16
月も星もない。雲がすべてを覆っている。いつの間にか日は暮れて、いつの間にか黄昏も過ぎて、ただ、暗いだけ。ここが何処で、今が何時なのかもわからなくなるほどに。
団地へ続くバスが来て、乗り込んだ。車内はすいていて、私たちは二人掛けの座席に隣り合って座った。私は通路側、ハルは窓側。
「どうして、あんなとこにいたの?」
「どうしてだろう。わからない。おふくろの病院に行って、帰る途中だった」
「まさか、病院から歩いてきたの?」
いや、とハルは首を横に振る。
「途中でバスから降りたんだ、人がいっぱいいて、静かじゃないところにいたくなった」
「……そっか」
そっか、としか。言えなかった。きっとハルは、誰もいない暗い家に帰りたくなかったのだ。
窓ガラスに、ハルの横顔が映りこんでいる。何の感情も浮かばない顔。というか、疲れて感情を表すのでさえ億劫であるかのような。
こつん、と、小さな音がする。雨の粒が、ガラスを叩いたのだ。
ハルは傘を持っていなかった。バスを降りて、私の小さな透明ビニール傘に、ふたりで入って、団地までの坂道を登っていく。
ぴったりと身を寄せ合うわけにもいかなくて、ハルは、私が濡れないように傘を傾けてくれていた。濡れても構わないのに、私は。ハルの隣で、自分のからだが熱を持っているのがわかったから。
ハルは何も言わない。私も、何も言えない。
苑子とも、あいあい傘でこの坂を歩いた。苑子の真っ青な傘、本当に、目の覚めるような色だった。いつまでも褪せない色。
ハルはあの頃、どんな気持ちで、苑子とふたりでここを歩いていたのだろう。ふたりが恋人同士でいられた時間は、ほんの僅かだった。
オガワの店先で、部活帰りの中学生が雨宿りをしている。まじかよー、と、声変わりのさなかの男子のしゃがれ声が響く。止む気配なんてないのにはしゃいでいて、何がそんなに楽しいんだろう。私も、苑子を失う前までは、あんな風だったんだろうか。
「懐かしいね、ガチャガチャ」
つぶやいてみると、ハルは、少し笑った。
「昔、ハル、くれたじゃん。私に。直角石。だぶったからって言って。あれね、まだ。持ってるんだよ」
言われなければ化石だなんて気づかない、黒い塊。何となく捨てられなかった。ただの石ではないと知ってしまったから。
ハルは何も答えない。
やがて、あじさい団地に帰り着いた。五つある住棟の、たくさんの窓にはオレンジ色の灯りがともっている。降りしきる雨の中の、強く暖かな光たちを見ていたら。何故か淋しくてたまらなくなった。
ハルに、何があったのか、聞きたい。もっと深く、知りたい。だけど、そうさせない頑なな雰囲気を、ハルは纏っている。
無言のまま、E棟の階段を昇っていく。閉じた傘から雨の雫がしたたり落ちてコンクリに染みをつくった。ひどく寒い。
五階まで来て。いつものように。
ばいばい、またね。と。
告げようとしたのに、言葉が喉の奥に詰まって出てこない。
自分たちは見えない何かに守られていると。明日も必ず会えると。無邪気に信じていたあの頃とは違う。私は。ハルの手を掴んだ。
「何だよ、急に」
ハルの髪も、コートも。雨を浴びて濡れている。今、ここで。さよならを言って、ハルをひとりにしたらいけないと思った。
「ハル、私に話して。何があったのか」
「別に、何もないよ」
「嘘だ。じゃあ何であんなところにいたの」
「気晴らしだよ、単なる」
「気晴らしで、道路に飛び出すの? 最近おかしいよ、ハル。何かあったに決まってる」
一瞬、言葉に詰まったハルは。
「何もないから。構うなよ、俺に」
私の手を振り払う。その力は強くて、弾き飛ばされそうなほどだったけど。踏ん張って、きつくハルを睨んだ。そして、もう一度。ハルのコートの、おなかのあたりの生地を、両手で掴んだ。雨に濡れて、冷たい。
「離せって」
「嫌だ。離さない」
勝手にせりあがってくる涙を、ぐっと飲みこむ。鼻の奥も、胸の奥も、痛い。
「私を。頼ってよ。お願い」
「…………果歩」
「お願い。力になりたいの」
ハルが、好きだから。
気づいたら。言葉が、こぼれ落ちていた。
「ハルが、好き。子どものころから、ずっと」
胸が痛い。どうしても消すことができない。
ハルの胸に、もたれかかるようにして、額をこつんとぶつけた。
理一先輩の笑顔と、苑子の青い傘が、交互によぎる。私は今、最低なことをしている。
ハルが。そっと、私の背中に手を回した。




