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亜美が差し入れてくれたお菓子をつまみながら、亜美が借りてきたDVDをだらだら観て、学校の友達の噂話をしたり、漫画を読んだり。そんなことをしているうちに、夕暮れが近づいてきた。
「夕ご飯どうしよ? 亜美、何食べたい?」
「外に食べに行くのもだるいし、つくるのはもっと面倒くさいし。ピザでもとる?」
「そうしよっか」
「とても料理部の会話とは思えねーな」
ハルが口を挟んだ。亜美は、ソファに寝転がって携帯をいじっている。亜美にソファを占拠されてしまったから、私とハルはラグの上に座っている。親が不在だということもあるけど、まるで自分の部屋のように寛いでいる亜美の様子に、随分違うんだな、と思う。誰と、と一瞬考えた後で、無意識に苑子と比べていることに気づいた。苑子は、あんなに小さい頃から一緒にいて、うちにもしょっちゅう来ていたのに、「ここはよそのお宅」と、かっちり線引きをする子だった。亜美と苑子はまるっきり違うタイプで、だけど私は、どちらも好きだ。
と。亜美はのっそりと身を起こした。
「ねえねえ、この近くにお惣菜屋さんあるよね? バスの窓から見かけて、気になってたんだけど」
「ああ、三村屋。坂の下の。あそこ美味いよ、特に唐揚げ」
ハルが答えると、亜美は立ち上がった。
「食べたい! あたし、買ってくる」
「今から? だったら一緒に行く」
「いいって。坂道下ったとこだったよね。果歩はごはん炊いてて」
「だったら俺がついて行く」
「いいから。まだ暗くなってないし、ひとりで行くよ」
立ち上がろうとしたハルを強引に制して、亜美は、自分の上着を掴んで、出て行った。
ドアの閉まる音。私とハルはふたりになった。
点けっぱなしのテレビから賑やかな声があふれ出て、そのまま浮いて漂っている。地元テレビ局の、夕方の情報番組。声の大きなタレントがグルメレポートを届けている。
ハルも私も黙り込んでいた。お菓子の散乱したローテーブルの上を片づけておこうと、腰を上げて空きグラスに手を伸ばしたら。
「あのさ」
と。ハルが気まずい空気を破った。
「よくドラマとかでさ。死んだ人は、いつまでも心の中で生き続ける、とか言うじゃん」
「言う、ね」
心臓が早鐘を打ちはじめていた。苑子の話、だ。苑子を亡くして以来、正面切って、苑子の話をすることを、お互い、避けていた。なのに、どうして、このタイミングで。
「確かに生きてんだけど。でも、年とんなくて。ま、あたり前だけど」
「私も同じだよ」
夢に現れる青い傘、ふとした時に思い出す仕草、子どものころの出来事。だけど、最後に私が放った言葉と、それを受けた苑子の白い顔が蘇りそうになると、胸が潰れそうになって。私は、咄嗟に逃げていた。蓋をして、意識を逸らす。そんな自分を、卑怯だと思う。
ハルは淡々と続ける。
「リアルな苑子じゃないんだよ。何か、記憶の中で、俺が苑子を、都合のいいようにつくり変えてる。そんな気がしてて」
「琥珀の虫じゃない、ってこと?」
「そういうこと」
琥珀の虫は、そのままの姿で閉じ込められて半永久的に変わらないけど、記憶の中に住んでいる人間は違う。成長も老化もしない代わりに、何度も再生しているうちに変容していく。そういうことが言いたいのだ。
わかる気が、しなくもない。
「仮に、だよ」
私は黙々とテーブルを片づける。グラスをトレイに乗せ、スナック菓子の袋をごみ箱に放っていく。
「もし仮に。俺に好きなやつができた、って言ったら。苑子、どう思うかなって」
布巾で、テーブルの上を拭く。
「俺の中の苑子、怒らないんだよ」
ラグに落ちた細かい屑を拾って捨てる。
「あいつ、そういうやつじゃないじゃん。むしろ、幸せになってねとか言って笑ってそうで。でもさ、それって、勝手だよな。俺がそんなふうに、自分に都合のいいように思い込んでるってことだから」
「……怒らないけど、悲しむんじゃない?」
「そうかもな。果歩の中の苑子は、悲しむんだな」
悲しみを押し込めて、微笑む。そんな気がする。
