思い返してみろ。今回の喰い逃げ屋、果たして喰い逃げ屋と言えるのか?」
「…面白いことを言いますね。イイでしょう。言い分を聞きましょう」
「そもそも、出された料理を食い切って、そして追っ手組逃げ切ることが喰い逃げ屋だろう?」
「まさにそのとおり。それがルールですからね」
「けれども、僕たちは喰いの大前提である、料理を食い切ることを達成できていないんだぞ。それってつまり、これは喰い逃げ屋じゃなくて、ただの食い逃げになるということだ」
斉場少年自身、自分でも支離滅裂な話だとは思っている。
こんな根も葉もない、屁理屈にすらなっていないようなことを、よく言えたものだ。
「なるほど、つまりは君たちが今日、私とやったことは『喰い逃げ屋』ではなく、ただの『食い逃げ』だったと?」
しかし、左文字との契約の魔の手から逃れるならば、喰い逃げ屋をしたという前提を崩す以外に道が思いつかない。
幸い、左文字も斉場少年の意図を理解し、解ったような顔になる。
「そうだよ。だから、その契約書。『喰い逃げ屋』に勝利した側、それ事態が存在しないから、無効なんだって話だよ」
此処ぞとばかりに捲し立てる斉場少年。
ここで一気に押し切らないとならない。左文字に手番を回しては、簡単にひっくり返されてしまう様な理屈を翳すには、無理で通すしかないのだ。
「うん…言われてみれば、そうかもですね」
そんな強気の姿勢が功を奏したのか、左文字はあっさりと折れてくる。
「まあ、喰い逃げ屋じゃなく、食い逃げだったら仕方がないですよね」
「ああ、そうだとも…だったら早くそんな物騒な証文破り捨てて…」
「おや、左文字さん。こちらに居らしたのですか」
唐突に、二人の間に割り込んできた青い影。しかも、一人や二人ではない。
それは、先程まで左文字に事情を聞いていた警察官たちだった。
「急に何処かへ行かれてしまって、探しましたよ。先ほど連行した少年のことも詳しく聞きたかったので」
「すみません。お巡りさん。チョット私用があったもので」
「そうですか? …おや、そちらの少年は?」
一人の警察官が斉場少年に気がつくと、残りの全員も彼のことを注視する。
職業柄からだろうか、どことなく勘ぐるようなその視線に晒されて、萎縮してしまう斉場少年には、もはや先ほどまでの勢いは無かった。
「ああ、彼ですか。彼は食い逃げ犯です」
そこに追い討ちを掛けるような左文字の一言に、その場の全員に一気に緊張が走る。
―――何てこと言っているのだ、この人。
左文字の爆弾発言に、開いた口が塞がらなくなった斉場少年が周りを見れば、既に臨戦態勢の警察官たちが彼のことを注視している。
「チョット、君、それは本当なのか?」
「あ…え、そのぅ…」
「どうなんだ⁉ ハッキリ言いなさい」
言葉に詰まる斉場少年へ、問い詰める警察官の語気は徐々に強くなる。
傍から見ると斉場少年が可哀想にも思えるが、事は自業自得である。
それでも助けを求めるような、縋るような斉場少年の眼差しが左文字に向けられると、当の左文字はその手に持った契約書をヒラヒラとさせている。
そしてそれを破るような素振りを見せたとき、斉場少年の腹は決まったのだった。
「違います。僕たちは喰い逃げ屋をしていたのです」
「…なあ、喰い逃げ屋って何だ?」「どっかで聞いたことがあるな」「俺、知ってるぞ。最近流行っているらしい」
警察官たちにとっては聞きなれない単語だったのだろう。互いに額を付き合わせて、喰い逃げ屋について問答している。
「それで、そちらの方は、どうなのですか」
このままでは埒が明かないと、警察官たちは左文字に意見を求めると、左文字はニコッと満足そうな笑みを返す。
「そうですね。言葉が足りなかったようで。喰い逃げ屋で間違いありません」
その言葉とともに左文字が差し出したのは件の証文だった。
