…でも、言いたかったんだ。 3
「でね、おじいちゃんったら、その時そんな風に言ったんですよぉ」
言って、彼女は屈託無く笑う。あったかい家族の話を聞きながら、俺もその一員になったみたいに笑っていた。
動物園、っていう名前のついた喫茶店の中が、変に暖かく感じられたのは、
「馬鹿にされないために、漢字検定も準一級まで頑張ったんだけどさ」
「へえ…すごいなあ」
照れながら言う俺に、素直に目を丸くしてくれる彼女の顔を見ていたからかもしれない。
「そこらへんになると、漢字も何かの記号みたいじゃありません?」
「あはは、ほんと、その通りだよ」
俺はコーヒー、彼女は「コーヒー、飲めないんです」なんて言って、ストレートの紅茶を飲みながら、
(なんてことない話で、こうやって笑ったのって久しぶりかもしれない)
生きていたってつまらない、心のどこかでそんな風にずっと感じてきた頑なな思いが少しずつ溶けていく。
「コーヒー、飲めないんだ?」
白いカップを包む、少し短めの両手の指の白さに目を細めながら言うと、
「はい、飲めません。お母さんが、体に悪いからって、小さい時から飲ませてくれなかったから慣れてないだけだと思うんですけど。だから高校の修学旅行の時なんかは、ホテルの朝食にコーヒーが出てものすごく困りました」
「で、飲んだの?」
「砂糖とミルクをたっぷり入れて。それでもものすごく苦かった」
その時の苦さを思い出したみたいに、彼女は顔をしかめる。
「でも、紅茶だってストレートだとそれなりに苦いと思うけど」
「え~? そうですかあ? ぜんぜん違いますよお。あ、でも、確かに紅茶は慣れてるだけなのかな」
(可愛いよな)
カッコつけて自分を飾るるのが慣れっこになってる、俺の周りにいたヤツらには見られないその反応が面白い。
(俺の言葉に5倍以上で返してくる、おしゃべりで、無邪気で)
「子供だよな」
だから、ついからかいたくなって、
「ええ?」
なんて目を丸くする彼女に俺は言うのだ。
「コーヒー、ブラックで飲めないなんて、子供だね」
一つしか年下じゃない女性を…好きな子をからかうなんて、小学生みたいだと思ったけど、
「あ、ひどいなあ。でも…やっぱり、ブラックで飲めたほうがいいんでしょうか?」
逆に心配そうに尋ね返してくる彼女に、とうとう吹き出してしまった。
…なんて、『なんてことない』幸せな時間。
「とか言って実は俺も、コーヒーをブラックで飲んで美味いと思えるようになったのはつい最近なんだ。それまではカッコつけでブラックにしてただけで」
「ヒドい!」
ぷーっと頬を膨らませた彼女に、俺は笑いながら「ごめんごめん」と謝った。
「お詫びと言ったらなんだけど、君さえ良ければ、またどこかへ連れてってあげるからさ。機嫌、直してよ」
「…じゃあ、今度は海」
すると、頬を膨らませたまま、彼女は言う。
「海? 冬の?」
「はい、冬の海。というよりも、海ならいつでもいいんですけど」
俺が尋ね返すと、彼女は頷いた次の瞬間、
「向こうの大学に通っていたときは、毎日海へ行っていたんです。漁船が浮かんでる海を見るのが大好きで。ぼーっと見ているだけでも楽しいから。今はちょっと実験で忙しいんですけど」
頬を膨らませるのをやめた彼女が大きな口を開けてケーキをその中へ放り込んで、もぐもぐとそれを咀嚼しながら、
「だから、出かけられるのはやっぱり春先かなって」
それこそ、「なんてことない」みたいに笑う。
(ああ、そっか)
そこで改めて、俺と彼女との間にある「世界」を思った。
二十五にもなって、今更「大検」でもないだろうと、ハナっから諦めてる俺にはやっぱり縁の無い世界に彼女はいて、だからこそそんな彼女に俺も憧れて、
「…また、来てよね。俺、昼間からならいつだって、あそこのガソリンスタンドにいるからさ」
