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ハルは今日も机に突っ伏して寝ている。昼休みの教室、朝方の厳しい冷え込みが緩んで、春のようなやわらかい陽がカーテン越しに射しこんでいる。
「果歩。……果歩。ちょっと、聞いてる?」
はっと我に返ると、目の前に、亜美のふくれっつらがあった。机に広げた自分の数学のノートには、意味不明なぐちゃぐちゃの線の塊がある。無意識にシャーペンを行ったり来たりさせていたらしかった。
「ごめん亜美、何だったっけ」
「だーかーらー。杉崎くんって実際どうだったの? 中学の時。って話」
「あ。ああ。えっと、今と同じだと思う、基本。常にセンターにいる人って感じ」
亜美は杉崎くんにデートに誘われているらしい。彼の人となりについてはハルのほうが詳しいと思う、と、言おうとしたけど、何となくやめた。
ハル。
ハルは今、ひとり。
他人に言わないようにね、と、母に言われた。千尋さんの入院のこと。手術をするらしい、何の病気かは詳しく教えてくれなかった、ただ、命に関わるようなものではないらしい。というのが、母が千尋さんから聞いた情報で、母もそれを信じきっている。
――ウチはね、ほら、晴海くん今ひとりだから。高校生だし自分のことは自分でできるだろうし、そのへんは心配ないけど、もし何かあったら、その時はお世話になりますってことで、それで教えてくれたのよ。
母の声が脳裏に蘇る。
――あっちゃいけないことだけどね、晴海くんが事故や事件に巻き込まれるとか、高熱で倒れるとかね、そういうこと。百パーセントないとはいえないから、って。
何か、あったら。その言葉で私が真っ先に連想したのは、ハルじゃなくて、千尋さんのことだった。千尋さんの身に何かあったら。
「もうっ、果歩!」
ぱしんと、肩をはたかれる。亜美は眉を吊り上げて私を睨み、そして、ふっと、ため息を漏らした。
「そんなに気になるなら、直接聞いてみたら?」
「……何を」
「知らないし! ただ、イライラするから、最近の果歩見てると。喉の奥にでかい何かが詰まったみたいな顔してさ」
「ごめん」
ハルがのっそりと身を起こした。ぼりぼりと頭を掻いて、それから、立ち上がって席を離れる。そのまま教室の外へ。
「果歩。追いかけな」
亜美が私を小突いた。
階段を降りる途中のハルに追いついた。名を呼ぶと、ハルは、踊り場のところで歩を止めて振り返って、私を見上げる。呼吸を整えながら、私は、ゆっくりと降りていく。
「何か用?」
まっすぐに私を見つめるハルの目からは、どんな感情の色も掬い取れない。蓋をしている、と思った。苑子を亡くした時と同じ。心が、ここに、無い。
踊り場の窓から青い空が見える。私は自分のスカートの生地をぎゅっと掴んだ。
「千尋さんの、ことだけど」
「ああ」
「入院したって聞いて。……その、大丈夫なの?」
さあ、と。ハルはぼんやりと返した。
「どのぐらい進行してるか調べるための手術だって言ってた」
「どういうこと」
「ごめん。ちょっと、話せない」
ハルは私に背を向けた。広い背中、紺色のブレザーが私を拒んでいる。
「ハル。私、お見舞いに行っても構わない?」
「そういうのも、ちょっと。気持ちはありがたいけどさ、……心配ないから」
心配ないから、という声は固くて、言葉に詰まる私を置いて、ハルは階段を降りて行ってしまう。私は、とん、と、壁にもたれかかった。
ハルは病院に通っているのだろうか。
千尋さんが入院しているのは、私とばったり会った、あの婦人科ではなくて、隣の区の中心部にある大学病院らしい。同じ市内とはいえ、あじさい団地からはかなり遠い。高校からも結構な距離がある。学校とバイトを続けながらの病院通いは車のない高校生にとっては移動だけでもハードだ。ハルはちゃんと眠れているのだろうか。食べているのだろうか。
「具合でも悪いのか」
先輩が私の顔を覗きこんだ。眼鏡の奥の目が不安げに曇っている。私は慌てて首を横に振った。学校が終わって、図書館の自習室で、理一先輩に数学を教えてもらっている。模試の結果が悲惨だったことを話すと、勉強につき合うと言ってくれたのだ。受験生の手を煩わせるのが申し訳なくて遠慮したけど、人に教えることで自分の考えの整理にもなるし、復習にもなるんだと先輩は笑った。
「すみません、暖房効き過ぎてて、頭がぼうっとしちゃって」
「休憩して、外の空気でも吸おうか」
先輩は立ち上がった。私も遅れて席を立つ。
図書館に隣接した芝生公園のベンチに並んで座る。そばの自販機で、先輩が缶コーヒーをふたつ買ってくれた。
空気が薄いような、呼吸がしづらいような感覚が続いていた。ハルの空虚な目、私を拒む背中。ずっと、灰色の綿のような塊が胸の中に絡みついているようで。
葉を落とした桜の木々が、冷たい北風に吹かれて揺れている。先輩が缶のプルタブを開けた途端、湯気で眼鏡が曇って、私は少し笑った。
「やっと笑った」
「……私、そんなに無愛想でした?」
「というか、心ここに在らず、と言う感じ」
「すみません、難しくて、すぐに理解できなくて。わざわざ時間を割いてもらってるのに」
「すぐ謝るよな、果歩は」
先輩は、珈琲をひと口、飲んだ。
「つき合い始めてからは、特に。敬語も抜けないし」
「だって」
「この間まで、散々嫌味言ってたからな」
「……今は、優しすぎるぐらいです」
優しすぎて、何故か、申し訳なくなってしまう。
淀み始めた空気を変えるように、先輩は、からりと明るい声を出した。
「少し先の話だけどさ。……クリスマス。どこか行こうか。イルミネーションとか」
「そんな、センター試験直前じゃないですか」
「だから果歩にパワーをもらいたい。って言ったら我儘かな?」
「でも」
それで、もし、先輩が風邪でも引いてしまったら。うつむいて黙り込んだ私に、先輩は小さなため息を吐いた。
「会いたいんだ、果歩に」
「…………」
「会いたい。離れた瞬間から、すぐにまた会いたくなる」
そっと先輩の横顔を盗み見ると、顔は真っ赤に染まり、前を見つめたまま、固く強張っていた。
「果歩は。違うのか?」
風が吹いて、先輩の前髪がさらりと揺れる。
「果歩は。淋しくならないのか?」
「淋しい、です」
答えて、缶のプルタブを起こし、口にした。珈琲は、もう、ぬるくなり始めていた。




