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団地のいたるところに植えられたあじさいの葉は、青々とよく茂り、五月の清潔な朝の陽を浴びて、きらりと光っている。
ゴールデンウィークは、どこにも出かけず、ごろごろと怠惰に過ごした。お姉ちゃんに借りた漫画をひたすら読んだり、寝たり、おやつ食べたり、寝たり。小学生のころまでは、隣の市にある従姉妹の家へ、バスで泊まりに行ったりしていたけど、今はそれも億劫だ。
「あーあ。やっぱり太ったかなあ」
連休明け、ひさびさに制服を着たら、ウエストがこころなしかきつい気がする。中間服は、白いセーラー服。衿だけ紺色で、スカーフはみずいろ。夏は、これが半袖になっただけ。ちなみに冬は紺に白のスカーフ。
「だいじょうぶだよ」
苑子が微笑んで、自分の胸元のスカーフをきゅっと引っ張り、整えた。みずいろのスカーフは、苑子のお気に入り。苑子は、青いものが好きだ。ポーチや手鏡やペンケースや消しゴム、身の回りのこまごました物を、淡いトーンのものから、深い群青まで、あらゆる青で揃えている。
ふたり、連れだって団地を出る。A棟の集合ポストの下で待ち合わせて一緒に登校するのが、小学一年生からの習慣だ。
「楽しかった? 海」
うん、とうなずく苑子。隣県の海辺の街にあるおばあちゃんの家に泊まりに行っていたらしい。
「果歩ちゃんにおみやげ」
渡されたのは、シー・グラス。ガラス片。みずいろで、表面がざらついて、波にもまれて角がまるくなっている。
「きれい。海のかけらみたい」
坂道を下りながら、陽にかざしてみた。おだやかに凪いでいる、晴れた日の海のいろ。
「晴海」
「え?」
苑子が目を見開いた、その反応を見てはじめて、自分がハルの名前をつぶやいていたことに気づく。
「あっ、深いイミはないよ? 晴れた海みたいだなって思ったら、連想がつながっちゃったみたいで。ほら、晴天の晴に、海じゃん?」
「果歩ちゃん」
苑子が、歩を止めた。
「苑子?」
「あの。えっと。確認、なんだけど」
「……ん?」
「果歩ちゃんは、ハルくんのこと、なんとも思ってないの?」
私は苑子のかたちのいいアーモンドアイを、じっと、見つめ返した。苑子の澄んだ瞳の中に、私がいる。私が。
「好き、じゃ。ないの?」
五月の風がそよぐ。
「好き、って。私が? ハルを?」
苑子は深くうなずいた。あまりにも真剣で、思いつめたような苑子の様子に、笑って茶化すこともできない。
私が、ハルを。
「そんなわけない」
そんなわけない。あいつは手のかかる弟みたいな感じだし、ハルだって、私の扱いは雑だし。苑子とちがって、女子として認識されてないし。
「好きじゃない」
もう一度、きっぱりと否定してみせたら、苑子はようやく全身の緊張を解いた。
「そっか。よかった」
花がほころぶように、笑う。
「果歩ちゃんとライバルだなんて、嫌だもん」
「ありえないから安心してよ」
「うん。……でもね。もし、果歩ちゃんも、ハルくんのこと好きだったら、ちゃんと打ち明けてね。私のために果歩ちゃんが我慢するとか、絶対、嫌だから」
「もうっ。だからありえないってば」
しょうがないなと笑って、苑子を小突く。苑子はちろっと舌を出した。
朝のHRと一時間目の間の、十分間読書の時間に、ハルは教室に現れた。遅刻常習者のハルでもさすがに慌てたのか、めずらしく息を切らしている。
客観的に見て、絶対に杉崎くんのほうがいい。クラスの女子にアンケートをとったとしたら、ほぼ全員が、ハルより杉崎くんを選ぶと思う。だけど。苑子みたいに警戒心の強い子は、子どものころから知っているハルを好きになるほうが自然だ。
いわゆる単純接触効果ってやつかな、と思うけど。幼なじみに恋をする、なんて。結局。
目がすべって、本の内容が頭にはいってこない。
と、うしろの席の子に、つん、と背中をつつかれた。ちいさく折りたたんだルーズリーフの切れ端を渡される。開いてみると、真紀からだった。
――今日、部活休みなんだ。一緒にカラオケ行かない?
とある。朝っぱらから、もう放課後の話するんだ。ちょっと笑ってしまった。
いいよ、とだけ書いた紙を、真紀の席まで回してもらう。
二宮さんも一緒に、とは、書かれていなかった。私も、苑子と一緒ならいいよ、とは返事しなかった。
苑子、カラオケ嫌いだし。真紀みたいな、華やかでにぎやかな子たちのことも、苦手だし。たまには私だって、苑子以外の友達と遊んだって構わないと思う。親友以外と遊んじゃいけないだなんて、そんなルールないわけだし。
チャイムが鳴って、私は本を閉じた。
そっと振り返って、ハルの席を見やると、大きなあくびをしていた。
手のかかる弟みたいな、しょうがない奴だけど。ちょっとだけ、羨ましくなることがある。自由気ままな野良猫みたいで。