厚かましく、そんな風に言ってしまうのだ。
大きく頷いてくれた彼女をバイクの後ろに乗せて、勤務先のガソリンスタンドヘ帰ってきて、
「ありがとうございました! 楽しかったです」
自分の原付に乗り換えて去っていく彼女を見送って、今日のデートはこれでお終い。
(寂しいな)
まだ暗くなるには時間があるから、国道のカーブを曲がっても彼女の小さな後姿が見える。
そんなことも寂しくてたまらなくて、だけど、
(帰らなきゃ)
寝るためだけにある、俺のワンルーム。明日も出勤だから、嫌でも帰らなきゃいけない。
一人になって、彼女が帰ったのとは違う方向へ歩き始めると、急に寒さが襲ってきた。
ジャンパーのポケットに思わず手を突っ込むと、指先に感じる固い感触。内ポケットの方に入れたスマホの感触。そこには、彼女の連絡先が入ってる。
(少しでも)
彼女を感じていたい。改めて内ポケットの方に手を突っ込んで、スマホを取り出し、彼女のアドレスを表示させる。
(そうだ。メールなら)
原付で帰ったから、ケータイへ電話するのは迷惑だろう。だけど、それなら後でも見てもらえる。寒さでかじかむ手で「俺も楽しかった。今日はありがとう」ただその二言を打ち込んで送信する。
(おいおい、大丈夫かよ)
こんな普通のことを実行するのに…だけど今までなら、相手の子から連絡が来るまでやろうとしなかった…嬉しくて胸がドキドキして、指が震えてた。間違いなく寒さの所為だけじゃないのが分かる。
それから俺もバイクを走らせて家に帰る。
(電話…鳴ってる)
部屋の扉を開けようとした時、ポケットに入れてるケータイがブーンブーンと振動した。
(綾さん…)
ディスプレイの電話番号は、何度眺めなおしてみても彼女のもので、
「…はい」
「もしもし? 優祐さん?」
出た途端、彼女の声が耳に飛び込んできて、思わず固まってしまった。
「あの、メール、届きました。こっちこそ、今日は本当にありがとうございました!」
「いや…あの、別に」
(しっかりしろよ、俺!)
ついさっきまで会っていたはずなのに、どうして電話ごときでこんなにも緊張するんだろう。
「またどこかへ行きましょうね。お休みなさい」
「あ、うん。お休み」
ぼーっとした気分のまま、電話を切って…その途端、また視界がブレて、
(疲れたのかな、やっぱり)
胸も変にドキドキする。おまけに汗も出てきた。彼女に恋してるから、彼女の声を思わぬところで聞いたから、っていうせいでもないのは、いくらなんでも分かる。
(彼女と出かけられるのは、春先か)
だけど、昼間みたいにそれはすぐに治ったから、ただの疲れだと思って俺はそのまま部屋へ入った。
春の海。ただ生きてるだけ、っていう虚しさを紛らわすために、他の女の子とよく行ったカラオケとかじゃなくて、「ただぼーっとするためだけ」に本当に恋した人と行く、海。
(…「すんげえ」楽しみだ)
彼女が大学のことを、特に俺に気遣う様子もなく、ごく当たり前みたいに話してくれることも嬉しい。
何よりもまた、明日からもガソリンスタンドにいさえすれば、彼女に会える。
本当に幸せで、楽しい気分になりながら、俺はベッドへ潜り込んで目を閉じた。
なのに……
明かりを消すと、だけどたちまち暗闇に沈んだ部屋の中で、
『不釣合いなカップルよねえ』
『あのよさそうな女の子、騙されてるんじゃないの?』
昼間の中年女の会話も蘇ってくる。
すると、またそんな弱気が頭をもたげて、一気に胸が苦しくなった。
(俺なんかが彼女の側にいていいのか)
…彼女に会いたい。いつだって側にいたい。彼女さえ側にいたら、俺の抱いてるくだらないコンプレックスなんて吹っ飛んでしまうのに。
(思い出すな、思い出すな!)
