…でも、言いたかったんだ。 5
(さよなら)
その言葉どおり、それから涼しくなって寒くなっても、彼女は二度と俺の前には現れなかった。
昼と夜との区別もつかなくなって、ただ眠っては、腹が減っては起きる、そんな暮らしを繰り返しては、
(…いない)
駐車場へ続く青いカーテンを開けて、昼でも夜でも外を覗く。
(まだまだ寒いな)
ケースワーカーが来て、まともに外に出ることもできないどころか、俺が本当に普通じゃないのを確かめてもらうために無理して外に出ようとして気を失って倒れて床で頭を打って救急車で運ばれた先の病院の精神科で『心身症』の診断が出たおかげで生活保護を受けられることになった。両親は健在でもその両親がどっちもロクでもない生活状況だから支援もできないってのも確認されたらしい。
一年前、彼女からチョコレートをもらったバレンタインもとっくにすぎて、三月半ばになったっていうのに部屋の中はまだまだ寒くて、俺はエアコンのスイッチを入れた。
これだけはと思って、少しずつだけど貯めておいた金で、彼女と『別れて』から買った安物のノートパソコン。
もちろん俺は外に出られないから、配達してもらったんだけど、俺を見た配達員のギョッとした表情が忘れられない。
(荒れたな)
座りながら電源を入れるたび、いつだって俺は思い出して苦笑する。
(…俺の、顔)
起動する前のディスプレイに映る俺の顔は、自分でもぞっとするほどにパサパサで、生気がなくて…、
『貴方にもきっとある、素敵な出会い』
見ているうちに、その文字が浮かび上がる。
最近始めた、怪しげな出会い系サイトのサクラ。女のふりして誘うようなメッセージを返して、下心丸出しのメッセージを送ってくる馬鹿な男共に金を出させるなんていう仕事を細々とやりながら、俺は食いつないでいた。
中卒で不良にしか見えない格好してた時期があって、しかも生活保護まで受けてるってなったら、世間はきっと俺のことを『さっさと死んだほうがいいゴミ』と思ってるだろう。だからせめて生活保護からだけでも脱しようと、今の俺でもできそうなと思って見付けた仕事。
だけど、夏は暑くて冬は寒くて厳しかったガソリンスタンドで働くよりも、嫌でたまらない仕事。
のろのろと指を動かしていたら、ケースワーカーとオフクロから以外は鳴ることもなくなったけど、まだ側に置いていたスマホが突然鳴って、
(メール…)
それは、彼女からのメールが着信したことを告げていた。
…きっと中にあるのは、責められても仕方ない俺への罵詈雑言の羅列。ずっと無視してきたから。
(だけど、それならそれでちゃんと受け止めなきゃ)
とても、とても勇気が要ったけれど、俺はスマホへ恐る恐る手を伸ばして、震える指先でメールを確認する。それができたのは、皮肉にも出会い系サイトのサクラをしてたからかもしれない。吐き気をもよおしそうなくらいバカな男どものバカなメッセージとか、俺がサクラだと気付いたのか送りつけられた脅迫めいたメッセージとかを見慣れたからかもしれない。
でも、それを表示させて、俺は戸惑った。
『お元気ですか? 今でもそこにいますか?』
それで始まる彼女のメールの文面は、ちっとも俺を責めていなくて、まして怒っている風でもなかったから。
『…もしもそこにいるなら、カーテンを開けて、顔を見せてもらえませんか?』
(え…)
続けて読んだ途端、初めて彼女を知った時の…思いつめていたときのとは全然違う…胸のときめきが、一気に俺の胸に蘇ってきた。
(まさか)
失ってしまってからも、日に一度はカーテンを開けて、その姿を探していた駐車場。
慌てて椅子から立ち上がって、俺は目の前の青いそれを一気に引きあける。途端に眩しい春の日差しが部屋の中へ差し込んできて、触れようとして触れられなかった彼女が、あの夏の日と同じようにそこに立って、俺を見て微笑んだ。
外に一歩も出られないせいで気付かなかったけれど、もう桜は咲き始めているらしい。窓の隙間から、どこかその香りのする風が部屋の中へ吹き込んできていて、灰色のレディスーツに身を包んだ彼女は、ゆっくりと窓の側へ近づいてくる。
見つめている俺の前で、その胸のポケットの中から彼女がスマホを取り出す。同時に俺のスマホが鳴って、
「…もしもし」
俺は震える声でそれに出た。
「…綾です。お久しぶりですね」
電話から流れてきたのは、聞きたくてたまらなくて、だけど聞くことを恐れていた彼女の声。
「窓越しでも声は聞こえるけど…だけど、もっとはっきり、貴方の声が聞きたかったから」
「…うん。髪の毛、切ったんだ」
「はい。すっきりしました。友達からも『痩せたね』なんて驚かれちゃって」
長かった明るい栗色の髪の毛は、シャギーが入って驚くほど短くなっていた。少しふっくらしていた彼女の頬が痩せているように見えたのは、彼女が痩せたのは、きっとそのせいだけじゃない。
俺達を隔てるのは、全身が映る薄っぺらい窓ガラス一枚。なのに、
「私、もう一度、向こうの大学へ戻ります」
…なんて、俺達の距離は遠い。
「だから、その前にもう一度、ちゃんとさよならを言いたくて。余計なおせっかいでしょうけど、貴方のことも心配でしたし」
「そんなこと」
嬉しくて寂しくて、受話器片手に涙をぽろぽろ流しながら、俺は首を振った…なんてみっともない、男の癖に。
「…修士課程が終わって、やっぱりこっちの大学は私に合わないって思っちゃって。だから、博士課程は向こうの大学を受けなおしたんです。で、受かったから、またそっちで下宿して通おうって」
「そう、なんだ」
「…貴方は?」
「相変わらず、だよ」
ああ、本当にもう、彼女は俺の側から離れてしまう。
「相変わらず、外には出られない…この部屋の周りなら、なんとか平気になったけどね」
「そうですか…」
行かないで、なんて心の中では言ってるくせに、俺はまた唇を歪めて皮肉っぽく言って、彼女を傷つける。
だけど、もう彼女は泣かなかった。泣かない代わりに寂しそうに笑って、
「…お大事に。お元気で」
受話器から、優しい声が聞こえた。目の前のガラスの向こうで、彼女の唇がそう動いた。
(…待って…!)
