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明日は強い寒気が流れ込み、一気に気温が下がるでしょう、と。テレビの気象予報士が告げている。週末から天気もぐずつき、ところによっては初雪が降るでしょう、と。
湯冷めしないうちに寝ようと、自室へ戻る。いつもより一時間早めに目覚ましアラームをセットする。明日から、ハルの分のお弁当も作ると決めた。頑張って、手を抜かずに。栄養のあるおかずを作る。千尋さんが退院しても、副作用できついだろうし、ハルだってきっと今以上に大変になる。私も力になりたい。
苑子。ハルを、千尋さんを、守って。
机の引き出しを開け、宝物を貯めていたクッキーの缶を取り出す。そっと蓋を開けた。幼い私と苑子が顔を寄せ合って笑っている写真。小学校の入学式の写真。遠足。修学旅行。卒業式。中学の、入学式。いつもふたりは一緒だった。いつも隣に、苑子がいた。
たくさんの手紙。ひとつひとつ、読み返す。一番新しいのは、中二の、春のもの。
――果歩ちゃんと一緒のクラスで、ほんとに幸せ! ずっとずーっと、よろしくね!
丸っこくてちまちました、だけど整った几帳面な字で。そう書いてあった。
シー・グラスが、ころんと転がる。晴れた日の海の色をした硝子。
取り出して見つめるたびに胸が締め付けられていた。でも、今は。
小さなかけらを手のひらで包んで、目を閉じる。
苑子。
つぎの新月は、今週末。必ず私は、会いに行く。
そして、翌朝。
E棟の階段下、集合ポストの横、冷たいコンクリの壁にもたれかかった。凍りつくような朝の空気に、指定コートの前を合わせる。ぐるぐる巻きにしたマフラーに顎を埋め、ハルを待った。やがて階段を降りる足音が響いて来て、私は背すじを伸ばした。現れたハルに、さっと、弁当の包みを押し付ける。ハルはきょとんと目を丸め、それから、「俺に?」と、聞いた。
「あんた以外に誰がいるわけ?」
「でも」
「料理部に入った割にちっとも上達してなくて残念って思うかもだけど。あまりにもまずかったら食べなくていいから。あんたがいつもろくなもの食べてないのが気になっただけだから。ていうか自分のを作るついでだから」
「なにも、そんなに早口で捲し立てなくても」
ハルが笑いを堪えている。
「ありがとう、果歩。大事に頂きます」
ハルはぺこんと頭を下げた。そんなにきちんとお礼を言われたら、調子が狂ってしまう。私は「また学校で」と言い捨てて、駐輪場まで走った。
立ち並ぶけやきはすっかり落葉してしまい、裸の枝を冬空にさらしている。籠に荷物を置き、手袋をはめて自転車のスタンドを起こす。と、ハルが駆け寄って来た。
「一緒に行こう」
「…………いいけど」
ふたり、並んで自転車を押して、団地の敷地を出る。
長い坂道をすべり降りていく。切り裂く空気が冷たくて顔が痺れる。目の前にハルの背中があった。短い黒髪が風を受けて靡いている。あの頃とは違う、もう私は、ハルの髪の感触を知っている。背中の大きさも、腕の力の強さも、手のぬくもりも。一生、知ることはないと思っていたのに。
苑子。ごめんね。だけど私は。
予定通り、千尋さんは最初の投薬を終え、その翌日には退院した。仕事は、治療に専念する為に、長期休暇を取っているらしい。強い薬は、三週間ほどのインターバルを設けて、何度も投与されるのだという。
「副作用とか、効き方とか。人によって程度が違うらしいんだ。まだ始まったばかりだし、どうなるのか手探りだな。おふくろは心配しなくていいって言ってるけど、どう見てもきつそうで。そのくせ、全部ひとりでしょい込んで強がるんだよ」
淡々と話すハルのため息が、白く浮かんだ。
「私も、できれば力になりたい。何でも言ってよ? まずいごはんを作るぐらいしか、できることはないかもしれないけど」
「まずくねーよ。美味かった」
夜、弁当箱を返しにうちに来たハルと、通路で立ち話をしていた。学校でそのまま返してもらって構わないのに、わざわざきっちり綺麗に洗って返してくれる。
外はひどく寒くて体が小刻みに震えるけど、私の家族に、会話を聞かれたくなかった。
ここから。遠く、光のともった夜の街並が見渡せる。星のように、あまたある窓の光、その瞬き。あの光の数だけ、人生がある。私の知らない、まだ出会っていない、もしかしたら一生すれ違うことはないかもしれない人たちの、物語が。
月のない空には厚い雲が広がっていて、今にも降り出しそうだ。無数の物語を包み込む暗い雲。晴れた日ばかりではないのだ。だけど、雨はきっと、いつか止む。無理やりにでもそう信じていないと、どこへも進めない。
「じゃ。そろそろ戻るね」
小さく手を振った。ハルの頬が、寒さのせいで真っ赤に染まっている。風邪をひいたらいけない。
「……果歩」
「なに?」
「言いそびれてたけど。俺も、さ。好きだよ、果歩のこと」
ハルは後頭部をわしわしと掻いて、惚けている私をそのままに、じゃな、と、踵を返した。




