ガラスノカケラ 「切なくて」
案の定、
「はぁ~、やっぱりかぁ。でも、なんでよりによってあんなヤツ」
私が話したことへ、もーちゃんは呆れたみたいな答えを返してきた。
地区の英語弁論大会はどんどん近づいてる。期末テストも無事に終わって、後は夏休みだけなのだ。
放課後の教室は、すごく暑い。クラブの始まる前っていう中途半端な時間だから、部室にもまだ私達以外誰も集まっていなくて、
「よりによって、コーコの初恋の相手が性格悪いあのどスケベエだなんて」
「もーちゃん…」
行儀悪く下敷きで顔を仰ぎながら、もーちゃんが続けた言葉に、私も(あんまりだ)なんて思った。
もーちゃんや他の女の子達が言う、「中畑はどスケベ」の根拠は、
「アンタも知ってんでしょ? アイツ、小学校二年のときにお母さん、亡くなってて、そんで、お祖母ちゃんが家のこと、やってんだよねー。うるさく言われないから、えちい本の一冊や二冊、買ってたって分からないらしくて、小学校六年の時からよくウンチク、男子の間で披露してたよ」
と、いうところから来るらしい。
「一応、協力したげる。アンタには、宿題とか手伝ってもらって世話になってっからね。
でも、言っとく」
顧問の新保ちゃんが来る前に、こっちのほうを少しでも勉強しろ、なんて、もーちゃんは私が広げてる英語の教科書に覆い被せるようにして、ファッション誌を置いた。
「アイツには、コーコは勿体無い。フラれるの、覚悟しときな? はい、髪型からとっくり読む!」
「…はいはい」
苦笑いしながらそれでも、もーちゃんが言うようにその雑誌へ目を通して…
(私は別に、中畑の彼女になりたいわけじゃないんだよね)
「アンタには、こういうのも似合うよ。あと、爪磨きしてみ。そんで、シャンプーの種類とか変えてみな」
なんて言うもーちゃんへ頷きながら、
(ただ、側にいたいだけ)
好き、っていう前に『友達』でありたい、そう思っていた。
(どうして私、女なんだろう)
そうも思った。だって中畑と同じ男なら、ずっと側にいられる。
「アイツの好み、アタにもよく分からないけどさぁ。自分のために可愛いくなろうと努力してる女の子にコクられて、悪い気のするオトコはいないからね。だからほら、ちょっと女の子らしくしてみな」
「はぁい」
(正論、だよね)
もーちゃんが言うのは正しい、そう思う。恋をしたから、とかそういうのじゃなくて、女の子なら普段からそういったことに気を遣って当たり前かもしれないし。
それに普通の女の子なら、
(ゲームなんて、あんまり興味ないよね…)
中畑から借りたRPG、まだ全然終わっていない。「分からないところがあったら聞け」、なんて言ってたくせに、最近は私と目があってもぷいっと向こうを向いてしまうし、私が話しかけようとして近づいたら、すっとどこかへ行ってしまったりするから、
(早くクリアして返さなきゃ)
ゲームのスイッチを入れるたび、そんな中畑のことを思い出してすごく辛くなる。やっと見つけたと思えた、普通に話が出来る男友達。それが同級生のあんな、なんでもない一言ですぐに無くなっちゃうなんて…たった二ヶ月の、はかない友情だったなぁ。
だけど、
(フラれてもいいから、言っておかなきゃ)
そうも思う。…私は男の子としての中畑が好きなんだ、ってこと。
「はいはい、だからね、毎朝ちゃんと髪の毛を櫛で解いてツヤを出すとか。そういうところでも女の子っていう意識が出て、かなり違ってくるよ?」
「うん」
もーちゃんの「授業」に頷きながら、そんなことを考えていたら、
「センパーイ、しんぽちゃんが来たよ!」
後輩が教えてくれた。たちまち「ヤバ!」なーんて慌てて、もーちゃんがその雑誌をカバンヘ隠すのを苦笑いしながら見ているうちに、
「はい、お待たせ。弁論組は、いつものメニュー始め! 一年生と他の子たちは文化祭劇の背景、下書き!」
