3-10
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「チクショウ! 何だって俺たちがこんな目に!」
「ぜってー仕返ししてやる!」
「それよりお前ら尻隠せ! 見えているぞ!」
蜘蛛の子を散らすがごとき慌ただしさで、店から出てきた柊たち三人。
各々が悪態を付くのはもちろん左文字に対してだろうが、その様子がどうにも可笑しくて、思わず人目を引いてしまう。
まず、彼らは誰もが裸足となっている。急いできたため靴を履き忘れたのか、靴下一丁に包まれただけの足は、冷たいアスファルトの上では実に冷たそうだ。
そして、誰もが内股に成りながら尻を懸命に隠そうとしている。
いかにも不良じみた彼らが、そんな滑稽な姿を晒しているものだから、クスクスと出処の解らない笑い声が其処彼処で上がっている。中には動画を撮ったり、どこかへ電話を入れている者もいる。
「お母さん、あのお兄ちゃんたち、パンツ見えてるよ」
「しっ! 見ちゃダメでしょ!」
そこに追い討ちを掛けるように、無邪気な子供の一言が柊たちに突き刺さる。
彼らが必死で隠そうとしているその臀部。そこには大きな穴が空いていた。
ジーンズを履いている彼らだが、そんな腑抜けたところにダメージの入ったものなんて見たことがない。
しかも、空いた大穴から覗く下着は、何処となく子供っぽい柄物であり、その可愛らしさが突っ張っている彼らとのギャップを生んで、余計に笑いの種となる。
「クソがっ! これも皆あの左文字とか言う奴のせいだ!」
「接着剤なんて卑怯な手を使いやがって!」
「おかげで俺たちゃ笑いものだぜ!」
池袋の大来で、通行人たちから後ろ指を刺されるような状況に、3人の怒りの炎が天突くように燃え上がる。
「あ! チョット何やってんのさ! 逃げないと!」
そこに後からやってきたのは斉場少年。
彼も左文字が仕掛けた接着剤のトラップに苦しめられたのか、だいぶ時間がかかったが、何とか30秒のリミットの中で抜け出してこられたのだ。
もちろん、彼も例に漏れず、下は裸足で靴下一丁。臀部は大穴パンツ丸出しの滑稽スタイルだったが。
「あん? 斉場か。やっと来たか」
「そんなの決まっているじゃないか!」
「左文字とかいう奴に報復するためだよォ!」
こんな赤恥を掻かされたのだ、それの落とし前は付けさせなければならない。
そのために3人は『逃げ』に入ったというのに走り出すこともなく、左文字が出てくるのを待っているということなのだろう。
「そんな馬鹿なことを考えてないで、サッサと逃げたほうがイイですよ!」
一方、斉場少年は逃げることへの一点張りであった。
その様子は津波か火砕流か、個人の力ではどうしようもない力の渦が迫ることを予期して吠える飼い犬のようである。
左文字の存在は斉場少年の忌避本能に全力で働きかけるほど、強大凶悪なものに感じられたのだ。
「何だお前、怖気づいたのか?」
「だらしない、みっともない」
「おらッ! お前もやるんだよ」
だが、そんな忌避本能など堕落した生活の中で忘れ去ってしまった柊たちは、斉場少年の言葉など聞く耳持たず、彼のことを取捕まえて戦線に加えようとしている。
彼らは自分たちが強者であることを信じて疑わないのだろう。
柊たちが今まで散々好き勝手やってきた喰い逃げ屋。その歪んだ経験が、彼らに失敗する、憂目を見るという考えに至らなくさせているのだろう。
「確保ォォォ!」
だから、その危機が彼を、木部良を捉えるまで、近づいてきていることさえ気付きもしなかったのだ。
「えっ? なっ⁉何⁉」
幾つもの手によって地面に押さえ付けられる木部良は、訳も解らず困惑した表情で、其れでも何とか逃れようともがいては暴れまわっている。
しかし、その抵抗はマッタクの無意味である。
多勢に無勢もある、そして大人と子供の体格差も勿論ある。だが、最も重要なのは、木部良を捉えた腕の主達が、人を捉えることのプロフェッショナルであったことだ。
「午後1時13分25秒。被疑者確保」
そう言いつつ腕に巻いた時計を確認しているのは、青い制服が目に眩しい、警察官の男性であった。
木部良を捉えている3人もまた全員が警察官。その手際は実に堂に入っている。
「離しやがれ! うぁぁ! 何だってんだよ! お前ら何なんだよ! 俺がイッタイ何をしたって言うんだよ!」
いきなり取り押さえられて半狂乱になった木部良が己の無実を騒ぎ立てる。
確かに、柊たちは今まで色々やってきたが、今日に限って言えば何かをまだやらかしたわけではないのだ。
料理を残したことが罪になるか? 左文字を罵倒したことが罪になるのだろうか?
