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「どうぞ、散らかってて悪いけど」
ぶっきらぼうに言って、ハルが玄関の灯りをつけ、私は、おじゃましますと小さく告げて靴を脱いだ。ハルの家に上がるのは、千尋さんに親子丼を作ってもらった、中学生の時以来だ。
雑然としていた。
もともとは、物が少なくてすっきりした部屋だったのに。リビングには取り込んだばかりの洗濯物が積み置かれ、炬燵には飲みかけのペットボトルや学校のテキストやプリントが散らばっている。
「ごめん、今片づける」
ハルが暖房のスイッチを入れ、まず炬燵周りのモノをどかした。ごみを捨て、テキスト類を重ねてまとめている。
ずっと千尋さんとふたり暮らしだったわけだし、学校ではぼやっとしてるけど、ハルは、家のことを一通りこなせる。料理は私より上手い。ただ、今は。余裕がないのだ。
「手伝うね。ハルは早く着替えておいで。濡れたまんまで寒いでしょ」
私はほとんど濡れていない。ハルがずっと庇ってくれていた。
洗い物が溜っているんじゃないかと思ってキッチンへ行くと、意外にもすっきりしていた。マグカップが流しに置かれているだけ。
「ハル、ちゃんと食べてる?」
「……いや。カップ麺とか、買ってきたサンドイッチとかおにぎりとか、適当に。病院で食ってくることもあるし」
「そっか」
何か適当に作るねと、私はハルに断わってから、冷蔵庫を開けた。何もない。冷凍庫にはうどん玉があったから、茹でて添付のつゆをお湯で溶かしてお椀に盛り付けた。
暫定的に綺麗になった炬燵テーブルにお椀とお箸を置く。することがなくなって、私は炬燵に入った。
パーカとジーンズに着替えたハルが、卓上ポットと、急須と湯呑を持ってきた。黙ってお茶を淹れるハルの瞳は、まだ不安定に揺れている。だけど、ほんの少し。頬に赤みが戻ってきている。
「とりあえず、食べようか。冷めるし」
「……うん」
お互い無言でうどんをすする。音がない状況に耐えかねて、そのへんに転がっていたテレビのリモコンを拾い上げ、電源ボタンを押した。若手芸人たちのネタ見せ番組があっている。隣にいるハルのことを見ないように、ショートコントに集中しようとするけれど、まったく笑えない。ハルも、笑っていない。それでも、薄っぺらい画面から目を離せないでいる。
食べ終えて、ハルがお茶を淹れ直してくれた。湯気の立つお茶をすすると、ふうー、と吐息が漏れる。ハルがぼそりと「ババくせ」とつぶやいた。
「悪かったね」
「だってさ」
いつものハルだ。熱い湯呑を両手で包み込む。張りつめていた空気が少し緩んで、私はいきなり我に返った。ハルに。好きだと告げてしまった。
もう、引き返せない。
ハルはごろりと横になった。
「ダメ人間あるあるだよ、炬燵で寝るの」
いきなり激しくなった鼓動をごまかしたくて、「いつもの感じ」で茶化す。ハルは炬燵布団をかぶって、いいよダメ人間で、と言った。
「風邪ひくよ?」
「別にいい。果歩も横になれば?」
「そんなことしないし。片づけしなきゃだし」
「ガキの頃、うちでよく眠りこけてたじゃん」
「もうガキじゃありませんから」
立ち上がり、食器を流しに運び、洗った。再び戻ってきて布巾で炬燵テーブルの上を拭く。ハルは横になったまま目を閉じている。眠ってしまったのだろうか。
ハルの肩が布団からはみ出している。私はそばに寄って膝をつき、そっと炬燵布団をかけ直した。どうかハルが、嫌な夢を見ずに、ぐっすりと眠れますように。
「そろそろ帰るね。おやすみ」
囁いて、立ち上がろうとしたら。
「……帰るなよ」
ハルの低い声がした。目を、開けている。
「帰るな、果歩。ここに、ずっと」
私を見つめる、その目から、すうっと、涙が流れ落ちた。
「ハル」
ハルは、慌てて寝返りをうち、私に背を向けた。涙を拭っているのかもしれない。
「ハル、こっち向いて」
大きな背中は、何も答えない。
「泣いていいから。泣いたほうがいい。全部、流してしまったほうがいい」
すん、と、鼻をすする音がする。ハル。
「私。帰らないから。今夜、ずっとここにいるから」
ハルのそばに、いるから。
考えるより先だった。私は、ハルの髪に触れて、そして、撫でていた。




