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口裂け女のメイクをしてくれたのは、亜美だった。顔をべったりと白く塗り、真っ赤なルージュで思いきり口を大きく描く。肩まである髪はぼさぼさに、真っ赤なコートを羽織って完成だ。
「ねえ亜美、口裂け女ってマスクしてるんじゃなかったっけ。私の顔は綺麗ですか、って言ってマスクをそっとはずす」
「知ってる。で、ポマードって三回唱えると逃げるんだよね」
そう言う亜美は猫又に扮するとかで、大きな猫耳カチューシャに着物、長い尻尾をふたつ付けている。和洋折衷どころか、怪物から都市伝説から妖怪まで、何でもアリだ。
教室内には暗幕が張られ、蜘蛛の巣や蝙蝠の羽のモチーフで飾り付けている。机を四つずつくっつけてクロスをかけたテーブルに、椅子。グラス代わりに使うのは理科室から借りたフラスコやビーカー。いまいちコンセプトが定まりきれていない気がする。
「ようこそわが主の館へ」
無表情で、ぼそぼそと告げる。お客さんの目を見てはいけない。にこやかに接客するのはNGらしいのだ。というか普通に恥ずかしいし、そもそも主とは誰だろう。
やってきたのは杉崎くんだった。猫耳の亜美に早速声をかけている。亜美が失恋したという情報をハル経由で得たのかもしれない。
ハルは午前の部の担当で、今はいない。男子のひとりが、もう帰ったと言っていた。ハルらしい。与えられた仕事はこなすけど、基本、イベントは苦手なのだ、昔から。
つぎつぎに、知り合いが来た。理一先輩も、料理部メンバーも。それなりに忙しく接客をこなしているうちに、陽も傾きはじめ、そろそろ店じまいの時間が近づいてきた。人もまばらとなり、片づけ準備を始めているクラスもある。少し疲れてぼうっとしていると、
「沢口。お客さん」
グラスと紙皿を片づけていた同級生のゾンビ男子にこづかれて、我に返る。
「千尋さん! 髪!」
「ポマードポマードポマード!」
千尋さんはおどけて、くすくす笑った。長い髪をばっさり切って、ベリーショートにしている。
「昔、晴海に教えてもらったの。まだうーんと小さい頃だけど」
「あの。すみません、ハルならもう帰ったらしくて」
「いいのいいの、ちょっと時間ができたから寄ってみただけ」
「髪。似合ってます、すごくかっこいい」
「そう? ありがと」
私は千尋さんを窓際の空いているテーブルに案内した。千尋さんからアイスコーヒーのチケットを受けとる。
「果歩ちゃん。普段の、晴海の席はどのへん?」
「ちょうど、このあたりです。窓側の一番後ろ」
「ふうん……。あの子、真面目に授業受けてる?」
「寝てます」
すると千尋さんは、ぷっとふき出した。そして、目を細めて教室や立ち回るクラスメイトたちを眺めている。
「千尋、さん?」
どきりとした。いきなり、千尋さんの頬を涙が伝ったのだ。
「あ。あ、やだ。どうしたんだろう」
千尋さんはバッグからハンカチを取り出して目を押さえた。
「やだなあ、最近ちょっとしたことで泣いちゃって、歳かなあ」
「大丈夫、ですか……?」
「大丈夫、大丈夫」
そう言って笑っていたけど。今日の千尋さんは、どこかおかしい。
結局。初日、モンスター喫茶ラストのお客様は千尋さんだった。珈琲を飲み終えても、ずっと、教室でぼんやりしている。
「千尋さん、すみません。もうお店おしまいなんです」
「あ。ああ……、ごめんね」
我に返ったように席を立ち、バッグをつかむ。と、果歩ちゃん、と、私を呼ぶ。
「何時ごろ、帰れるの?」
「片づけ終わってメイク落としたら、もう解散です」
「そう。じゃあ、どこかで何か食べない?」
「ハルじゃなくて、私?」
千尋さんはうなずいた。
高校から、さらに市の中心部のほうへと千尋さんの車は走り、路面電車の走る通りを抜け、路地にある小さなコインパーキングで止まった。黄昏時も過ぎ、透明な、藍色の空に星が瞬き始めている。夜の始まり、昼間はあんなに暖かかったのに今は冷えて、車から降りた私は思わず身を縮めた。それを見た千尋さんは、自分の大判ストールを私の肩にかけてくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
ストールは、ほんのり、「ハルの家の匂い」がする。「ハルの家の匂い」に、化粧品の匂いが混じっている。大人の女性の香り、ハルとは違う。
雑居ビルの間の狭い道を歩いて行く。飲食店が多くて、いたる所から、暖かい色の照明と揚げ物の匂いが零れている。
「カレーでいい?」
「はい」
「晴海をよく連れて行ってたお店なんだ」
「ハルを呼ばなくていいんですか?」
「バイト仲間と食べてくるからいいって、返信きた」
相手してくれなくて淋しいよ、と、千尋さんはぼやく。