まあ、金も払わずに店から飛び出してきたことは罪になるだろうが。
―――あれ?
そこに考えが及んだところで斉場少年が疑問に思うのは、警察の対応が早すぎるということだ。
確かに自分たちは無銭飲食の罪を犯した。それは、警察を呼ばれて追い回されても文句の言えないくらいに立派な犯罪だ。
しかし、自分たちが店を出てきたのは今し方。その間に左文字が110番へと連絡したとしても、ここまで来るのには早すぎる。
そうだとも。『一品香』から最も近い『池袋駅西口交番』からだって、走ってきても3分は掛かる。
なのに何でと困惑している斉場少年に、警察官の一人が「イイ加減にしろ!」と木部良を叱りつける声が聞こえてくる。
「通報はもう入っているんだ! 30分前に近所のハンバーガーショップで『喰い逃げ屋』と称して無銭飲食をしただろう!」
「他にもあるぞ! 1時間前にはカツ丼屋。1時間半前には立ち食いそば屋。さらに2時間前にはカレーライス屋で同様の手口による犯行の報告が入っている」
「その何れもが、金髪に野球帽を被ったデニムの上下の男による犯行だと供述が一致しているのだぞ!」
「それらの服の特徴が、今のお前と完全に合致する! それに今は現行犯と見た! どうだ? もはや弁明の余地はないぞ!」
「「「「…はぁ?」」」」
一瞬の間があって、四人が揃ってそう呟いた。
―――おい、待て待て。どういう事なんだ。
一瞬の間では理解できない事例が警察官の言葉の中に挟まっており、斉場少年の脳みそはさらなる混乱の渦中へと突入する。
そもそも、30分前とか何なのだ?
警察が言うには木部良がここ『一品香』へ来る前に、別の店で喰い逃げ屋を語った無銭飲食を働いたという。
しかし、斉場少年を含め柊たちも知るように、木部良は『一品香』へと来るまでの間、自分たちと行動を共にしており、完全なアリバイがある。
そして何より可笑しいのが、そんなに複数の店で連鎖的に喰い逃げ屋を装った無銭飲食が起きたという事実だ。
そもそも、斉場少年が知るように、木部良はそこまで大食漢ではない。
今まで自分たちが行ってきた喰い逃げ屋勝負を鑑みても、木部良は出された料理の大半を残して逃走しているくらいだ。
そんな彼がしかも30分置きに、4つの店で喰い逃げ屋勝負をやろうだなんて無茶にも程がある。
―――ていうか、居るのかよ。そんなことする化物が。
それらの証拠に照らし合わせて、木部良が無実であることは疑いようのない事実である。
だから彼を助けたい気持ちは山々なれど、それは斉場少年も後暗い身の上。
火中の栗を拾いに行けば、火傷どころで済まなくなってしまうだろう。
「おや、やってますね」
そんな風に斉場少年が手を拱いていると、後ろの扉が開いたところに、左文字がニュッと顔を出す。
「うぁぁ! 出た!」
まるで鬼か物怪か。左文字の姿に恐れ戦いた斉場少年が、ビックリして飛び退くと同時に、尻餅を付いてしまう。
すると丁度、目線の高さ。左文字がその手に持っている物が目に入る。
それはどうやら衣服のようだった。
デニム生地の上下に野球帽。極めつけは金髪の鬘が一緒くたになり、ポリ袋に詰め込まれている。
それを左文字が何の躊躇いもなく、店の裏路地にあるゴミ箱向けて投げ込むと、未だ地面に座り込む斉場少年に向けてニコリと朗らかな笑みを向けた。
―――この人、そこまで!
