22
夜が深くなるほどに空気は冷えていった。そっと家を出たのが十一時半。コートにマフラーにニット帽に手袋のフル装備、雨が降ってもいいようにレインブーツを履いて、折り畳み傘も持った。足音を消すように、ゆっくりと階段を降りる。静かだと思った。
藤棚も、ブランコも、逆さすり鉢のすべり台も。沈黙している。夏の夜にはもっと、生き物の息遣いが潜んでいた。だけど今は、何もかも。しん、と、静まり返っている。
団地の敷地を出る。道路を通る車のすがたはなく、外灯がぼんやりと光っているだけだ。
手袋をしていても指先はじんじんと痛い。息吹が丘公園を突っ切り、神社の森へ。常緑樹と落葉樹の入り混じった雑木林、闇は冷たく、氷のようで、懐中電灯の光だけを頼りに、古びた石段をひとつひとつ踏みしめながら登っていく。
初めて夜のほたる池へ行ったのは十三歳の初夏。苑子の生まれてこなかった弟に会いに、ハルと三人で歩いた。半信半疑とすら言えない。もう、ほとんど冷やかしだった。大人たちを出し抜いて小さな冒険をしてみたかっただけなのかもしれない。少なくとも、私は。ハルと苑子は、それぞれ、もっと違った何かを抱えていたのかもしれないけれど。
苑子を亡くしてからも、何度も訪れた。ただただ、何かに縋りたかった。事故の現場には足が竦んで近づけなかったし、三年経った今でも直視できずに避けてしまうほどで、お墓も物理的に離れていて。怪しい噂のある、思い出のほたる池しか、行き場のない想いを持って行ける場所がなかったのだ。
今は。……今は。
小さな社の横の、楠が揺れる。楠は冬には葉を落とさない。春、新しい葉と入れ替わるようにして古い葉を落とすのだ。
裏の山道を下っていく。今までここに来た、どの新月の夜より、今夜の闇は深いけれど。怖くはない。ただひたすらに歩を進めるだけ。
水の流れる音が近づく。十三歳の春の夜は、闇の中のそこここに、命の気配が満ちていた。今は冬、生き物が死に、残ったものは眠り、ひたすらに耐える冬。
小さな泉は凪いでいる。静かに見えるけど、奥から絶えず水が湧き出ている。あたりには私が持ってきた電灯の小さな光しかない。月は最初からないし、厚い雲のせいで冬の星座も隠れている。
ひたすらに歩き続けたせいでからだはぬくもっていた。吐く息が白く浮かんだ。腕時計を見ると、短針と長針が重なるまで、あとわずか。
転がっていく青い傘の夢を繰り返し見た。苑子の気配が濃密に漂うだけで、苑子自身は、現れることはなかった。夢の中でさえ会えなかった。やっと振り向いてくれたのに、声は聴かせてくれなかった、だけど。
――あいにきて。
苑子がそう言った気がしたのは。
たんなる、私の願望だろうか。
午前零時。
泉は変わらない。静けさの中に水音が響くのみで、雲の切れ目から光が射すこともない。
三年前は、蛍がいた。苑子が蛍を見つけた。
綺麗だった。蛍の明滅する光に照らされる苑子の横顔。私の記憶の中で、青白い光を浴びた苑子は、どんどん美しさを増し、今では神々しさすらまとっている。
ゆっくりと、首を横に振った。
あの頃の苑子に会いたい。毎日学校帰りにオガワで買い食いして、団地のベンチやブランコでくだらないおしゃべりをして、私の家でだらだらとドラマの再放送を観たりなんかしていた、あの頃。
時が止まったような静けさの中で、私は、いつまでも待った。
本当は知っているくせに。
「あっちの世界」なんてないことを、知っているくせに。それでも、もう一度、苑子と話ができると信じてしまった。
頬に冷たいものが落ちる。
雪、だ。
暗く濁った空から。ふわり、ふわりと、雪は舞い降りた。
「苑子、ごめんね」
体が冷えていく。芯まで、冷えていく。指先は凍てついたように痛い。ブーツの中のつま先も。ニット帽からはみ出た耳たぶも。じんじんと痛む。
つぎつぎに雪は降ってくる。
「苑子。嘘ついてごめんね」
知っている。もう、自分の心の中にしか苑子は存在しない。夢に出てきた苑子も、会いに来てと言った苑子も、「私の中にいる苑子」だ。
苑子は琥珀の虫じゃない。いつか、ハルが言っていた。
きっと私の中に住んでいる苑子も変わっていったのだ。私が変わったから。
苑子の死に、最後に私がはなったひどい言葉に、苑子を傷つけた事実に、ずっと目を背けてきた。だけどもう、逃げるのは終わりにする。
言えなくてごめんね。私もハルが好きだった。今も。あの頃より、もっと強く。
「生きているのは、私だから。決めたの、私がハルのそばにいる」
初雪。白く清らかな、儚い結晶は。泉に吸い込まれて消えていく。
「苑子が好きだよ。一緒にいられて幸せだった」
ずっと、ずーっと、よろしくね。
苑子の丸っこい字。ずっと、ずーっと、一緒にいたかった。
だけど、もう、縛られない。最低な私だけど、好きな人を守りたい。ハルを。守りたい。
「私が。ハルのそばにいる」
立ちすくむ私のからだは冷たく凍っているのに。頬を伝う涙だけが熱い。
溶かしていく。私を。
「ばいばい、苑子」
私は静かに泣いた。
親友には、もう二度と会えない。
どれぐらい、そうしていただろう。泉をあとにして歩きはじめた私の、髪にも、肩にも、うっすらと雪が積もっていた。
――果歩ちゃん。
木々の中の小路に足を踏み入れた時。ふいに、懐かしい、やわらかな声が耳の奥で響いて。はっと振り返った。
小さな、青白い光が、ひと粒。水面近くをふわふわと漂っている。
「苑子?」
私がつぶやくと、まるで「そうだ」と言わんばかりに青白い光はゆっくりと明滅し、それが合図であったかのように、水面から無数の光の粒が、一斉にふわりと飛び上がる。
蛍が。
降りしきる雪の中を、蛍が舞っている。
心臓が早鐘を打ち始める。私は、転げるように駆けて泉の際に戻った。
足が、小刻みに震えている。
「苑子。苑子……!」
親友の名を呼んだ。私を呼んだなつかしい声に、応えるように。
泉からあふれ出した光たちが、すぐに滲んでぼやけていく。せっかく泣き止んだのに、また涙がこみ上げてしまったから。
目を閉じて、きゅっと、手で涙をぬぐう。それは、ほんの一瞬のことだったのに。
ふたたび目を開けた時にはもう、光は消えていた。
ほんの小さな蛍の光の粒でさえも、見つけられない。
音もなく。光の残像も、わずかな空気の揺れすらもなく。
ただ、雪だけが。降っていた。
次回、ラストです




