19
雨が浴室の窓ガラスを叩いている。止まないどころか、激しさを増すばかり。
私は、自宅に戻って、温かいお湯に浸かっていた。母は二日酔いで寝ている。ハルは今日も病院へ行くと言っていた。
あのあと、ハルが詳しい話をしてくれた。
術後の回復を待ってから、化学療法に入るらしい。少しでも病巣を小さくして、手術できる状態へ持っていくのだという。これから、長く苦しい闘いが始まる。千尋さんの実家は隣の市で、そう遠くはない。お祖父さんとお祖母さんは既に他界し、唯一の身内の、千尋さんの妹――ハルの叔母さんは、来週に一度来てくれることになっているけど、旦那さんのお父さんの介護をしているから、ずっとこちらにかかりきりというわけにはいかないのだそうだ。
狭い浴室のなかで、雨の音が反響している。子どものころ。湯船に浸かったまま、蓋を閉めるのが好きだった。洞窟の中の泉にいるような、胎内にいるような、不思議な気分になったのだ。私は自分の下腹部に手をやった。卵巣はどこだろうと思ったのだ。体の奥深くの、小さな臓器に、たくさんの卵――、これからいのちになるものが、詰まっているだなんて、信じられない。それが変異して、いま千尋さんの体を蝕んでいるだなんて。
苑子じゃなくて私が死ねばよかったと、零した日。甘えないでと叱られた。あの時私は、どれだけ千尋さんを傷つけてしまったのだろう。
苑子を傷つけて、千尋さんを傷つけて。そして、これから、私は理一先輩を傷つける。彼に、本当の気持ちを伝えなければならない。
どうしようもなく馬鹿な自分のことが、嫌でたまらない。だけどもう、逃げ続けるわけにはいかない。
日曜日に、先輩を呼び出した。高校の最寄駅の近くの、小さなビルの一階にあるカフェ。会いたいと言ったら、待ち合わせに、そこを指定されたのだ。先輩が通っている大学受験塾の近所らしい。
雨の勢いは弱まったものの、まだ燻るように降り続いていた。冷たい雨だ。氷のような。
街の至る所でクリスマスソングを耳にする。このカフェでも「ラスト・クリスマス」のオルゴールメロディが流れている。
ミルクティをひと口飲んだ。砂糖を入れたのにまったく甘さを感じない。
ここは、白を基調にした内装に、椅子やテーブルは赤の、ポップな雰囲気のお店で、若い女の子たちで賑わっている。楽しそうに笑いさざめく声が、時折高く響いて、自分がひどく浮いているように感じた。
ドアベルが鳴る。
「ごめん、待った?」
現れた先輩は笑顔だ。コートを脱ぎながら、私の向いに座る。お水を持ってきた店員さんに、珈琲を注文した。
「果歩、なにか食べる?」
黙って、首を横に振る。
「まだ昼メシにはちょっと早いか。このあとどこか行こうか、俺も息抜きしたいし」
「あの」
ん? と、眼鏡の奥の邪気のない瞳が私を捉える。先輩は、今日はいつもより機嫌がいい。終始にこやかで、饒舌だ。
先輩の珈琲がきた。
「俺さ、第一志望、やっとA判定出たんだよ。今までずっと国語が足引っ張ってて。現代文も古文も苦手でさ」
「あの、先輩」
先輩が珈琲のカップを持ち上げる。ひと口飲んで、薄いな、と顔をしかめる。
「クリスマスですけど、私。一緒に、過ごせません」
「まだ遠慮してるの? それか、家族の用事とか……」
「違うんです」
私は顔を上げた。
「別れてほしいんです」
先輩は、まだ、笑んだまま。ゆっくりとカップを降ろす。
「どういうこと?」
「ごめんなさい」
頭を下げた。謝って許してもらえるようなことじゃないと、わかっている。だけど。
「好きなひとが、います……」
振り絞るように、告げる。鼻の奥がつんと痛む。泣いては駄目だ。悪いのは私なのに、ここで泣くのは卑怯だ。
「前からずっと。好きだったんです、その人のこと。諦めたくて、先輩とつき合った」
言葉にすると、なんて安っぽくて薄っぺらくて、……あまりに自分勝手すぎる、私は。
「構わないけど、って言ったら。どうする?」
「……え?」
思いがけない言葉に、顔を上げた。先輩の顔から笑みは消えていたけど、そのかわり、怒りも悲しみも浮かんではいない。なんの感情も見えない。
「薄々気づいていたし、果歩が俺を見ていないこと。だから今合点がいった。諦めたいのなら、俺を利用すればいい。時間をかけて、そいつを忘れて、俺のことを好きになってくれればいい」
いつまでも待つ自信はある、と。先輩は続けた。眼鏡の奥の切れ長の目が私を見据えている。吹き出物ひとつない、透明感のある肌が、みるみるうちに紅潮していって、先輩はこほんと咳払いをひとつし、慌てて珈琲を飲んだ。
「ごめん、さっきの台詞は、さすがに、自分でも恥ずかしい。埋まりたくなる」
わざと茶化すような言い方に、いたたまれなくなって。私は、膝の上に置いた両の拳にぎゅっと力を込めた。
「私、その人の部屋に泊まりました」
「え?」
「おとといの夜です。ひと晩中、一緒にいました」
「それって」
先輩の声が、微かに震えている。握りしめた拳が痛い。だけど。
「それって、つまり……」
私は。こくりと、頷いた。こうするしか、ない。
がたんと、大きな音がして。カップが倒れ、琥珀色の液体がテーブルを流れる。ゆっくりと顔を上げる。先輩が立ち上がっていた。その顔からは血の気が失せていた。私が心ない言葉を投げた、あの時の苑子のように、真っ白な――。
先輩が、手を、振り上げる。
――殴られる。
反射的に顔を背けて、だけど、逃げちゃ駄目だと目を開ける。先輩は、唇をわななかせて、そして、力なく、手を降ろした。
「――帰る」
「…………ごめんなさい」
「もう、顔も見たくない。声も。聞きたくない」
消えてくれ、と。吐き捨てるように告げて、先輩は、私の前から去った。
ドアベルが鳴った。店員さんの足音、女の子たちのはしゃぐ声、オルゴールの奏でるラスト・クリスマス。ゆっくりと、戻ってくる。
ふらりと席を立った。
窓の外を見やると、もう、雨は止んでいた。雲の隙間から、わずかに、青い空が覗いている。青の、欠片。