真実と証拠が合致した瞬間、斉場少年は左文字のことが恐ろしくて仕方がなくなった。
―――この人は本気だ。ガチでこちらの息の根を止めに来ている。
周りの様子を見てみれば、柊と粟田も左文字の所業を理解したらしく、顔面蒼白で石のようになっている。
「つべこべ言うな! しょっ引いてやる! きっと余罪もあることだろう!」
「うぁぁぁぁ! 誰か助けてェェェェ!」
警察官たちが木部良を連行してゆくと、『一品香』の周りは一気に静かなものになる。
そこに居るのは恐怖のあまり動けなくなった少年が3人と、その彼らを値踏みでもするかのように、じっと見据える左文字だけであった。
「どうしました? 逃げないのですか?」
「ぅ、ぁ…ぅぁあぁぁぁぁぁぁ!!」
一通り値踏みが終わったのか、そんなことを左文字が呟くと、我に帰った斉場少年たちが一目散に背を向けて走り出す。
―――ヤバい、ヤバすぎる。
これは手を出してはいけない事だったのだ。
斉場少年は後悔をしていた。取り返しのつかない事をしたという後悔だ。
まるで、回るミンチマシーンに手を突っ込んでしまったかのような、どうしようもない後悔を噛み締めたのだ。
左文字がこんな手に出るなんて微塵も思っていなかった。だから、正直に言うと喰い逃げ屋というものに対して、甘く見ていたというか、舐めて掛かっていたところが斉場少年を含めてあったのだ。
だが、そのしっぺ返しはあまりに重いものとなる。
自分たちの無礼に対する最悪な返礼だ。
きっと左文字は自分達を追い詰めることに対して最早手段を選ばないだろう。
イッタイ左文字がどんな手段に訴えてくるのか?
豚箱へブチ込むこと以上のことがあるのか、それは解らないが、確実にこちらを破滅させてくる事は解りきっている。
まるで骨ばって汚れた手で自分の影を握り締められているみたいな不安感だ。
―――恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい。
そんな恐怖から斉場少年は出来るだけ遠くへ逃げようと、一心不乱に周りに目も呉れず、息の続く限り逃げ続けた。
「何なんだ? 何でこんな事に成ったんだ!」
「木部良が捕まってしまった。捕まっちまった!」
西口公園まで逃げてきた斉場少年及び柊と粟田の3人が、乱れた息に咽びながら現状に絶望して叫ぶ。
斉場少年としても泣き叫びたい気分だが、取り乱した人間が近くにいると、どういうわけか気持ちが収まって冷静になっていく。
「くそぉ! あの左文字とかいう奴、無茶苦茶しやがって」
「今度会ったら絶対にぶっ殺してやる! 絶対にだ! 斉場、アイツのこと、何か知っているか?」
少し息が整ってくると、話題と怒りの矛先は、勿論左文字へと向かう。
「何で、僕に聞くんだよ?」
「だって、アイツ、お前が飯を食っているとき、何かニヤニヤしながらお前のことを見つめていたんだぞ」
「実は知り合いなんじゃないのか?」
「そんなの言いがかりだ!」
斉場少年としても左文字の知り合いだなんて思われることは心外である。
あんな恐ろしい、男か女か解らない、喰い逃げ屋なんて訳の解らない事を生業としている正体不明な人物と誰が好き好んで知り合いとなるものか。
…それでも左文字の血縁者と思われる文さんとは知り合いとなってはいたが。
「…何か思い当たるフシがあるんじゃないか?」
文さんのことを考えて、それを柊に勘ぐられると目を付してしまう斉場少年だが、逸らした視線の先に白衣を着た一人の男が映り込んだ。
「あれは、陳さん⁉」
斉場少年がそういう様に、シタシタと落ち着いた、指でなぞる様な足取りでこちらに向かって歩いてくるのは紛れもなく陳さんであった。
だが、そんな彼の雰囲気は、店の厨房に居た頃のものとは全く別なものとなっていた。