普段は社会の授業担当なのに、なぜか英語部の顧問をやってる新保ちゃんは、扉を開けるなりそう言った。きっちりし過ぎてる先生だから、ちょっとその点での生徒達の評価は辛いけれど、
「あら、後藤さんは? ここのところ、体調を崩してるみたいだったから、お休みかしら?」
自分の担任でもないのに、ちゃんとクラブの一人一人を心配してくれているところでは、皆も感謝しているのだ。
「川崎さん、ちょっと探してきてくれる?」
「はあい」
『弁論組』でも、少し日程には余裕のある私に、新保ちゃんは振り向いて言った。他の子たちは私みたいに終業式直前、なんていうゆっくりした日じゃなくて、もう数日後とか、一週間後とか、そんな風に切羽詰ってるから、
(そういうエコヒイキをしないところも、私は好きだけどなあ)
部室から外へ出ながら、私は思う。悪いんだけど、
(体育のヨネさんなんて、エコヒイキしまくりだもんねえ)
生徒からの評判の悪い先生とつい比べてしまって、少しだけ涼しい廊下の空気を吸い込みながら、まさにその先生が目の前の窓の外を横切ったのに慌てたり。
(どこにいるんだろ。まだ教室かな?)
ミーコちゃんは、二組で、もーちゃんは一組。だからもーちゃんもミーコちゃんがどこにいるか知らないわけだ。とりあえず二階の教室へ行く事にして、少し静かになった階段の踊り場を曲がったら、
「…ごめん。だから、…言うなよ?」
(あれ、金田?)
そんな声が聞こえてきた。そっと手すりの陰から覗いてみたら、
(ミーコちゃんだ)
小学校の時の、私の『悪友』と、ミーコが何やらただならぬ雰囲気を漂わせて、そこにいる。
「ううん、謝らないでよ。知ってたから。…うん、ただ、言っておきたかっただけなんだ。誰にも言わないよ」
「頼む…本当に、ごめん」
そんな会話を聞きながら、私はなぜか、
(ここにいちゃいけない)
そう思ってた。
鈍い私には、その時の二人がどんなことについて話していたのか、本当に全然分からなかったし、第一、人のことにあれこれ首を突っ込むのは私の性に合わない。だから、
「おーい、ミーコ、ミーコちゃーん」
足音を忍ばせて階段の下へ降りて、そこから、いかにも今声をかけました、風に私は叫ぶ。
「声がしたけど、そこにいるの?」
われながら、「コソク」だとは思うけれど、ともかくそんな風に言いながら、今度はわざと足音を立てて階段を上っていったら、
「あ、ごめんごめん! 今、行くよ!」
慌てた風に、この『お人よし』で気の弱い友達は私を見る。ミーコの側にいた金田は、私をちらっと見たきり、そのまま背中を向けて二階の廊下を走っていった。
「新保ちゃんも探してたよ? どこか具合でも悪い?」
「ううん、平気」
私が言うと、ミーコは首を振る。同時に、きっちり結わえた綺麗なお下げも一緒に回って、
(平気なわけ、ないじゃない)
その目が赤い。金田に何を言われたんだろう。
「ほら、行こ? コーコちゃん、弁論大会の練習、大変じゃない。早くしないと」
心配だったから、聞きたい。けれど、その時のミーコには、何だか尋ねちゃいけないような雰囲気が漂っていたから、
「…うん」
私はただ、そんな風に頷いたのだ。
中畑にはシカトされたまま、弁論大会の日はあっという間に来て終わった。
終業式の日、私は英語部の他の『弁論組』の子たちがそうされたように、全校生徒の前で『表彰』されて、そしてそのまま…なんとなく、夏休みは始まった。
皆が喜ぶ夏休みって、なんて退屈なんだろう。やっと七月が終わって、八月になって、
(ガッコに行きたいな)
つまらなかったはずの中学校。私も去年までは夏休みがあるのが本当に嬉しかった。なのに今では、
(行きたい。行って普通に授業を受けて…中畑に会いたいよ)
四十日の夏休み。中畑に会えない夏休みが長くて長すぎて、切ない。せめて普通に授業があれば、中畑に会えるし、中畑の姿だって見ていられるのに。『友達』だから、電話番号だって住所だって交換した。『友達』だから、まだ返せていないゲームで分からないところがあるって、電話で聞いたっていいはず。なのに、