「やっぱり俺は自分勝手だ」
「ハル……?」
ハルが手を伸ばした。私のほうに。ハルの手が、そっと。床に置いた私の手に触れる。瞬間、わずかに。ぴり、と、甘い痺れが走って。私は動けない。息が止まりそうで、重なったハルの手は温かくて、そして、微かに震えている。
「果歩、俺」
動けない。だけど。
電子音が、響き渡った。私のからだはびくりと跳ねた。
「あ。……電話」
鳴っているのは私の携帯。亜美かもしれないと、拾いあげると、
「……先輩」
理一先輩からだった。
「ごめん。彼氏から」
告げると、ハルを残して、私は外へ出た。
鼓動が、まだ収まらない。ドアにもたれかかり、深く息を吸って吐き、冷たい空気で頭を冷やす。大丈夫、大丈夫。
「もしもし」
「もしもし、果歩。今、話せる?」
「はい。何かあったんですか?」
「何も。何となく、声が聞きたくなって」
くぐもった声。ずくんと、心臓が痛んだ。夕陽が赤い光を放って街の向こうに沈もうとしているのが見える。ここで生まれてここで暮らして、毎日のように見てきた、一日の終わりの輝き。
他愛ない会話を続ける。胸の痛みに締めあげられる。
どうして。私は先輩を裏切ったわけじゃない、だけど、ハルを振り払えなかった。
とんとん、と、階段を上がる足音が近づき、やがて、ビニール袋をぶら下げた亜美が電話している私の真横に立った。空いたほうの手をすっと伸ばし、私から電話を奪う。
「ちょっと亜美」
「せんぱーい。サヤマでーっす。今日、果歩んちにお泊り。いいでしょー」
「ちょ、返して」
「じゃ、また。勉強ガンバってくださいねー」
ことさら陽気な声をあげ、亜美は電話を切ってしまった。はい、と携帯を私に寄越す亜美は、びっくりするほど、真顔だった。
怒ろうと思っていた気持ちを削がれてしまって、宙ぶらりんのまま、取り敢えず部屋に戻ろうとしたら、ドアが開いた。
「おれ、帰るわ」
ハルは私の目を見なかった。
「うん。……バイバイ」
すれ違うとき、私の肩がハルの腕にぶつかって。
ハルの、匂いがした。柔軟剤と、ハルの家の匂いが混ざった匂い。ハルだけの、私だけがわかる、
「……果歩」
「亜美。寒いから早く入ろう。唐揚げ冷めるし」
「うん」
ドアを閉める。
夜は、私の部屋に布団を二つ並べて寝た。電気を消して、常夜灯のオレンジ色の光だけを残して。目を閉じても、頭の芯が冴えて眠れない。
隣に眠る亜美が、目を開けて、布団に手を入れて、私の手を握った。
「今なら、先輩の傷も浅いんじゃない?」
低い声でつぶやいて、亜美は、つなぐ手に力を込めた。傷。傷。
「果歩は、先輩と島本と、本当に好きなのは、どっち?」
何も答えないでいると、亜美はさらに続けた。
「島本でしょ。違う?」
「もう遅いから。私、寝るね」
「逃げないで、果歩」
「逃げてない。私は、……私だって、幸せな恋がしてみたいと思っただけ。ハル以外の人となら、きっとそれができるって」
「バカみたい。それって、島本じゃなきゃダメだって言ってるのと同じじゃん」
「違うし」
「違わない。ねえ、どうして果歩は自分の気持ちを認めないの? 死んだ友達に遠慮してるの? 島本がその子のこと、忘れられないって言ってんの?」
首を横に振った。枕と頭が擦れて音をたてる。暗がりの中、時計の秒針の音が響いている。
亜美は、懸命に私の目を見つめ続けている。
苑子に投げた、自分の、ひどい言葉。私がハルを好きにならなければ、ずっと、子どもの頃のような、まっさらな気持ちでいられていたなら。苑子にあんな思いをさせることはなかった。
でも、言えない。亜美に、最低な人間だと思われたくない。
「自由になりなよ、果歩。いつまで、死んだ友達に縛られてるの?」
自由になるのが怖い。
「ずっと、ずっと。縛られたまま、生きていくつもり?」
かまわない、と。答えた私の声は、わずかに震えていた。
苑子に縛られていたくない、と、あの時私は言った。その言葉が、そのまま自分に返ってきた。まさか死んでしまうなんて。二度と会えなくなるなんて。苑子。
空の青、波にもまれた石の青。梅雨に咲く花の、青。
まぶたの裏の、傘の、青。




