20
ベランダの手すりにもたれて、晴れ渡る空を見ていた。陽は射しているけど空気は冷たく、時折吹く風が頬を刺して痛い。
「さむいよ果歩ー。教室戻ろうよ。顔面パリッパリになりそう」
亜美がかたかたと震えながら私に身を寄せた。
「でも、中、臭いし」
まあ確かに、と亜美は苦笑いする。
今日の昼休みは、男子数人がカップ麺を食べていたせいで、教室にニンニクの匂いが充満している。ハルは購買のパンをもそもそと食べていた。朝も昼も夜も、まともなものなんて、食べていないのかもしれないし、食べる気にもなれないのかもしれない。
亜美が自分のポケットからキャラメルの箱を取り出した。一粒、私に投げる。
「ありがと」
「ん。疲れた時には甘いモノだよ。悩みすぎて頭に糖分が回ってないんじゃないの」
「疲れた顔してた?」
「すっごく」
キャラメルの包み紙をむいて、口に放る。優しく溶けるその甘さが、じんわりと沁みていく。
「亜美はいい子だよね。まっすぐで、正しい」
つぶやいた私に、亜美はきょとんと目を丸め、そして、私の頭を撫でた。
「果歩は放っておけないんだよなー。いきなりぽきっと折れそうなとこがあって。理一先輩もそれで気になってたんだと思うよ、最初は」
別れたんでしょ、と、亜美は続ける。
「どうして知ってるの」
「先輩に愚痴られた。めちゃくちゃショック受けてたよ? 精いっぱい励ましといたから」
それにさ、と。亜美は声を潜めた。
「果歩、最近部活来てないじゃん。あのね、みーんな知ってるよ」
「…………」
「覚悟しておいたほうがいいかもね。密かに先輩に憧れてた子、結構いるから。果歩、かなり悪く言われてる」
どうする? 部活辞める? と、聞かれて、私は首を横に振った。
「私が悪いのは、その通りだから。逃げないで受け止める」
あんなに私のことを想ってくれていた人に、私は。ナイフを投げつけて、ずたずたに裂いたのだ。
「私ね、どうしようもないんだ。いつも同じ間違いをする」
――果歩ちゃんも好きなら、ちゃんと言ってね。
三年前。苑子にそう言われた時、素直に認めて、きちんと話していればよかった。ハルが苑子のことを選ぶとわかっていても、それでも。
あの時の、私の頑なな態度が。すべてを狂わせた。
苑子を亡くしても、なお燻り続けた灯が、憎くて、だけど消せなくて、消せないくせに、見ないふりした。
同じ人を好きになったことがいけなかったんじゃない。本当の気持ちを、認めなかったこと。苑子に伝えなかったことが、私の過ちだったのだ。
「間違えない人なんていないでしょ」
そう言った亜美の、短い髪が。冬の風に煽られて揺れた。
エレベーターを降りると、消毒液のような、薬剤のような、病院特有の匂いに包まれる。
私もハルもずっと無言だった。放課後、バイトが休みだというハルと一緒にバスに乗り、千尋さんの病院に来た。ほどよく暖房の効いた午後の院内はぬるいお湯の中にいるみたいで、すれ違う看護師さんたちもにこやかで、まったりとした空気に包まれていた。
四人部屋の右奥、窓側のベッドで千尋さんは横になっている。隣の患者さんのスペースとはカーテンつきの衝立で仕切られている。起こしてはいけないと、私たちは静かに近寄ったのに、千尋さんはすぐに気づいて身を起こそうとした。
「あっ、いいんです、そのまま、横になっててください」
「いいのいいの。昼寝してただけだし。果歩ちゃん」
ハルがすぐにベッドのリモコンを操作し、少し起こした。
「来てくれて嬉しい。ありがとう」
「聞きました、ハルに」
そう、と、千尋さんはそっとつぶやくと、ハルに、売店で適当に何か買ってきて、と頼んだ。座って、と促されて、そばの丸椅子に腰かける。
「あの。気晴らしになればいいなって、これ」
緑を育てるのが好きな千尋さんのために、ガーデニングの雑誌と、植物の写真集。
「ありがとう。気を使わせちゃってごめんね。明日薬を入れて、何もなければ、明後日退院予定なんだ」
「そうなんですか」
ハルは、なにも言っていなかった。雑誌をぱらぱらめくって、千尋さんは目を細める。
ブラインドの半分開いた窓から、やわらかな午後の陽が差し込んでいる。ここは七階で、今日は晴れているから、街並や、遠く、私たちの団地のある高台の緑もよく見えた。