(シカトされちゃったら、電話だってかけ辛いよ。ゲームだって返せない)
こんなにも休みが長く思えたのなんて、生まれて初めてじゃないだろうか。
その日も宿題を終えて、けれど机から離れる気にもなれずに、そのまま机に顎をつけて
ため息をついていたら、
「香子、電話よ。浜田さんから」
お母さんの声が一階からした。
「何って?」
部屋の扉を開けると、途端に暑苦しい空気が私を包む。私の部屋と同じように扉を閉め切って冷房してる、涼しいリビングへ入りながらお母さんへ尋ねたら、
「知らない。何だかとても慌ててたわ。香子さんをお願いします、って」
微笑ましい、っていう風に笑って、お母さんは言った。
「へえ…?」
首をかしげながら、私は受話器を取り上げる。途端に、
「コーコ!? 大変大変」
「あのね、もーちゃん」
もーちゃんの声が耳にガンガン響いて、思わず文句を言い掛けた。
だけど、
「中畑が、さっき救急車に運ばれてった! 私、偶然見ちゃったんだけど!」
「な…ん」
一瞬、言葉を失ってしまった。中畑が? どうして?
「妹の弥生ちゃんとも私、一応知り合いなんだ。だからちょっと捕まえて聞いてみたんだけど、昼ごはんのあとで急に苦しみだしたんだって! 一応、H病院で精密検査して、事と次第によっては、もっと別の病院に移るかもって」
「一体どうして」
私が尋ねたら、
「さあ。食べすぎじゃないの? それか、食中毒とか、似合わない勉強のし過ぎでアタマに来たとか」
…どこか的外れな答えが返ってくる。
「…食中毒? だったら別の病院に移るまでもないんじゃないの?」
「あ、そっか」
もーちゃんって、切羽詰って私に知らせてきてくれた割には変に冷たい。
「ともかく、また何か分かったら、イの一番にアンタに知らせるから! じゃっ!」
電話はそこで切れた。
(イの一番、か…)
…中畑だけじゃなくて、彼の妹とも知り合いなんだって。別にもーちゃんが中畑のこと、全然何とも思ってないって分かりすぎるくらい分かってるのに、胸がちくちくする。過去の中畑と時間を共有したことがある、そのことが羨ましすぎるくらい羨ましくて、妬ましい。
(お見舞い、行ったほうがいい、よね)
そんな風につまらないことで嫉妬している自分自身へ苦笑しながら、私は受話器を置いた。中畑のことなら、多分担任のモモコちゃんからまた、詳しい電話なんかがあるかもしれないし、ひょっとして入院、なんてことになったら、やっぱりお見舞いにだって行きたい。
…だって、『友達』なんだもん。
「はい、皆。夏休みはどうでした?」
少し期待していたんだけれど、モモコちゃんやクラスのほかの誰からも、中畑がどうの、っていう連絡はなかった。
長すぎる八月はようやく終わって、だけどやっぱり新学期も九月一日から何となく始まって、なのに
(中畑)
彼の席には、一学期の時みたいに彼の姿はない。
「皆も聞いていると思うんだけど、中畑君、夏休みから入院しています」
HRしかない始業式。そこでモモコちゃんがまず口にしたのが中畑のこと。
「腎臓を悪くしちゃったのね。命に関わる、とかそういうことじゃないんだけれど、念のためにちゃんと腎臓が機能するまで入院するって。時間があったら、M市の県立H中央病院までお見舞いに行ってあげてね」
そして、ただそれだけの『報告』は終わり。当たり前だけど、大した病気じゃないんならそんなに深刻がる理由もクラスの議題にする理由もないかもしれない。それがちょっと寂しい…他のクラスメイトがそうだったら、ひとかけらの関心も払わないくせに。
(…県立H中央病院か。おもいっきり校区外だよねえ)
モモコちゃんが、他のお知らせのプリントを配ってくる。ぼんやりと考えながら後ろの席の子へそれを回して、