そこは看板も小さく、注意して見なければうっかり通り過ぎそうな、小さなお店だった。
ドアを開けた途端、スパイスの香りに包まれた。照明は絞ってあって、ほの暗い。四人用のテーブルがふたつ、二人用のがふたつ、それから、カウンター。その向こうが厨房になっているようだ。奥の小さなテーブルに案内され、私は千尋さんと向かい合わせに座る。店員さんが、すぐにお水とメニュー表を運んできた。
カウンターにスーツ姿の白髪の男性がひとり、四人用のテーブルに、若い男性が三人。
「ここのね、あんまり辛くないんだ。希望すれば調節はしてくれるけど」
看板メニューのビーフカレーをひとつと、サラダを、千尋さんは頼んだ。
「ありがとうね、私につき合ってくれて」
そう言われて、いえ、と首を小さく横に振る。
「うち、息子ひとりでしょ? 私ね、ずっと女の子が欲しくて。娘とデートするの、憧れてた。でも、離婚しちゃったからさ」
店員さんが、セットのサラダを運んできた。食べて、と千尋さんが促す。
「私ね、果歩ちゃん可愛くて。苑子ちゃんも。娘みたいに思ってる」
率直な言葉が、嬉しいけれど、少しこそばゆい。
「晴海はひとりっ子だし、親の都合で振り回して、淋しい思いをさせたと思ってる。でもね、あじさい団地に来て、果歩ちゃんや苑子ちゃん達が仲良くしてくれて、本当に良かった」
ありがとう、と。千尋さんはしんみりと言った。
「苑子ちゃんのことは、残念だったけど」
沈黙が降りる。BGMのない店内で、食器のぶつかる音や、他のお客さんの会話が、浮き上がっていく。
「祥子さんのことも、もっと支えてあげられればよかった」
祥子さん。苑子のお母さんの名前だ。中三の初夏、苑子の一周忌に合わせて、遠い海辺の街に、母と千尋さんとハルと一緒に、仏壇とお墓に線香をあげに行った。苑子のお墓は、海を見下ろす丘の斜面にあった。翌年からは、私はひとりで、電車でお墓参りに行っている。お花を供えて線香をあげるのみで、苑子の家族には会っていない。ハルも行っているのかもしれないけど、確かめたことはない。
サラダを口に運ぶ。ドレッシングはかかっているのに、味が、しない。
「笑わないでね」
千尋さんはフォークを置いた。
「どっちかがお嫁に来てくれて、本当の娘になってくれたらな、って。夢見てた」
ふふふっ、と、私に笑うなと言った、当の千尋さんが、可笑しそうに笑っている。そして、ふっ、と、私の目を見た。もう笑みは消えている。
「果歩ちゃん。これからも、晴海のことを好きでいてくれる?」
射抜かれたみたいに、千尋さんのまなざしから、目を逸らすことができない。
おまたせしましたビーフカレーです、と。カレーの皿が目の前に置かれて、やっと私は視線をはずした。
「……私、は」
涙が、勝手に。せり上がってくる。
「私はハルを想ってちゃいけないんです。苑子にひどいことを言って傷つけたんです。自分が醜くて、情けなくて」
鼻の奥がつんとする。涙なんか、零したくないのに。
「苑子じゃなくて、私が。死ねばよかったのに」
果歩ちゃん、と。恐ろしく冷たい声で、千尋さんが私の名前を呼ぶ。
「甘えないで」
さっきまで、優しく、凪いだ水面のようだった千尋さんの瞳は、今、凍りついている。
「二度と口にしないで。死ねばいい、だなんて。自分のことを」
「…………ごめんなさい」
押さえていた涙が、頬を伝った。千尋さんの顔は、まだ、強張っている。
「苑子ちゃんの気持ちを考えなさい。果歩ちゃん、あなた。後悔ばかりで、ちゃんと、悲しむことができてないんじゃないの?」
悲しむこと。勿論悲しいに決まってる、でも。
千尋さんは、ふう、っと、細いため息を漏らした。
「食べよう。冷めちゃう」
再び笑ってくれたけど、その目には、淋しさの色が浮かんでいて、ひどく疲れているように見えた。もう一度謝ると、「いいから」と、千尋さんは、カレーを食べ始めた。
私も、涙を拭いた。黙々と、頂く。深いコクがあるけど辛くないカレーライスは、なるほど確かに子どもでも食べられそうだ。子ども時代のハルと、千尋さんの暮らしを想う。
半分ほど残して、千尋さんはスプーンを置いた。私が食べるのを見つめながら、ゆっくりとグラスのお水を飲んでいる。まだ千尋さんの怒りはほどけていない。自分の浅はかさに、胸が痛んだ。
帰りの車の中で、ずっと無言だった千尋さんは、ふと、「ごめんね」と零した。信号が赤に変わり、ゆっくりと車は減速する。前の車のテールランプの赤が夜に滲んでいる。
「言いすぎた。でもね、……わかって」
千尋さんは、フロントガラスの向こうを見つめたまま。
私は答えることばを持たず、隣でハンドルを握る千尋さんの、その白い横顔を、ただ、じっと見ていた。
千尋さんが入院したことを知ったのは、その、一週間後だった。




