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喰い逃げ屋 左文字 ― 3
楠木 陽仁
週末の日課としている見舞いを済ませた斉場少年が、『一品香』へと戻ってくる。
店主の陳さんに挨拶をした後に二階に上がると、部屋主を失って久しくなった左文字の部屋が目に入る。
左文字が入院してから一ヶ月が過ぎており、生活臭の欠片も無くなったこの部屋だが、それでも埃は自然と貯まるもの。
だから、斉場少年は見舞いのあとにはここに来て、部屋の掃除をするようにしている。
机を拭き、床に箒をかけて、窓を拭く。
そうするだけでもチリトリにはゴミが貯まり、バケツの中身は黒く澱んで来てしまう。
―――毎週必ずやっているのに、不思議なものだな。
最後に部屋の空気を入れ替えるべく、斉場少年が窓を開け放ったら、外の冷たい空気が挨拶も無しに入り込む。
―――おお、寒い。
季節は冬の真っ盛り。豪雪地帯であった長野はもちろん寒かったが、この季節の池袋も斉場少年には寒くて堪らない。
大体コレでイイだろうと、数分間、開け放した窓を早々に閉めて、次に机の中の整理を始める。
左文字が入院してからと言うもの、何度か続けてきたこの部屋の掃除。勿論、机の上を噴くことは何度かあった。
だが、机の中身に手を掛けるのは初めてだった。
―――普段は師匠がいるからな。気には成っていたけれども、憚られたから。
しかし、今は大義名分が有る。僕は掃除をしなくちゃならないんだ。
「すみませんね、師匠」
応える声は無いと解っていながらも、師匠に許しを乞うた斉場少年は、早速机の整理に取り掛かる。
書類を纏め、紙くずを整理して、小物を元あった場所へと戻す。
引き出しの隅に溜まっていたカスを固く絞った雑巾でふき取れば、机の中もピカピカに成る。
―――ここまでやれば文句は無いだろう。
何時だって左文字が帰って来ても大丈夫なくらいに、部屋中どこを指でなぞっても、埃の一つも着きはしない。
その位の念の入れようで、斉場少年は掃除を完遂したのだった。
―――後はこれらを元に戻すだけ。
最後の仕上げとして、捌けておいた書類たちを引き出しへと収め直す斉場少年は、ふと、一通の封筒が目に入った。
見てくれは何の変哲も無い、コンビニなどで数十枚一セットで打っていそうなその封筒だったが、束で無く、一通だけがポツンとあれば否応なしに気に掛かる。
―――何だこれ?
不作法だとは解っていたが、興味が勝利した斉場少年は封筒を日に翳すと、中身が有る事に気が付いた。
ここまで来たらもう止まらない。
好奇心で加速する勢いそのままに、封筒の中身を確認した斉場少年は、その内容に目を丸くする。
―――これって!