「…! 殺気ッ!」
それを真っ先に口にしたのは粟田であった。
確かにそれは殺気。こちらに力に訴えた実害を加えようとする悪意が、ビリビリと斉場少年たちに向かって放たれている。
それに対して粟田が最もそういった物に精通した世界に居たからか、最も先に感じて身構える。
斉場少年と柊も公園を満たす剣呑な雰囲気に、尋常な状況ではないことを感じ取り、少し離れて身構えた。
「なんだ? さっき中華料理屋か。随分と殺気立っているじゃないか!」
粟田は大きな声を出す。威勢の良い様子で捲し立てる。
しかし、彼の額からはビッショリと汗が滴り落ちてくる。明らかに余裕が無いということの現れだ。
そんな粟田のことを気にもしないように、陳さんは粟田の前までやってくると、キョロキョロと辺りを見回す。
「…何だよ。俺のことは無視か⁉」
粟田が吠えるがそれも無視。そして陳さんは公園に自分たち以外に居ないことを確かめると、「フゥ…」と聞えよがしな溜息を吐いた。
「今晩のメニュー、何だか解るネ?」
「…はぁ?」
唐突にそんな関係のないことを聞かれた粟田が、何とも気の抜けた返事をする。
斉場少年も何でそんなことを聞くのか、どんな意図があるのか解らずに目を白黒させている。
「今晩は『豚の叩き』っテ決めてるのヨ」
困惑する自分たちを置き去りに、陳さんはそう言うと、徐にこちらに向けて指を向けてくる。
「ソウネ、豚が1、2…」
ユックリと、まるで風に揺らぐロウソクの炎のような指運び。それで陳さんは斉場少年と柊を指し示す。
その行為がまるで自分を見透かされたような気分がする。それだけで斉場少年は絶対に陳さんには勝てないという気分になってしまった。
しかし、不幸なことに粟田はそうではなかった。
「3頭ネ…」
最後に陳さんの指の先が粟田に止まったとき、粟田の真っ赤になった頭の中で、ブツリと何かが切れる音が聞こえた。
「テメェがその豚に成りやがれ!」
激昂して陳さんに飛びかかる粟田。
何時もの如く彼の自慢の拳が繰り出された。
…繰り出された、ハズだった。
次の瞬間。斉場少年も柊も陳さんとは反対方向に目を向けていた。
何故そうなったかというと、陳さんに向けて踊りかかったはずの粟田が、どうしてかいきなり背後に向けて吹き飛んだからだった。
その速さは凄まじく、泡だが陳さんに向けて走りよるスピードの、軽く3~4倍の速さで後ろに飛んでゆく。
そして行き着く先は公園に備えられた『Crescendo』という幾何学的な形をしたオブジェ。
そこに粟田は強かにその身を打ちつけたのだ。
ギャグや創作の世界なら、衝突した際に人型を模した穴が空くだけで、最後は笑い話で済むだろう。
しかし、現実はそうならない。
凄まじい勢いのままに『Crescendo』に激突したことは、粟田にとって宛ら猛スピードの車と衝突したようなもの。
その結果は火を見るよりも明らかで、粟田は赤いシミと化していた。
「一皿はチリソースか…」
冗談なのか本気なのか、淡々とした口調で吐き捨てられる陳さんの言葉に、斉場少年も柊も、睾丸が縮み上がっていた。
「あ、居た居た」
そこへこの場の空気など全く知る由もない左文字が、足取り軽く、散歩でもするかのように小走りでやってくる。
「ん? あぁー…、陳さん、やっちゃったんですね? 少しは手加減してって言ったでしょうに」
その足取りのままに陳さんの傍までやって来た左文字。そして、目に入る赤く塗り直されたオブジェ『Crescendo』に苦笑いをする。
「フンッ! 私ノ料理を台無シにしてくれタ罰ヨ! そもそも、端カラ本気でヤッテいないから大丈夫!」
「本当ですかぁ? …あぁ、ホントだ」
陳さんがそう豪語するように、『Crescendo』に張り付いた粟田の脈を取ってみると、確かにシッカリと動いている。