俺の、受話器を持っていないほうの手の平が、思わず窓ガラスにくっつく。
彼女の、受話器を持っていないほうの手が、おずおずとそれへ伸びてくる。
(こんなにも、小さかったんだ)
握ることも、触れることさえ恐れていたその白くて綺麗な手が俺のそれと重なった。
その瞬間、
(ああ、俺は)
初めて分かった。彼女に憧れて憧れて…好きだったという以上に、彼女にただ「救い」を求めていたのだということ。
本当なら、男の俺のほうが守ってやらなきゃならない小さな手。なのに、逆に俺は彼女が俺の側にいることを恐れながら、本当はずっとずっと、彼女がその手で助けてくれることをただ願っていたんだ。
だけど、
「…好きだよ」
ケータイへ向かって、彼女の唇を見つめて、俺はそう言わずにいられなかった。
「ありがとうございます。でも」
すると彼女の唇が小さく笑う。
「でも…もう二度と、私へ向かって好きだ、なんて言っちゃダメですよ?」
「…うん」
そして、俺達はどちらからともなく窓ガラスへ唇を寄せた。
ガラス越しの手と、唇の温もり。かすかに伝わってくるような気がするその感覚がたまらなく愛しくて…苦しかった。
やがて、
「…ファーストキス、だったんですよ?」
「…うん」
いたずらっぽく笑って、それから綺麗な涙を一筋、頬へすーっと零して言う彼女へ、俺が頷くと、
「じゃあ」
重ねていた白くて小さな手が離れた。
それきり俺から背中を向けて…一年前の海からの帰りにそうしたようには一度も振り返らずに、彼女はバス停への曲がり角を曲がる。
ロウヒールの茶色い靴が消える瞬間まで見送って、俺は苦笑しながらケータイを握り直した。
いい人を他に見つけろ、なんて言ったくせに未練がましくて、彼女が戻ってきてくれることを期待してる俺が、
(これで最後だから)
心の中で彼女へ詫びながら送ったメールは、
『…でも、言いたかったんだ』
彼女は俺への恨み言なんて、一言も言わなかったけれど、きっとたくさん泣かせてしまったろう。
この上に何をまた、なんて自分で自分をあざ笑いながら、
(でも、言いたかったんだ)
青いカーテンを閉めて、俺は心の中で何度も繰り返していた。『初恋』は実らないって、本当だったんだ。
…今夜はきっと、なんど自慰行為を繰り返しても眠れないに違いない。
そして彼女が去っていってから三年。皮肉なことに、彼女にはっきりと『フられて』一人になって初めて、俺の「症状」は改善し始めた。
それだけの時間はかかったけど、働きながら大検(今は高等学校卒業程度認定試験って言うらしい)も受けて、今では夜間だけど大学へも通っている。
(あ、電車が来てる!)
今日も、これから大学の講義が始まる。遅れないようにとホームへの階段を息せき切って駆け上がったら、
(なんだ、向こうのホームか)
どうやら出発のベルを勘違いしていたらしい。少し拍子抜けしながら、俺は大学方面へ向かう列車が来る側の椅子へ腰掛けた。
暮れかけた春のホームは、ちょうど通勤ラッシュ前で人が多くなり始めていて、向かい側の上り方面にもついさっき着いた列車から、人がたくさん吐き出されてくるのが見える。
なんとなく、ぼんやりとそれを眺めていたら、
(…綾さん)
その中に、懐かしい姿を見つけて、俺は思わず立ち上がった。
(見つけたんだね)
グレーのセーターに、同じような色の折り目正しいズボン、っていう服装の彼女の側には、似たような雰囲気の、俺よりもずっと背の高い男が、彼女を護るみたいに立っていて、何かを笑いながら話し合っている。
それを見ただけですぐに二人が「そういう関係」なんだって分かった。
だけど、
(見ちゃいけないって…)
ためらいながら、俺は彼女から眼を離せない。
そうこうしているうちに、俺の側のホームへ電車がやってくることをアナウンスが告げて、その拍子にふと、彼女がこっちを見た。
いつだって「ちゃんと」欲しくてたまらなかった唇が、「あ」なんていう風に動いて、それからかすかに笑う。
そこへ電車がやってきて、俺は懐からケータイを取り出しながら、それへ乗った。
(今でもメルアド、変わってないといいけど)
そう願いながら、彼女へ送ったメールは、
『…でも、言いたかったんだ』。
彼女が慌ててカバンからケータイを取り出すのが見えて、それからしばらくそれを見つめて…。
(さよなら)
もう一度顔を上げて俺を見た彼女へ、唇だけを動かして俺は言った。
かすかに彼女が笑ったのが見えた瞬間、電車はゆっくりと動き出す。
~FIN