思わず誰も居ない筈の部屋の中を見渡した斉場少年は、何度か深呼吸をし、常陸の汗を拭った後、速やかにその封筒の中身を自分のポケットに仕舞い込んだのだ。
―――まさか、こんな所に有ったなんて。
探し物の思いがけない登場に、動揺を隠しきれない斉場少年は、部屋に在るソファーに座り込んだまま、しばらくジッとして動かないでいた。
何分くらい経っただろうか。石の置物の様に微動だにしなかった斉場少年は、ようやく落ち着きを取り戻したのか、落ち着き払った様子で部屋を後にする。
そして、そのままポケットの中身は机に戻さないままだったが。
「終わったのネ。いつもエライねぇ」
階下へと降りてきた斉場少年を認めた陳さんが、労いの言葉を掛けてやると、「それほどでもありません」と恐縮したように斉場少年が含羞む。
「師匠が居ない間は僕がここを守らないといけませんからね。これも弟子として当然の務めです」
「マスマス偉いネ。マッタク、あのロクデナシの弟子にシテおくのハ勿体無イヨ」
そう言って下さるな。陳さん。
左文字と陳さんとの関係は長く、確かにどうしようもない一面を多く見せていることだろうが、それでも自分の師匠なのだから、悪く言われてしまうのは、どうにも居心地が良くはない。
だから、陳さんから自分の弟子に成らないかと冗談交じりに誘われても、丁重にお断りする斉場少年であった。
「マア、ソレはサテ置き、いつも頑張ってイル斉場君にゴ褒美ネ」
なにやら最前から作業をしていた陳さんが、カウンターに斉場少年を座らせると、一杯の丼を彼の目の前に差し出した。
「これって…」
「ターローメンね。奢りネ」
陳さんが粋な計らいで作ってくれたのは、『一品香』の名物料理にして人気メニュー『ターローメン』であった。
ターローメン。それは有り体に言えば『野菜あんかけラーメン』である。
だが、その最たる特徴としてあんかけの中にフワリとかき卵が、まるで春風に遊ぶ少女の衣の様に浮かんでいる。
「相変わらず美味しいですね」
斉場少年がターローメンのトロッとしたスープを一口飲み込むと、卵の優しい食感と風味が口の中に広がって、気分さえも優しくなってゆくように思える。
続いて麺を啜れば、トロみのあるスーブがたっぷり絡まって、その上手に取られた鶏ガラスープの風味が濃厚な醤油の味わいとともに雪崩込んでくる。
口に含んだ麺を一噛み二噛み。麺の歯切れの良さ。スーブの香りを邪魔せず、それでいてシッカリとした存在感を主張する小麦の香りに酔いしれる。
具材も丹念に下拵えがしてあるのか、野菜は瑞々しさを失わず、肉はジューシーこの上なく、これだけで十分に一品の料理として成り立つほどの出来栄えに思える。
そして、スープ、麺、具材の全てを一緒くたに啜り上げれば、ラーメンでも五目そばでもなく、これぞターローメンという味わいが成立し、これがまた得も言われぬものである。
あまりの旨さに斉場少年は語ることも忘れて一気に丼の中身を食べ尽くし、スープさえも飲み干してしまう。
「御馳走様でした」
大満足の斉場少年が笑顔でそう言うと、「オソマツさまデシタ」と陳さんも笑顔を返してくれる。
「サスガ喰い逃げ屋のお弟子サン。食べっプリがアッパレね。ヤッパリ才能がアルよ」
斉場少年の胸の空く様な食べ方に、素直に褒める陳さんだが、当の斉場少年は苦笑いをしてしまう。
「いえ、マダマダです。師匠ならばもっとイイ食べっぷりですから」
「まあ、アイツの褒められルところなんテ、食べることト逃げること位だからネ」
弟子としては師匠の沽券に関わるため否定したいところではあるが、どうにも否定しようがないのが左文字であるため、苦笑いを深くする。
「しかし、僕もターローメンを真似して作ってみるのですが、この味を出すことはヤッパリ難しいですね」
だからこれ以上左文字の話題は拙いと思い、話の矛先を変えるべく、斉場少年はターローメンについて語る。
実のところ斉場少年は料理上手である。家での食事も自炊を旨としており、そのレパートリーは洋の東西を問わず様々である。