「ブツカッた拍子ニ全身ノ皮が千切れて血ガ吹き出しただけヨ。命に別状なんテこれッポッチも無いんだかラ」
「流石陳さん。料理も拳法も達人級!」
「ハハハっ! モット褒めるヨロシ!」
―――なんで笑ってんだ!? この人たち。
瀕死の状態の粟田を前にして、ランチタイムの団欒を楽しんでいるかのように笑い合う左文字と陳さん。
その光景はどう見ても真面な人間じゃない。もしかしたら人でもないのかもしれない。
やはり喰い逃げ屋は真っ当な人間が覗き込むべきでない魔窟だったのだ。
「サテ、残ル豚は2匹ネ」
ひとしきり談笑を終えた後、先ほどの笑顔など欠片も残さない、氷の眼差しの陳さんが斉場少年たちを見据えてくる。
まさかもうひと皿チリソースを増やそうと言うのだろうか。
「チョっ! 拙いよ。柊くん、早く逃げよう!」
そんな予想が頭を過ぎり、恐れをなした斉場少年は、隣にいるはずの柊に向かって話しかける。
しかし、振り向いてみればそこに柊の影はなく、遠く離れた公園の出口の方でかけてゆく彼の後ろ姿が見えるのみ。
「そんな! 置いてかないでよぉ!」
涙声に成りながら柊の後を追って一目散に駆け出す斉場少年。
その姿は傍目から見ても、彼が柊から見捨てられたのだと一目で解る光景だった。
「何ネ、友情なんテ無いのネ?」
その血も涙もないような一幕に、陳さんも呆れてモノも言えなくなっている。
「まあ、見ての通り友達ではないのでしょう」
左文字も見苦しいものを見たのだと、何時にも増して苦い表情をしている。
「ソレで、ここから手筈ドオリでイイのか?」
ヤレヤレと一息吐いて、気を取り直した陳さんは、最前に左文字との打ち合わせの内容を確認する。
「ええ、その通りです」
左文字も気を取り直したのか、何だか公園に入ってくる前よりも艶々とした、華やぐ笑顔でそう答える。
「これから、彼らを例の場所へと追い込みます。そうして、奈落の底へと叩き落としてやるのですよ」
「ヒドイ事、随分ト楽しそうニ言うじゃないカ」
「そうですか? なるべく心静かにしているつもりですが」
そんなふうに嘯く左文字だが、どの様に包み隠しても、その逸る心は抑えきれてはいなかった。
「それじゃあ、私はこれで。彼らを見失っては大変ですし」
その言葉を残して左文字は公園を後にする。
その浮き足立った、春の高原を行く様な足取りの左文字を見送って、陳さんは追われる二人の少年が、敵ながら不憫で仕方ない気分になったのだ。
一方、視点を移してこちらは斉場少年。
彼と柊は相変わらず池袋北口の街を逃げ回っていた。
もちろん最初はこの喰い逃げ屋のゴールである池袋駅を真っ直ぐ目掛けて逃げてはいたのだ。
しかし、あとチョットというところで、西口のエスカレーターの上りから左文字がユックリ上がってきたのを見つけた彼らは、すぐさま踵を返して逃げ出した。
次にグルッと回って北口からの侵入を試みるも、こちらからも左文字が階段を駆け上ってくるのが目に入ると、一目散にUターン。
だったら最早ルール無用で、左文字の指定した喰い逃げ屋逃走範囲から抜け出してしまえばイイだろうと、斉場少年と柊は考える。
だが、立教通りや劇場通りやトキワ通りを横切って抜けようと試みると、どういうわけだか向こう側、反対方向から左文字が全力ダッシュで駆け寄ってくるため、その都度断念して逃げ帰る始末だった。
そもそも左文字。アイツはなんなのだ。
毎度まいど向こうからやってきて。瞬間移動でもしているのだろうか。
そうこうしている内に、斉場少年たちはジリジリと追い詰められてゆき、今は『池袋大橋』の上で息を整えていた。
「はぁ…はぁ…、クソがァ!」
憤りに燃える柊が、怒りに任せて橋の欄干を蹴飛ばしている。