「これ、こちら。ここに書いてあるとおり」
「どれどれ」
そう言って証文を受け取った警察官は、その内容を具に読み返す。
「なるほどルールに則った競争をしていたというわけなのか」
「お解りいただけましたか?」
「勿論。けれども、度が過ぎるのは頂けないですよ。相手は子供なんですし、手加減してあげないと」
「いやぁ、どうにも。喰い逃げ屋となると、本気に成ってしまう質でして」
苦笑いしながら頭を掻く左文字を見て、警察官は呆れたような顔になる。
「むぅ、まあ、イイでしょう。事情は解ったことですし、この件については不問をしましょう」
この警察官、思いの他に聞き分けが良くて助かった。
喰い逃げ屋何て胡散臭い事この上ないスポーツを、胸を張って言ったところで、根掘り葉掘り聞かれるのが関の山。
丸く収まって何よりだ。
「巡査。例のゴミの山に落ちた少年の連行が完了しました。我々も撤収しましょう」
「ああ、了解。今行く」
後ろからかけられた同僚の声に、振り返ってそう返答した警察官は、一仕事終えたかのように、フゥと溜息を吐いた。
「さて、喰い逃げ屋の事は置いておいて、そちらの少年にもご同行願いたいのですが―――」
そう言って、再び左文字と斉場少年の方へと向き直ると、どういうわけか、突如として二人の姿は消えていた。
「あれぇ⁉ また消えた! 今度は二人とも⁉ ええぃ!どこへ行った! お前見ていなかったのか?」
「いや、俺もわかんねぇ。俺も気が付いたときには消えていた」
「えぇ…お前はどうなんだ」
「右に同じく」
あまりの出来事に驚いて、焦って同僚たちに聞いて回る警察官だが、誰もが二人の消えたところを見た者はいなかった。
「ああ、随分と驚いていますね」
アタフタする警察官たちを、池袋大橋から遠巻きに眺めるのは左文字であった。
ニコニコと楽しそうに警察官たちの様子を見つめている左文字の側には、狐に摘まれたような顔をした斉場少年が居た。
イッタイ何が何やら。
『豊島清掃工場』の北側から、この橋の上までは200m近くは離れているのに。
それを一足飛びにして、しかも自分も連れて移動してきている左文字。
平然とそんな人間離れをやってのけるのが、この『喰い逃げ屋 左文字』なのだとしたら、それに挑んだ事自体、端から無謀であったのだろう。
もはや逃げることも隠れることも叶わない。それは須らく無駄なこと。
仮にやってもすぐに捕まってしまうだろう。きっと逃げた時にあったように、向かいから何度も駆け寄ってくるように。
だから、斉場少年は諦観の域にあったのだ。
逃げも隠れもせず、為すがまま。もうどうにでもなぁーれ、と思っているのだった。
「さてと、少しは落ち着きましたか?」
「あ、ええ、まあ…」
生返事をする斉場少年。それを左文字はシゲシゲと眺めている。
「うん… まあ、怪我しているわけじゃないようだから、大丈夫でしょうね」
一通り斉場少年の様子を観察し終えた左文字は、安心したように頷くと、ポケットの中に折り畳んでいた件の証文を取り出した。
「さっき君が認めたとおり、この証文は正式な喰い逃げ屋を行って、その結果に伴って履行されるわけですが、よろしいですね」
念を押すようにそう問いかけてくる左文字。
だが、諦めの境地にいる斉場少年にはもうどうでもイイ事。いまさら聞かれて反論するまでもない。
「それで、この証文にあるように、今回の喰い逃げ屋。その勝者の言うことを敗者が聞かなくてはならない。そこに文句は無いですね」
「ありません」
「フフフ…それは良かった。さて、どういたしましょうか…」
まるで斬首を待つ罪人のような気分だ。
やるのに時間をかけるなら、一思いにやって欲しいと斉場少年は思うのだが、左文字はあれやこれやと思い悩んでいる。
一体どんな理不尽を要求されるのか。
金を出せと言われるのか。それとも罪を犯せと言われるのか?