(N駅で降りて、歩いて十分くらい…行けない距離じゃないけれど)
私鉄の沿線。各駅停車しか止まらない中途半端な位置にあるその小さな駅を思い描いて、私は苦笑した。
(行きたいなあ。会って、ちゃんと向き合って話をしたいよ)
あのゲームは、とうとう「なんとなく」返せないままだ。クリアするにはしたし、見るのも辛くなってしまったから、早く返してすっきりしたい。
「はい、休み時間の後は大掃除だからね。よろしくね」
ため息ばかり着いていたHRの時間は終わった。チャイムの音でようやく我に返ったら、
「コーコにしちゃ、艶っぽいため息ついてんじゃん」
「もーちゃん」
私の前の席に遠慮なく座りながら、もーちゃんがニヤニヤしていた。
「お、ちゃんと髪の毛も梳いてるっぽい。爪も…はい、ちゃんと磨いてるし、
毎晩リップもしてるね? 感心感心」
「…何しに来たのよ」
「行くんでしょ。見舞い」
「え…」
私の手を取ってひっくり返したり、私の顔をマジマジ見たりしながら、もーちゃんは真顔に戻って、
「行こうよ。そのつもりなんでしょ。アンタ、夏休みの間にかなり変わったよ。だからさ、中畑だって喜ぶ!」
大きく頷く。ちょっと違うような気もしたけれど、可愛くなったって言われることは嬉しい。
「そ、そうかな? ちょっと可愛くなれた?」
「うん、可愛くなった。アタシが保証する!」
「ありがとう。でもさ」
それと、見舞いに行くっていうのは別の次元の話じゃないかな。
「でも、は、ナシ!」
だけどもーちゃんは、やっぱり真面目な顔で、
「鉄は熱いうちに打て、熱い思いは熱いうちに伝えろ、フラれるなら早いほうがいい、って言うじゃん。どっちにしても、好きって言われて嬉しくないオトコはいないんだよ。たとえ好みの女の子からじゃないにしてもね」
「…」
…励まされてるのか、面白がられてるのか分からない。多分、どっちもなんだろう。
けど、応援してくれているのは純粋に嬉しい。
「今度の日曜」
「ん、日曜?」
「お見舞い、行こうかな」
「っしゃ! 決まった! ミーコにも言っとく」
私が言ったら、もーちゃんのほうが何だかとっても嬉しそうに叫ぶんだ。
「ちょっと待って。もーちゃんやミーコも付いてくるの?」
「ったりまえじゃん」
「なんで?」
顔を引きつらせている私に、
「アンタがフラれた時の、『慰め要員』ってヤツよ。あはははは」
もーちゃんは言って、豪快に笑ったのだった。
そこで十分休憩の終わりを告げるチャイムが鳴って、もーちゃんは自分のクラスへ戻っていく。先生が入れ替わるみたいにして教室へやってきて、掃除開始の号令をかける。
(仕方ないなあ…まあ、いいか。ついてきてくれること自体はありがたいよね)
私の班は、廊下の雑巾がけ担当。たちまち慌しくなる手洗い場へバケツを持っていったら、
「ほら」
先に来ていた金田が、私に気付いて順番を譲ってくれた。
「え、あ、ありがとう。いいの?」
「いい」
ブアイソなのは相変わらずだ。だけど、こんな二言、三言だけの会話がとても懐かしくて、一気に小学六年の頃に戻ったような気がした。
「金田、七組だったっけ」
「そうだよ」
自分のバケツにも水を入れながら、それをぶら下げて同じ方向に戻って行く金田へ、つい話し掛けたら、金田はなんだか怒ったみたいに言った。
「お前、あまり無理して変わるなよ。お前がブリッ子したって全然似合わねえもん」
「…何それ、失礼だよっ。私、ブリッ子なんかじゃないもん!」
ホント、久々に話をしたと思ったらムカつくやつ。先に変わったのはアンタのほうだろう、なんて言いたかったけど、金田はそのまま七組の教室へ入っていってしまって、
(別にどうでもいいや。今は中畑のこと)
私から離れていってしまった人のことなんてどうでもいい、そんな風に考えながら、私は雑巾を絞ったのだ。
(フラれてもいい。フラれるっていうんなら、もうあの時からそうだったんだもん)