そのせいで強かに向こう脛をぶつけたのか、声を殺して悶絶しているのを見る斉場少年だが、今は彼に気を使えるほどの余裕がない。
―――ここまで、執拗に来るなんて予想外だ。
左文字が見せる徹底した追立てに、斉場少年も気が滅入ってしまい、手摺りに凭れながら眼下の線路を見下していた。
あの日見下ろした時のように、相変わらず幾筋もの線路が隙間なく敷き詰められている。
その上を列車がヘッドライトを残像に走り抜けると風が巻き起こり、走り疲れて火照った体を冷ましてくれる。
そうして漸く息も整うと、冷静になった頭には、左文字の行動の中にどうにも気になることがある。
それは、この橋に来たことだった。
そもそも、これまでの左文字は徹底してこちらの逃走経路を潰してきていた。
池袋の地下へと降りるのも、大通りを抜けて逃走エリアから逸脱することも、どちらも試みるたびに左文字が瞬間移動で現れて、こちらの退路を塞ぐように真っ向から突進してくるのだ。
それに自分たちは恐れを成して、その度に逃げ出してきたのだが、どういうわけかこの『池袋大橋』はその現象が起きていない。
今、自分たちが休憩しているのは大橋の中頃、道が二つに分かれており片方が東口へと向かうところ。
このまま西へと走り抜ければ見事逃走エリア外、池袋東口周辺の繁華街へと逃げ込むことができる。
だが、そんな脱出の目と鼻の先にあるというのに、これまでの例に習うような左文字の登場がまだ起こっていないのだ。
―――これはイッタイ、どういう…。
「お前のせいだからな」
斉場少年の熟考は、その柊の言葉によって遮られる。
「お前があの店を選んだからこんな目に遭っているんだからな!」
追い詰められた柊は、斉場少年に向かって言いがかりを付けてくる。
「そんな事を言ったって、こんな事に成るなんて解らないよ!」
「う、うるさい! お前があんな店にノコノコと誘われていったせいで、俺がこんな苦しい思いをしているんだ!」
「それは柊くんが行けって言うから!」
「そもそも、何で抜き打ちでやらなかったんだ! そうすれば少なくとも奴らに準備をされなかなったのに!」
「それはあの店がそういう決まりだったから!」
実に醜い言い争いだった。柊はとにかく自分を正当化しようとし、斉場少年がどんなに反論しようともう、一切聞く耳を持たなかった。
一方の斉場少年も追い詰められたネズミの如く、必死で柊に反論していた。斉場少年とてこのまま柊に戦犯のレッテルを貼られることは我慢ならない。こんな一大事に関しての責任なんて斉場少年が取れるはずもない。
だから、いつも言われるが侭の斉場少年も今回ばかりは頑なに、柊の主張を認めようとしなかった。
そんな胸の内があるものだから、何時まで経っても二人の言い争いは終わらない。
まるで泥の擦り付け合いのようだ。
自分が汚れるのを嫌って相手に泥を擦るのだが、結局は互いに泥を広げているだけで、どこまでも二人で汚れていく。そんな不毛な行為のようだった。
「この…根暗! パシリ! バカ野郎!」
「陰険! 低脳! クソ野郎!」
そんな言い争いを5分も続けていたならば、二人は言うに事欠いて子供じみた悪口の応酬でもつれ合う。
最早年相応に子供の喧嘩でしかなくなった二人は、それから数分の後に疲れ果てて抱き別れる。
「チクショウ…、やりやがる」
ここまでの抵抗を見せる斉場少年にさすがの柊も音を上げる。彼からしてみれば飼い犬に手を噛まれるような感覚だ。
「ハァ…ハァ…ハァ…、こんな事している場合じゃないのに」
斉場少年はこれが初めての抵抗であったが、その目が見据えているものは柊のことではなかった。
余計な体力を使ってしまった。今はまだ食い逃げ屋の最中だというのに。
果たしてまた左文字に追い掛け回された場合、自分たちはこの体力で走って逃げ切れるのだろうか?