柊たちによって染み付いてしまった斉場少年の根性が、暗い未来を予見させる。
「よし、それじゃあこうしましょう」
遂に心が決まったのか、左文字は満足気な顔になる。
いよいよ判決が下るのか。観念していた斉場少年だったが、いざ自分の運命が決まるとなると、怖くて目が開けていられなかった。
「君、私の弟子になりなさい」
「…今、何と?」
左文字の言ったその言葉。あまりに意外なことであったため、斉場少年は思わず聞き返してしまった。
「仕方ありませんね。それでは、もう一度言いましょう。斉場君、君は私の弟子になりなさいと言ったのですよ」
「…イヤいやイヤ。意味が解りません」
「おや? そんなに難しいことですか?」
「だって、弟子だなんて、え? 何の?」
「私の弟子ですから答えは一つですよ。喰い逃げ屋に決まっているじゃないですか」
コイツはイッタイ何を言ってるんだ。
斉場少年にしても、左文字にしても、互いに互いをそう思い合っていた瞬間が二人のあいだに流れていた。
「弟子って何ですか⁉ 訳解らないですよ!」
混乱の極みに達してしまい、グラスから漏れ出した水のような、薬缶で沸き立つ湯のような、止め処無い感情が爆発する斉場少年。
「いや、そんなに謙遜しなくてもイイですよ。私が見るに、君はなかなか見所がありますから」
「そんなこと関係ないじゃないか! そもそも、僕は食い逃げやなんて嫌々やってたんだからな」
「おや? 奇遇ですね。私もそんなに好きじゃないんですよ。喰い逃げ屋」
「だったら何でやっている!」
「これしか生きる術を知らないからですよ」
何て奴なんだ。何てダメ人間なんだ。
きっと私生活もメタメタなのだろう。想像が容易にできてしまう。
そんな奴と関わり合いにでもなろう物ならば、きっとズルズル深みに嵌って戻れなくなってしまうだろう。
今までもそうだったように、柊を例にするような、こういう録でもない奴と関わって、マシなことは一度もなかった。
そういうことに関して発達してしまった斉場少年のセンサーが危険信号を発していた。
「あの、その…」
「ん? どうかしましたか」
「できれば他の要望にして欲しいんだけれども…。なるべく一過性な…」
絞り出すような、消え入りそうなその声で、斉場少年はなけなしの勇気を後ろ盾に、自分の希望を口にした。
今まで流されるまま、為すがままになっていた彼としては、その人生の中で数少ない反抗の瞬間。
内なる怒り、昂ぶりを以て、吠え立て、牙を剥き、喰らい付く。
そんな決意を持っての、囁かな斉場少年の抵抗であった。
「え、嫌ですよ。これがイイのです」
しかし、これが左文字に届く事はなかった。
子犬のような斉場少年の遠吠えが、百戦錬磨の左文字にとって、愛玩動物のそれにしかならない。
現に、左文字は今にも彼の頭を撫でて目で始めてしまいそうなほど、弛緩した顔で斉場少年を見つめていた。
「ホントどうにかして下さい! それだけはどうか一つ! 他の事だったらば、なんだってしますから!」
「ダメです。もう決めたのです。譲りません」
斉場少年の懇願も、頑として譲らない左文字。
「そもそも、なんで僕なんだよ! 見込みなんて更々無いよ!」
「そんな事はないですよ。大丈夫です。自信を持って下さい」
「そんな事! 数回しか会ったことのないアンタなんかに解るわけがないじゃないか!」
「それは誤解です。実は私、前々から君たちの事を調べていましてね」
それを聞いて斉場少年はゾッとする。やはり自分たちはこの差文字に目を付けられていた。そして、今日の喰い逃げ屋で満を持して仕留められたのだ。