彼の料理は左文字にも何度か提供しており、その度に絶賛されている。
それでも真似できないのが『一品香』のターローメンであり、これには陳さんも「それは当然ネ!」と胸を張る。
「このターローメンは、自慢じゃないケドも、60年以上の秘伝ガ詰まっているノヨ。一朝一夕デ真似できたラ、私ガッカリしてしまうヨ」
やはり年季の違いなのか。だったらば、その製法を教えて欲しいという斉場少年。
だが、陳さんは「左文字の弟子ジャなく、私ノ弟子に成ったラ伝授してアゲルよ」と取り合わなかった。
「しかし、懐かしいですね。あの時も『ターローメン』でした」
丼の中に昔を懐かしむような斉場少年に、陳さんも「そういえばソウネ」とシミジミと相槌を打つ。
―――そう言えば、座ったのもこの辺りだったか。
カウンターテーブルの赤い天板に手を乗せて、摩る様にする斉場少年。その表情は、思い出に浸るというよりも、感傷に浸っているように見える。
「そう言えバ、あの時の子達っテ、どうしてるネ?」
「いえ、今はもうどうしている事か解りません。暫く合ってもいませんから」
多くを語らない斉場少年に、チンさんも推し量ったかそれ以上はこの話題を追求してこなかった。
「それでは、また、来週お邪魔します」
丼を片付けて、陳さんにお礼を述べた斉場少年は、一人池袋の繁華街へと歩み出る。
時間は午後の三時を回った頃。
自分でも随分と長居をしたものだと思う。
―――とりあえず、一旦家に戻りましょう。
意を決して爪先を向けるも、その足取りは重く、靴底に鉛板を仕込んでいるような感覚だった。
自分の家だというのに、こんなにも心が沈んでしまうのか。
「ただいま」
その答え、そして言葉を返す者はなかった。
家具と家電は揃っているものの、生活感の無いそのマンションの一室。実質自分の一人暮らしで、あまり居座ることもないから仕方がない。
それでも、斉場少年の一家は両親を含めて3人家族である。その家族は既に1年以上も顔を合わせてはいないが。
仕事に追われる父と母。二人共朝早く、平日も休日もなく家を出て行っては顔を合わせることもなく、そして手料理もない。
現にダイニングのテーブルの上にはいつもの様に食事代として3000円が置かれているのみ。それ以外には手紙すらもない。
―――こんなでは無かったはずなのに。
幼い日の、それこそ就学前の頃の記憶を紐解けば、家族団欒の食卓があり、週末には母と共に手料理を作った思い出があり、父に旨いと言われて喜んだ記憶が有る。
母の作ったカレーが好きだった。その次にハンバーグが好きだった。
そんな、どこにでもあるような幸せが、確かにこの部屋には存在していた。
無い物強請りをするつもりはない。有ったからこそ辛くなる。
だが年を重ね、月日は流れ、両親が日々の生活に追われるように成ってくると、それらの出来事はすべて思い出と成ってしまい、今に再現することは無くなってしまった。
―――でも、仕方がない。
悲しいとは思う。けれども、もっと悲しいことは、この現状に自分が慣れてしまった事なのだ。
赤子や幼子であったなら、泣き叫んででも親の愛を繋ぎ止めようとしただろう。
けれども、既に少年となった自分には、そのような真似が出来ないのだという感覚だけが確実に有り、心の中の空洞に深く反響するのみであった。
ここに居ても侘しさが深くなっていくだけだ。もっと辛くなるだけだ。
―――それでも、1年前に比べれば。
愛もなく、熱もなく、寂しさに満ちるこの一室だが、それでも1年前に比べれば、まだマシなのだと思えてくる。
あの頃は本当に、自分にとっての痣のような物だった。
傷と呼べるような跡がはなく、それでいて深く染み付いて痛みを残す。
そんな拭い去れぬもの、染み付いたもの、自分の負の部分がこの部屋の中には多過ぎることに、斉場少年の気は滅入る。
―――だったら、ここには居たくない。
無音の圧力に息苦しくなった斉場少年は、テーブルの上の紙幣を乱暴に掴み取ると、振り返りもせず家をあとにした。
―――けれども、他に宛もない。