そんな心配をしている最中、斉場少年は突如、寒気にも似た危機感を覚えた。
「あん? どうしたんだ、斉場」
柊は感じていないのか、辺りをキョロキョロと獲物に襲われる小動物のように見渡す斉場少年の様子を、奇妙なものでも見るように眺めているだけである。
―――この感じ、見られている。
斉場少年が感じているのは確実に左文字の視線。上空から狙いすます猛禽の如き眼光だった。
この喰い逃げ屋での逃走中に何度となく晒されたその視線を、身をもって恐怖とともに刷り込まれた斉場少年が間違えるはずもない。
だから斉場少年は必死に左文字の影を探し続けた。
しかし、夕泥む池袋の街に溶け込んだ左文字と姿は見つけることが困難極まり、斉場少年は余計に狼狽えるのだった。
左文字は何処からやって来る?
橋の向こう側からか? それとも今来た道からか?
ビルの上からこちらを見ているかもしれない。行き交う車の窓からこちらを見ているのかもしれない。
あらゆることを考えて、張り詰めた神経で斉場少年は辺りを探るも、やはり左文字の姿は何処にも見当たらなかった。
そういう事ならば、気のせいなのだろうか?
疑う心が暗闇に鬼を生むように、恐れが柳を怪異に見せる。
そんな風に斉場少年は、あまりに過敏になりすぎて、幻の影を追っていたのだろうか。
だが、再び感じた悪寒に、斉場少年はこの危機感が紛れもなく本物であると確信する。
そして、その危機がやってくる方向を、今度はハッキリと感じることができたのだ。
「何だよ、怖い顔しながら駅の方なんて見て」
あまりに挙動不審な歳馬少年に、柊もただ事ではない音持ったのか、共に駅の方へと目を向けた。
辺りが随分と暗くなり、駅のホームが証明にボンヤリと浮かび上がる。
いくつもの線路が束になったその場所に、緑色をした山手線が止まっており、乗客の折々が済んで出発のメロディーが鳴り響く。
「あれは、東京方面だ。こっちへ、来る」
ユックリと、徐々にスピードを上げてこちらへとやって来る山手線。
今の斉場少年たちのように『池袋大橋』に居て周りを見れば、特に何ら珍しい光景でもない。
しかし、斉場少年はこの列車に違和感を覚えた。
―――屋根の上に、何か、居る。
1両目、先頭車両の屋根の上、普通ならばパンタグラフが立っていて、ほかには何もない平坦な場所。
そこに何かが鎮座しているのが斉場少年の目に入った。
実に、実に嫌な予感がする。
早々にここから立ち去らなければヤバイ事になる。
そう直感で悟った斉場少年だが、そこは列車と人の足、逃げる間も無く山手線は『池袋大橋』へと差し掛かる。
「うぁぁ! なんだアイツ! 何やってんだ!」
そこまで近づいてしまえば柊だってそれが何なのかが解ってしまう。
勿論、斉場少年も気がついた。
「あれは…っ! 陳さん!」
苦々しく、信じられないといったように斉場少年が呟いた通り、列車の屋根にいたのは紛れもなく『一品香』の店主、陳峰兆さんだった。
陳さんはふてぶてしくも屋根の上に胡座を掻き、白衣の裾を風にはためかせながらグングンと近づいてくる。
宛ら金斗雲に乗る孫悟空のような、空をなぞる移動の仕方だ。
だが、こんなこと、まともな奴がするわけがない。あまりに危険極まりない。良い子はもとより悪い子だって真似する気にさえ成はしない接近方法だ。
だから斉場少年たちも線路の方から来るなんて思いも寄らず、警戒すらしていなかったのだ。
だから、一瞬反応が遅れた。それが喰い逃げ屋の『逃げ』にとって命取りだというのに。
「ホァタァ!」
その掛け声と共に、陳さんが立ち上がると、屋根を蹴ってジャンプして、『池袋大橋』の欄干に音もなく着地する。
大凡、人間には不可能なジャンプ力だが、列車のスピードを利用して勢いつけて跳んだため、陳さんは苦もなく跳び移ってみせた。