話しかけられるどころか、近づきもされなくなってしまったあの日から、私は中畑の友達ですらなくなってしまったのだから。
(ただ、ゲームを返したいだけだもん)
もーちゃんじゃないけれど、本当に、フラれるならフラれるで、早くゲームを返してすっきりしたい…
そりゃフラれるのは想像しただけで怖くて泣きたくなるけれど、さ。
家へ帰って、なるだけ可愛くて小さな紙袋を探して、そして一言メッセージを書ける便箋を買って…、
(怖いような、嬉しいみたいな、変な感じだなぁ)
夏休みの間に終わってしまった、中畑から借りたゲーム。もう二度と借りることもないだろうそれを紙袋へ入れてから、一緒に入れるつもりの小さな一言メッセージの便箋には、
『好きです』
ただその四文字だけを、私は書いた。返事はなくてもいい。フラれてもいい。ただ、それだけを伝えたかったから。
…ただ、好きってことだけを伝えたかった、って、考えたところで、
(ミーコ…金田)
いつかの二人の会話が、雷みたいに私の頭の中に蘇る。
(ひょっとしたら、ミーコは)
恋を知る前の私なら、考えもしなかったし、見ても気付きもしなかったろう事。今頃気付いて、われながら、
(あんまりだ、私。もーちゃんならすぐに気付いた…知ってたかもしれないのに)
あまりの鈍さと、友達甲斐のなさに泣けてきた。どっちにしても、
(日曜日)
早く来て欲しいような、来て欲しくないようなその日は、もう数日後に迫ってる。
「やっほー! 来たよ!」
台風と秋雨前線が同時に近づいてきていたからだろうか、せっかくの日曜日なのに、空はどんよりと曇っていて、時々雨がぱらついていた。
待ち合わせていた最寄のF駅で、
「雨になっちゃったねえ」
「その傘、かわいいね」
先に来ていたミーコとどうでもいいことをおしゃべりしていたところへ、やっともーちゃんも合流して、
「お待た。さ、行こうか!」
「うん」
「フラれて泣いてもいいよ」
「もう、もーちゃんってばそればっか!」
午後二時。三人で笑い合いながら、F駅の階段を上がった。
県立H中央病院。N駅までは大人料金で180円。切符を買って改札を通りかけたところで、
「あ、お餅売ってる。中畑に持ってく?」
「…腎臓悪いんだったら、あんなの食べられないんじゃない? 病院がキビシーと思うけど」
そこにあった簡易スタンドでみたらし団子とかお花見団子とかを売っていた。それに目を留めて、ミーコともーちゃんが話し合ってることを聞きながら、私の胸は早鐘を打ち始めた。
連絡も何もしていないから、中畑はきっと驚くだろう。そしてまた、無視するに違いない。だけど、
(勇気を出さなきゃ。これ、渡したらすぐ帰るからって)
やってきた各駅停車に乗り込んで、
「コーコ、ガチガチ! もっとリラックスしな!」
もーちゃんに思い切り肩を叩かれても、痛いとすら思えなかった。
窓ガラスに映った自分の顔を見ても、ほんとガチガチで、
「ほら、コーコ! 着いたってば!」
N駅に着いたことにすら気付かずに、もーちゃんとミーコに手を引っ張られながら、電車を降りる羽目になったのだ。
その頃には、雨も本格的に「続けて降る」っていう降り方になっていて、お目当ての県立N中央病院は、雨でかすむ景色の中、ぼうっと浮かんで見えた。
「小児科病棟、502号室だって。ほら、エレベーター」
緊張して口も聞けなくなってる私の代わりに、そうやっててきぱき動いてくれるもーちゃんがいるってことが、その時ほどありがたく思えたことはなくて…。
(中畑…やっと会える)
エレベーターから降りて、廊下を歩いて…生まれて初めて、足が震えた。
怖い。怖くてたまらない。
「…頑張って、コーコちゃん」
「大丈夫。アタシらがついてる」
ついに、病室の前に到着してしまった。足がすくんでしまって動けない私へ、左右から小声で二人が励ましてくれて、ようやく私は扉をノックすることが出来たのだ。
「はい」
(中畑!)