「他の三人は食うのが汚いわ、頼んだものを平気で残すわ、逃げる時も人を傷つけるわと、ハッキリ言って喰い逃げ屋を名乗って欲しくないレベルのクソッタレ共でした」
それに関しては斉場少年も大いに同意見である。
彼らの自称喰い逃げ屋に付き合わされる度、彼らに対して嫌悪感が募ると同時に、店に対して申し訳ないという思いが大きくなっていたからだ。
「そこへ行くと君は違った。何せ君は出された料理を残さない。今日の『大餐ターローメン』だってそうでしたが、全部食べきっている」
「それは…かなり無理をして」
「それでも食べきったのは事実です。その前の牛丼にしても、油そばにしても、君はちゃんと食い切っています。鑑みるに気味の胃の容量は大食い向きでしょう」
本当にそうなのだろうか? 左文字に太鼓判を押された斉場少年だが、彼自身にはそんな自覚は更々ない。
確かに、柊たちよりも食べていたのは事実だが、それでも食い切るにはイッパイイッパイで、今までだって限界寸前の紙一重だったのだから。
そんな状況で食い切った斉場少年にとっては、自分の胃の容量に自信なんて持てるはずもなかった。
「それに君は彼らと違って暴力は振るっていません。そんな君なら喰い逃げ屋を胸を張って名乗れるでしょう」
「いや、そんな、名乗りたいなんて思ってないし」
「そうですね、まだまだ君は見習い、弟子の身分ですし、確かに名乗るのはまだ早いかもしれませんね」
「そうじゃないよ! だから食い逃げやなんて真っ平だってんだよ!」
「いいや、君には成ってもらいますよ、左文字の弟子に!」
「やめろぉ! その理不尽!」
「そうは言ってもこっちには、此処にこれがあるのです」
しかし、その斉場少年の荒れ狂う感情は、印籠のように突き付けられた証文を目にすると、一気に熱を失って落ち着いてしまった。
「そんな、四の五の言わないでください。君に逃げ場は無いのですから」
「うぅぅ…はい」
苦虫を噛み潰したような顔で、染み出す苦汁を飲み下した斉場少年。
「よし! これにて一件落着です!」
やるべきことをやりきって、晴れやかな顔をする左文字。
対して斉場少年は意気消沈しきってた。
イッタイ何の因果だろう。自分が何か悪いことをしたのだろうか。
触らぬ神に祟りなし。それでいて触った神が祟神だった。
それほどまでに特大級の地雷を踏んでしまったのだと、斉場少年は取り返しのつかない後悔でイッパイになっていた。
「さて、話も纏まった事ですし、一度『一品香』に戻りましょう」
左文字の言うには、店主である陳さんに一度謝罪をするべきであるという。
「想像の通り、私と陳さんは長い付き合いですからね。弟子となるなら付き合いも長くなるでしょうし、ちゃんと道理を通すべきです」
一理ありすぎてグウの音も出ない。そもそも、粟田を易々と赤いシミに変えてしまう陳さんに目を付けられていようものなら、命が幾つ有っても足りはしない。
「それに、陳さんだけじゃなく、他にもいろいろな知り合いが居ますから、その都度、君には紹介してあげましょう」
―――いろんな人?
そう言えば、左文字と文さんは血縁者だった。
きっと左文字の弟子となれば、彼女と関わることもある。
それを思えばこれから始まる左文字との徒弟関係も悪くない。
ほんのチョットだけポジティブに成った斉場少年。彼は左文字が差し出した握手を喜んで手に取った。
「それでは、これからどうぞ宜しくお願いしますね。斉場君」
そう言った左文字の声色は、完全に文さんのそれだった。
その瞬間、斉場少年はその場に崩れ落ちて、動けなくなってしまったのだ。