枕に後ろ頭を擦り付けるみたいにして首を振って、俺は急いでその弱気を追い出したのだ。
それからというもの、
(あ…また、だ)
今日も彼女は「こんばんは!」なんて言いながら、ガソリンスタンドへやってくる。
笑顔でその側に駆け寄りながら、なのに俺は彼女の姿を見るたびに起こる眩暈と胸の動悸に悩まされるようになった。
「…疲れてるんじゃないですか? 一度病院とかで診てもらったほうが」
二月の半ば、自分で作ったのだというチョコレートを渡してくれながら、彼女も心配そうに言うようになって、
「大丈夫だよ」
だけど俺は笑って首を振る。
だって、この「症状」はすぐに治まる。病院へ行くにしたって、そんなんじゃ原因不明で帰されるのがオチだから。
「一日ぐっすり眠ったら回復してる、そんなもんなんだよ。風邪薬だって飲んでるし」
だから俺は、毎日そんな嘘を言って彼女を安心させるのだ。
そう、これだって風邪とか疲れとか、一時的なもの。仕事が無い日にぐっすり眠ればすぐ治る。
そう思ってたのに、それは治るどころか時が経つにつれてどんどん酷くなっていく。しまいには彼女がいなくても、
勤務中でも、俺が「自分の部屋」から出るたびに突発的に起こるようになっていった。
それは、だけど気のせいだと思っていた。たまっていた疲れが出ただけなんだって。
(…うわ…なんだ!?)
少しずつ少しずつ暖かくなっていく日差しの中。ホワイトデーのお返しを持ってガソリンスタンドへ出勤しようとしたら、玄関の扉の先にあるマンションの廊下全体がぐにゃぐにゃ揺れ動いていた。
それを見た途端、今までにないほどの強さで眩暈と吐き気が襲ってきて、俺は慌てて部屋の中へもう一度駆け込み、トイレでえずいた。
しばらくして、恐る恐る廊下へ出たら、もう何ともない。
(…行かなきゃ)
少しだけふらつく足で、地面をしっかり踏みしめながら、俺はガソリンスタンドへ向かって歩く。
だって今日は…彼女に「お返し」をしなきゃいけない日だから。
そして彼女と二度目の「デート」をしたのは、彼女が「わ、可愛い!」なんて言って
俺が渡したプリザーブドフラワーを受け取ってくれたホワイトデーの翌日。
いつもみたいに、笑顔の彼女がガソリンスタンドへ来てくれて、嬉しいはずなのに起こる眩暈と吐き気を必死に堪えて、
「どうぞ」
「ありがとうございます」
前みたいにバイクの後ろへ乗るように彼女を促す。お礼を言いながら彼女が乗った途端に、ぐらりと揺れた地面が、
(…怖い)
この時、一瞬だけだけど、初めてそう思った…地震なんかじゃない、これは俺だけが感じる現象。
「…じゃ、行くよ。しっかりつかまっていて」
「はぁい」
けれど、そんなのは彼女と海へいく途中で、いつもみたいにどこかへ消えてしまった。
海に着いたときは、ちょうど昼過ぎくらいで、
「いいですねえ…やっぱり海は、どこでもいい!」
バイクから降りてメットを取るなり、防波堤に駆け寄って叫んだ彼女がとても眩しい。
「降りましょ?」
「…うん」
白い手が、何のためらいも無く俺の袖を引く。途端にきりきり痛む胸を、もう片方の手で彼女が心配しない程度に
なるだけさりげなく抑えながら、彼女と俺は一緒に砂を踏んだ。
全くの「シーズンオフ」だから、人影はほとんどない。まだ風は冷たいけれど、日差しは優しくて、だけど、
「疲れてません? 大丈夫?」
「うん」
彼女が気遣ってくれた途端、眩暈を覚えそうなくらいに地面が揺れて…怖かった。
「腰掛けましょ、ね?」
「平気だよ」
「私が腰掛けたいんです」