中から声がする。久しぶりに聞いた「大好きな人」の声に、ただそれだけで泣きそうになりながら、
「あの…川崎、です」
震える声で、私は言った。
中からは、沈黙しか帰ってこない。これはきっと、『拒否』の意思表示。だけど、ここで引き下がったら、きっとずっともっと…辛い。大きく深呼吸をしてから、ドアノブに手をかけて、私は扉を開く。中のベッドには、
「…元気、だった?」
ずっとずっと話したいと思っていた、パジャマ姿の彼がいた。
私が話しかけると、こっちを向けたままの背中がぴくっと動いて、眼鏡をかけた目がちらっとこっちを見て、でも声は返ってこない。
恐る恐るベッドのそばの机の上へ近づいて、紙袋を載せながら、
「借りてたゲーム、返しに来たんだ。ずっと気になってたから…ごめんね。でも、楽しかったよ」
ありがとう、って言い掛けた途端、
「帰れ! 何しに来た、お前ら! 帰れ!」
窓のほうを見たまま、中畑が叫んだ。
「何で来た! 二度と来るな!」
一瞬にして、足元が崩れ落ちたような気がした。覚悟はしていたはずなのに、
(…あんまりだ…あんまりだよ)
「…ごめん…ごめんね。お体、お大事に」
それ以上はもう言えなくて、ついてきてくれた二人の友達のことも忘れて、私は部屋から駆け出していった。
気が付けばエレベーターの中にいて、
「何アイツ! サイテー!!」
「あの、コーコちゃん、大丈夫?」
私の両隣には、私を支えてくれるように左と右、それぞれの腕を取ってくれている友達がいた。
どうやって病院を出たんだろう。一時的に止んでいたらしい雨はまた降ってきていて、
傘をさしながらN駅へ戻って、
「あんなヤツ、退院してきてもシカトしてやりな! ああ、もう、一発ぐらいぶん殴ってやったらよかった!」
F駅へ帰る、空いていた電車の中で、もーちゃんの「憤懣やるかたない」っていう声だけが響いてる。
「コーコちゃん、でもあの、私、中畑の気持ちもちょっと分かるよ。いきなり女の子にお見舞いに来られたら、やっぱり恥ずかしいかも」
「ミーコ! あんなのの気持ちなんて、考えることないんだよっ!」
「…は、あはは」
何とか私を励まそうとしてくれている二人へ、私は力なく笑った。
「いいんだよ、もーちゃん」
ミーコの言うとおりなのだ。中畑のことが好きで、ただそれを伝えたいっていうのは、私のわがままでしかない。ただそれだけのために、中畑自身の気持ちを思いやりもせずに病院まで行くなんて、こっちの気持ちの一方的な押し付けでしかなかった。
「もーちゃん、ミーコ」
私がぽつんと言うと、二人は黙って私の顔を覗き込む。
「…付き合ってくれて、ありがとう」
ようやくそれだけを言えた途端、涙が溢れてきて、私は慌てて両手で顔を覆った。二人が慌てて私の頭を撫でたり、抱き寄せたりしてくれる。
…午後四時。少し暗くなったF駅に帰ってきても、雨はずっとずっと降り続いていた。
to be continued…