「大丈夫よ、果歩ちゃん。そんなに深刻な顔しないで。私、別に死ぬわけじゃないから」
死ぬ、という言葉に。心臓がひやりとした。本当に、さらりと千尋さんは口にした。
「ステージⅣから治療開始して寛解した患者さんだっているし、何年もずっと病気と共存している患者さんだっているし。私だってきっと頑張れる」
微笑んだ千尋さんの、短い髪が、冬の陽に縁取られて光っているように見えた。お見舞いに来た私が、逆に励まされて、どうするのだろう。
「どうしてそんなに強いんですか」
治療が過酷なものだということを、私だって知っている。千尋さんが髪を切った理由もわかる。看護師である彼女は色んな患者さんを見てきた。その苦しみも。助かった人も、そうでない人のことも。知っているからこそ、怖い筈なのに。
千尋さんは、私の手を取って、きゅっと力を込めた。
「強くない強くない。病気がわかって、揺れに揺れたし。医療に携わっているくせに、自分だけは、何故か平気だっていう、妙な自信があったのね。それが打ち砕かれて、目の前が真っ暗になった。怖くて、……怖くて。だけど、もう、しょうがないって切り替えるしかないじゃない。それに」
にいっと、笑った。
「果歩ちゃんにかっこ悪いとこ見せたくないしさ」
ふいに、千尋さんが病室の入口に視線をやった。振り返ってみると、売店のビニール袋を提げたハルが、所在なさげに立っていた。こちらに近寄っていいものか、迷っているみたいだ。
「生きたい」
ぽつりと、千尋さんが零した。
生きたい。その言葉が。その一滴が。私の中に、深く、深く、沈んでいく。
陽が落ちて。帰りのバスに揺られる。隣の座席に座ったハルは、車窓の外を流れる景色をぼんやり眺めながら、「親父に会ったんだよ」と、口にした。
「おふくろに言われた。自分がもし死んでも、進学はあきらめるな、って。好きな道に進みなさい、何かあったらお父さんに相談しなさい、私が言うのもなんだけどそんなに悪い人じゃないんだよ、あんたの父親なんだから、って」
その次の日に親父から連絡がきたんだ、と。
私に「希望」を語っていた千尋さんは、自分が逝ってしまった場合のことも考えていた。
「治療にも金がかかるし。どっちにしたって、俺は、バイトもして、奨学金とったり授業料免除申請したりとかいろんな手を使って、できるだけ自力で学校に行こうと考えてる」
暖房で曇った窓のガラスを、ハルは乱暴に指で拭った。夜の闇を縫うように走るバス。
「ガキの頃から時々考えててさ。もし、おふくろがいなくなったら、俺はどうなるんだろう、って。爺ちゃんも婆ちゃんもいない。叔母さんも自分の家庭があるし、親父にだって新しい家族がある。俺は、正真正銘、ひとりきりになるんだ、って」
いつも降りる停留所の名がアナウンスされた。誰かが押したみたいで、ピンポン、と、座席横のボタンが赤く光る。
ハルの手を握った。
「私がいる」
ハルは何も答えない。
「私はずっとハルのそばにいる」
「ずっとなんてありえない。苑子は死んだ。おふくろも病気になった。みんな、みんな、いなくなる」
「いなくならない。絶対、消えない。そばにいる」
「果歩まで俺より先にいなくなるのは耐えられない」
「いなくならないって言ってるじゃない。ハルのわからずや」
わかっている。絶対なんてない。ずっと続くものはない。私だってわかっている。それでも。言いたい。言いたい。
ゆっくりと、バスが停車した。まだ七時なのに真っ暗だ。ステップを降りて、夜に包まれた坂道を登っていく。立ち並ぶ古い家やお店の灯りが闇の中で冴え冴えと光っている。ひどく寒くて、マフラーをきつく巻きなおす。
ハルは何も言わずに私の手をとった。そのまま。つないだまま、歩いて行く。
ふたりぶんの、白い息が。生まれては消え、生まれては消え。
「千尋さんね、生きたいって言ってた。ハルのためだよ。ハルが、千尋さんの、生きる理由なんだよ」
「そっか。……俺が。支えなきゃいけないのに。情けないな、いつまでもガキみたいで」
私はハルに身を寄せた。つないだ手の温かさだけが。ぬくもりだけが。今は。
道しるべだ。