彼女は笑って言うけれど、それは俺を気遣ってくれてるんだって嫌でも分かって、そのことに
強い自己嫌悪を覚えた自分も、何故か限り無く嫌になってしまった…我ながらなんて滑稽な無限ループ。
(どうして…彼女はこんなにも優しいのに。普通なら相手にするはずのない俺みたいなのに付き合ってくれているのに)
並んで腰を下ろしたら、彼女が側にいて嬉しいのと苦しいのと両方で、胸がまたギリギリ痛んだ。
「…君は、さ」
腰掛けたら、彼女は不意に黙り込んで、ただ海の向こうを見ている。俺達の上を飛んでいく鳥を見送りながら、俺は、
「将来、やっぱり学者になるの?」
分かりきったことを尋ねる。だけど彼女から返ってきた答えは、
「分かりません」
俺にとってはとても意外なそれだった。
「学者になるには修士と博士、それぞれ二年と三年、過程を終えなければならないんですね」
俺のほうを見ないまま、彼女は話し続ける。
「だけど、修士を終えて…それからどうするのか、私も決めていないんです。なんとなく大学院、っていうところに行ってみたかった。多分このままいけば卒業だってするでしょう。だけど」
そこでふと、彼女は爪先へ視線を落とした。
「実験が上手く行かなくて悩んでるんです。もともと院へ行くのだって、親の希望があったからで…本当に自分がやりたいことって、なんだったんだろうって、今頃思って」
「そう、なんだ」
「こんな風に考えるようになったのは、優祐さんのおかげなんですよ?」
「え…」
「感謝してます。これまでの私、人形みたいだったから」
俺は驚いた。こんなくだらない人生を送ってる俺が、将来を保証されているかもしれない彼女に感謝されるなんて。
「…もしも、俺が」
しばらくして、乾ききった喉から絞り出すように俺は言った。そんな俺の言葉を、
彼女は真剣な眼差しで見つめ返してくる。
「もしも俺が、君のことを好きだって言ったら…これからも、付き合ってくれって言ったら」
…なんてガキみたいな台詞! 言ってみて、穴があったら入りたいような、大声でわめいて逃げ出したいような気分に囚われて、
「あ、あの、もののたとえで」
「…好きですよ」
その言葉を彼女から聞いたとき、涙が溢れそうになった…彼女は微笑ってる。
「…もう一度、言って」
「もう! 照れるからヤですよ」
「お願いだ、もう一度」
寒さのせいばかりじゃなく、頬を真っ赤にした彼女へ、
「もう一度だけでいいから」
俺はまるで犬みたいに懇願した。
すると彼女は俺から少し目をそらして、頬を膨らませて、大きく深呼吸をして、
「…好きです。私、貴方が好きですよ?」
俺を励ますみたいに、俺の目をまっすぐ見て、二度も言ってくれた。
…瞬間、
(抱き締めたい…)
また締め上げられるような胸の痛みと一緒に、鼻の奥が酸っぱくなるくらいにそう思った。
きっと俺みたいにすさんでなくて、男性経験だってきっと無くて綺麗なままで、そんな彼女を抱き締めて、俺を好きだと言ってくれたその唇に思う存分口付けて…。
(…出来ない)
だけど、彼女を汚しちゃいけない。
『不釣合いなカップル』『絶対女の子が騙されてる』
膨れ上がった俺の身勝手な欲望を、その時浮かんだ例の言葉が打ち消す。
それに今は感謝しながら、
「ありがとう」
辛うじてそれだけを、俺は言えた。
もっともっと、他に彼女に伝える言葉は一杯あるだろうに、ただそれだけを告げた瞬間視界が涙でぼやけて、俺は慌てて俯いた。
そんな俺の側に、彼女はただ黙って…日が水平線の向こうに傾きかけても…座っていてくれたんだ。
…TO BE CONTINUED…