15
十二月になって、街は一気にクリスマス仕様になった。
週末の放課後。学校から少し足を伸ばして、路面電車の走る通り沿いの書店に来ている。児童書のコーナーに大きなツリーが置いてあって、プレゼント用にと、冬の絵本が平積みされていた。今私たちがいる参考書の棚にも、雪の結晶のモビールが吊り下げられていて、揺らめいて光っている。
「すみません、問題集選びまでつきあってもらって」
「だから。すぐ謝るのはやめよう?」
先輩は苦笑した。
お店を出ると、街はうす墨を広げたような暗さだった。雲に覆われた空からは、夕暮れの朱い光も射さない。
路面電車がレールを軋ませて走っていく。
午後から雨という予報が出ていたから自転車では来なかった。だけど、まだ降り出す気配はない。
「折角だし。街の方に行って、何か食べてく?」
誘われるがままに頷く。母は飲み会で父は泊まりの出張。一人で食事をとるのは億劫だった。
電停に二人並んで、繁華街方面へ行く電車を待つ。走り去る車のライトが白く光っていた。今日は金曜、午後五時を過ぎて、行きかう人たちは皆、浮き足だっているように見える。こんなに重い雲が垂れこめているというのに。
どこか。取り残されたような気分だった。
「――ないの?」
「え?」
「聞いてた? 果歩、アクセサリーとか興味ないの、って。言ったんだけど」
「あ。えっと、そこまで……」
「ふうん。じゃあ、可愛い雑貨とか、そういうのがいいのかな」
「すみません、話が見えないんですけど」
「クリスマスプレゼントだよ。趣味に合わないものをもらっても、困るだろう?」
それは。先輩が、私のために。贈ってくれる、ということだろうか。
「駄目です、そんな。頂けません」
「つきあい始めて、最初のイベントだし。なにか残るものを、と思ったんだけど」
先輩はかたちのいい眉をわずかに寄せた。イベント、とか。記念日とか、そういうものを大切にするタイプなのかもしれない。意外だ。
長いブレーキをかけながら電車が停まった。人が吐き出され、入れ替わりに乗り込む。座席はすべて埋まっていたから、つり革につかまって立った。暖房が効いた車内は、乗客の熱気でさらに暖かく、コートを脱いでしまいたいぐらいだ。
電車が動き出す。はずみでよろめいて、隣にいる理一先輩にぶつかってしまった。慌てて離れる。
「大丈夫? 果歩」
「大丈夫です、ごめんなさい」
「また謝った」先輩は呆れ声だ。
「なんなら、ずっともたれかかっていてほしいぐらいなのに」
「……え?」
先輩は、何でもない、と、ぼそりとつぶやくと、窓の外に視線をやった。電車はゆったりと大きく曲がる。足元からも暖かい空気が流れてきて、頭がぼんやりする。
窓の向こう、街も空も流れ去っていく。昔からある木造の家屋や店舗と、新しく建ったビルやマンションが入り混じる街。鬱々とした冬の曇り空の下、深くなる夜の中で。立ち並ぶ、ぼんぼりのような丸い街灯が、やわらかい光を放っている。
「あ」
マンションと雑居ビルに挟まれた、古めかしい和風喫茶。その、隣に。うちの学校の指定コートを着たひとを見つけた。私は目を凝らした。あれは、
「……ハル?」
どうしてこんなところに。団地からも、バイト先のスーパーからも、大学病院からも離れている。何か用事があったのだろうか。一瞬で流れ去ってしまったから、見間違えだったのかもしれない。
妙な胸騒ぎがした。
次の電停の名がアナウンスされた。電車が減速をはじめる。
「先輩。私、次で降ります」
「え?」
ゆっくりと電車は止まる。
「ごめんなさい。降ります」
「ちょ、果歩?」
私は先輩を置いてまっすぐに出口扉へ向かった。財布から小銭を取り出す。運賃箱に入れようとして、落としてしまった。慌てて拾う。後ろの人がかがみこむ私の横をすり抜けるようにして降りていく。
どうして、心臓がこんなにどきどきしているのだろう。
早くつかまえないといけない気がした。あれが、幻じゃなくて。本当に、ハルなら。
心配ないから、と。私を撥ねのけた固い声。私を拒んだ背中。ハルは馬鹿だ。心配するに決まっている。
転がるようにして電車を降りる。歩行者信号が青に変わると同時に駆け出す。人を押しのけてぶつかって、足がもつれて。嫌な動悸は続いていた。
歩道を、走る。連なる街灯の丸い光も、道路を走る車のライトも、闇に滲んでいる。冷えた空気に、次々と息が白く浮いて、流れて消えていく。ハル。
電車の中でハルを見かけた場所にたどり着いた。マンションと和風喫茶の間、ここだった筈。雰囲気のあるお店だと目を留めた一瞬に、思いがけず視界に入ってきたのだ。
いない。だけど、もう、いない。歩いてどこかへ行ったのだろうか、バスに乗って家へ帰ったのだろうか。それとも。
あたりを見回すけど、ハルの気配はない。やっぱり、……勘違いだったんだろうか。
私は座りこんだ。胸がつぶれそうに痛い。
馬鹿なのは私だ。通りすがりの、一瞬見かけただけの人を。うちの高校のコートを着ていたからって、背格好が似ていたからって。ハルだと勘違いして、必死で駆けてきてしまった。いや、もしかしたら最初から、そんな人はいなかったのかもしれない。私が勝手につくり出した幻だったのかもしれない。
ハル。
私は何をしているのだろう。
堪えていた涙が流れ落ちる。幻覚を見てしまうほどに、それを追いかけてしまうほどに、私は。
立ち上がって、ふらりと、歩き出す。スクバと傘を持つ手は赤くかじかんでいた。頭が鈍く痛む。ふっ、と。雨の匂いがした。
顔を上げると、道路を挟んで向こう側。歩道に、ハルが。立っていた。次々に走り去っていく車の間から。ハルの姿が見える。歩いていたハルは。歩行者信号の横で立ち止まって、ふいにこちらを見た。
目が合った。いや、違う。目は合っていない。私はハルの目を捉えたのに、ハルは私を視界に入れていない。何も、そこには映っていない。暗く、虚ろな。焦点の合わない、
「だめ!」
私は叫んでいた。信号は赤なのに、車は川のように流れていくのに。ハルが。道路へ、足を踏み出そうとしたのだ。
「だめーっ!」
ハルが私の声に気づいて、はっと目を見開いた。信号が青に変わる。私は横断歩道を駆けた。早く、早く。ハルのもとへ。幻じゃなかった、だけど、あなたは一体、何をしようとしているの?
ハルも。こちらに向かって渡り始めていて。私はまっすぐにハルの胸にぶつかっていって、衝撃でハルは後に倒れてしりもちをついた。横断歩道の、ちょうど真ん中で。
「バカ! あんた、何してんの!」
ぼろぼろと涙が零れる。
「わかってんの? 車に轢かれて死んじゃうよ? わかってんの?」
車に。轢かれて。青い傘が転がる。死ぬのは嫌。もう誰も、私の前から消えないで。
ハルのコートを両手でつかんで、泣いた。
「……俺。ひょっとして、飛び出そうとしてたの?」
「無意識だったの?」
「覚えてない」
信号の青が点滅しはじめた。ハルが立ち上がって、私の手を引いて起こす。
「戻ろう、ほんとに轢かれる」
「……誰のせいだと思ってんの」
ずずっと、鼻水をすすった。
「帰ろう。帰ろう、ハル。あじさい団地に」
ハルは。ゆっくりと、頷いた。