「それでも無茶苦茶だろ!」
「細かいことは気にしない。鍛え方が違うのです」
柊の反論を切って捨てた左文字は、欄干から飛び降りると、橋の東側を塞ぐように二人の前に立ちはだかる。
「サテ、ソロソロ年貢の納めどきネ?」
そう言って躙り寄ってくる陳さん。これでは駅の東側へと逃げ出すことは無理である。
だったらば、橋の反対方向へ逃げるしかない。
けれども、西へと逃げる二人だが、その逃走もすぐに足を止めねばならなかった。
「嘘だろ…。あの喰い逃げ屋、こっちに来ている」
絶望に満ちた声を上げる柊。彼の言うように、その左文字がユックリと余裕ある足取りで西の橋詰めから近づいて来ていたのだ。
これはまさに挟み撃ち。どちらを向いても敵しかいない。
こうなればどちらかに一点突破する以外に方法はないように思えるが、どちらに行っても自分たちが助かる見込みなんてほぼ0%だろう。
「おい、どうすんだよ! 何とかしろよ! 斉場!」
ここまで追い詰められてパニックに陥った柊が、斉場少年の袖に縋りながら情けない声で泣いている。
こっちだって泣きたい気分ではあるが、それでも斉場少年は心折れず、頭の中で打開策を模索する。
―――だったら、あの道しかないか…。
斉場少年がその答えに辿り着くも、この切羽詰った状況にも拘らずその道を行くことを躊躇ってしまう。
確かに、残された道はそれしかないが、そこへ行くのはどん詰まり。まさに最終である。
それに何だろうか。嫌な予感がプンプンする。
ほんとにこの道が自分たちの活路なのだろうか?
―――なんだか誘導されているような…。
どういうわけか妙に勘ぐる斉場少年は、そちらへ進むべきか、それとも他の道をゆくべきか考えあぐねていた。
「チクショウ! こっちしかねぇ!」
しかし、斉場少年の躊躇いなど他所に、柊は一目散にその道へと走り出す。
「え、あっ、チョット待ってよ!」
駆け出す柊を止めようにもすでに遅く、自分自身も迫り来る追っ手組から逃れるにはやはり柊の後を追うしかない。
「ぅぅぅ…えぇい! もうどうにでもなぁれ!」
腹を括って斉場少年が走り出す。
向かう先は橋の中頃から道が分かれて繋がる巨大な施設。
天高く突き上がる煙突からは毎日のように白い煙がたなびくそこは『豊島清掃工場』であった。
「行きましたね」
「行っちゃったネ」
それを橋の中ほどに差し掛かり、出会った左文字と陳さんは、逃げる二人の少年の背中を見送っている。
しかしその表情はそれぞれ違う。
陳さんは何とも悲哀に満ちた、彼らの行く末を憂うような表情だった。
一方の左文字はその正反対。ウキウキとしてこれから起こることが楽しくて仕方がないという感じだった。
そんな左文字のことを見て、陳さんは「意地が悪いネ」とさらに少年たちのことを憂うのだった。
「そうですね。まあ、自慢じゃないけれども、こらから彼らには酷いことをしますからね。申し訳ないですけれども」
そんな風に開き直って言い切る左文字。陳さんは呆れたように溜息を吐く。
「陳さんはもうイイですよ。ここから先は私一人でやりますし。やりたくない人は無理に関わらない方がイイですね」
陳さんの様子を見て、左文字は陳さんに協力はここまでだと切り出した。
「ソウネ、もう喰い逃げ屋はコリゴリネ」
「すみませんね。有り難う御座いました。謝謝」
そう言われて陳さんもヤレヤレといった体で帰っていった。
「さてと…」
こうして一人となった左文字は『豊島清掃工場』をジッと見る。
その眼差しの先には逃げる少年たちが通用員口から工場内へと入っていくのが映る。
「大詰めですね」
その様子を見届けて、すべてが計画通りに運んだことに満足した左文字は、その表情をさらに邪悪なものに歪めて笑っていた。