勢いに任せて逃げるように表へと飛び出してしまった斉場少年だが、すぐにその足取りは勢いを失って彷徨うこととなる。
これからどうしようかと思っても、ゲーセンに行くのもカラオケに行くのも一人では持て余してしまう。
―――かと言って、家に帰っても。
トボトボとブラブラと、流れに身を任せる木の葉のように、往来を漂流する斉場少年は、池袋郵便局前の交差点へと流れ着く。
そして、ふと顔を上げた斉場少年は、吸い寄せられるように、一棟の歴史を感じさせるビルディングへと足が向く。
そのビルディングの中からはゲームセンターの電子音と喝采が表まで響いてきており、随分と賑わっているようにも見える。
そして、壁のガラスウィンドウにはA1サイズのポスターがズラリと張り出されており、柱の近くにはチケット売り場が設けられ、売り子が静かにこちらを見つめている。
「そうだ、映画を見よう」
何の因果か運命か、斉場少年が図らずもやって来たのは『ロサ会館』である。
池袋は知る人ぞ知る映画の町である。
駅の東西にその数は6館。昭和の全盛期に比べれば数は減ってはいるものの、シネコン化が進む現代に於いて一駅周辺、それも東京でこれだけの数の劇場が乱立するのはとても珍しいことである。
昭和の後半から大小さまざまな劇場が、駅の東西に立ち並び、人気の洋画からニッチな邦画。中には子供の入れないポルノ映画まで、それぞれの映画館が特色を持って映画を上映している。
そして、この『ロサ会館』もその一つ。それどころか老舗の部類に入るほど歴史の長い映画館である。
池袋の西口。そこに既に半世紀以上も居を構え、娯楽の殿堂として長年親しまれてきた『ロサ会館』。
見た目は確かに古くはあるが、時間を潰すには十二分。今の斉場少年にはおあつらえ向きの場所である。
―――昼食はターローメンを食べたのでイイですし、だったら半分ほど使っても大丈夫ですね。
ポケットに丸めた食事代から入場料を支払うと、指定した席へと座る斉場少年。
映画が始まる前の予告の時間帯。その薄明るい空間の中で、斉場少年は自分のピケットに入れておいた物を取り出し、広げた。
それは一枚の紙片であった。
特に珍しくも無いA4のコピー用紙。そこにはズラズラと細かい文言が書かれており、表題には『契約書』の文字が見える。
だが、大方がプリンターで印刷された文字群の中で、右下に手書きの文字が数行だけ有る。
そう、それは人の名前であった。総勢5名分の人名が書かれており、その中に左文字と斉場少年の名前もある。
つまり、斉場少年と左文字を含め、幾人かの間に取り交わされた契約が有る事を、この書類は示すものだった。
―――さて、イッタイどうしたものか?
手に入れてみたものの、扱いに困るこの『契約書』。
昔ならば間髪入れずに破り捨てていただろう。
―――けれども…。
考えあぐねて、どうにもならず、踏ん切りの着かない斉場少年は、『契約書』を再びポケットに戻しただけだった。
丁度その時、上映時間がやって来た。
休日の昼間であれども客の入は疎らなまま。ホールが暗転し銀幕が輝き出す。
特に見たいものでなく、訪れてすぐに見られるものを選んだため、期待はしていなかったが、思いの外、斉場少年は見入ってしまう。
―――そう言えば、ここへはあの人と良く来たものだ。
斉場少年がそれを思い出したのも、例の『契約書』が有った事だろう。
斉場の言うあの人とは、彼の初恋だった。
まるで、幻のようなその人を思い返すたびに、斉場少年の胸は火傷の様にひり付いて苦しくなる。
そして、その人と出会ったのが、この『契約書』を左文字と結ぶ遠因にもなっているのだった。
もう一度あの人に会ってみたい、だが、それは自分の思い出を踏み潰す事にも成ると解っている。
思えば思う程に募る後悔と、止めどない羨望に頭がどうにか成りそうだ。
しかし、思い悩むストレスから体の芯に染み込んでいた眠気が滲み出てきたのだろうか、周りの暗さも相まって、斉場少年はウトウトとしてしまった。
そして、彼はあの頃の出来事を夢見始めた。




