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「病院に、行こうか」
母が、出し抜けに、そう言った。土曜日、午前十時になってやっと起きて顔を洗い、珈琲でも飲もうとキッチンに立ったところで、だった。
「病院?」
うなずいた母は、真剣なおももちだった。
両親とも、今日、明日と休みで、ドライブがてら姉のところへ泊まりに行くと言っていた。私は亜美と約束があったから留守番だ。
「来週のどこかで。お母さん、時間作って、ついていってあげるから」
婦人科に、と。母が言って、私のからだは強張った。
「あんたずっとおかしいでしょ。一回診てもらったほうがいい」
「気づいてたの」
「まあね。奈津も中学の頃は不規則だったけど、だんだん落ち着いたっていうか、周期が安定してきたんだよね。だからあんたも、姉妹だし、似たような体質なのかと思ってたんだけど、さすがに」
だらだらと続いていた少量の出血は、カレンダーをめくる頃には止まっていた。
「いろいろ、辛いこともあったし、あんたは」
薬缶のお湯が沸き始めて、湯気が噴き出している。私は急いで火を消した。
「仕事ばっかりで、そばにいてやれなくてごめんね」
「やめてよ、しんみりしないでよ。お母さんらしくない」
私は、努めて明るい声を出した。
「ひとりで行くから、病院。大丈夫、子どもじゃないんだし」
インスタントの粉末を入れたマグにお湯を注ぎ、深皿にシリアルを適当に盛ってミルクをかける。母が、「味噌汁あるから、食べなさい」と言って、シリアルに味噌汁なんて、と思ったけど、素直に頂くことにした。
昼前には両親は家を出た。私は亜美にメールを送って、身支度をした。携帯が短く鳴る。亜美からの返信。
――果歩の両親いないならさ。泊まりに行ってもいい?
そう来たか。私は、オッケー、と返した。
坂道の途中にあるバス停に、ゆっくりとバスは止まり、亜美を降ろして、鉛色の排ガスをまき散らしながら走り去っていった。亜美は小振りのボストンバッグと、お菓子がぱんぱんに詰まったスーパーの袋を提げている。
「ごめんね、わざわざ迎えにきてもらって」
「いえいえ」
「理一先輩呼ばなくていいの?」
亜美から袋を受け取って、歩き出す。
「いいんです。受験生なんだし」
「でも。お泊りチャンスだよ? 今日うち親いないんだー、ってやつ。きゃー、破廉恥」
「あのねえ」
ため息が漏れる。着いて早々この調子じゃ、先が思いやられる。
団地の敷地に入り、歩道を歩く。けやきの葉は赤茶けて、時折、乾いた風に吹かれてかさかさと音をたてる。あじさいの低木は、たくましく、つややかな葉を茂らせていた。
「へー。ここ、公園あるんだ」
亜美がいきなり走り出した。慌てて追いかける。
「うわっ、すべり台、ちっちゃー」
すり鉢を伏せた形のすべり台に、早速登っている。本当に落ち着きがない。
「島本とも、ここで遊んだのー?」
「まあね。でも、このすり鉢、人気でね。いっつも高学年の男子に占拠されてて。六年生になるまで、なかなか登れなかったんだよね」
「ふうーん。ねえ、果歩もおいでよ」
亜美は、そう言ってすり鉢のてっぺんから手招きしていたけど、いきなり目を丸くして、それから破顔した。
「島本ーっ。今帰りー?」
フェンスの向こうに、ハルのすがたを見つけたらしい。ハルは敷地の東側――息吹が丘公園側の出入口――から、私たちのいる場所までのっそりと歩いてきた。
「狭山、何してんの。小学生?」
「童心に帰ってただけー。あたしは果歩んとこに泊まりにきたの。今夜ひとりだって言うから」
「お父さんとお母さん、お姉ちゃんとこに泊まりに行くから」
隣に立っているハルに、補足説明する。亜美が、つうう、と、すり鉢からすべり降りてきた。
「島本もおいでよ」
「ちょっと、何、勝手に。私の家なのに」
「いいじゃん。人数多いほうが楽しいっしょ」
ハルは、無表情のまま、「じゃ、行く」とだけ、ぼそっと、つぶやいた。
亜美がはしゃいで私の家のあれこれを見て回っている間に、お湯を沸かして珈琲を淹れた。カップは三つ。
「狭山ってマジ小学生だな」
「だよね」
ハルはうちのダイニングテーブルの、いつも父が座っている椅子に腰かけていて、亜美は、うわー、とか、へー、とか、これ何ー、とか、いちいちかん高い声をあげている。
「どぞ。インスタントで悪いけど」
「別に何でもいいよ、こだわりとかねーし」
ハルが苦笑する。私も、いつもの自分の椅子に腰かけた。ハルとは向かい合うかたちになる。マグカップを手のひらで包んで冷えた指先を温めた。空気は冴えて、どんどん冬に近づいていく。
「ほんっと、熟年夫婦の雰囲気だよね、あんたたち」
亜美が戻ってきて、ハルの隣の椅子に座った。ひと睨みして、亜美の分のカップを置く。
「さんきゅ」
亜美は珈琲をひと口、飲んだ。
「っていうか言ったっけ? あたし振られたんだよね」
「例の、ピアスの彼?」
そうそう、と、亜美は頷いて、それから、左の耳たぶを触った。
「彼女いるんだって。あーあ」
亜美は頬杖をついて、ぶうっと頬を膨らませた。
「果歩はいーなあ。愛されてて」
上目使いで私を見つめて、それから、ハルに、ちらりと視線を送る。
「べつに愛されてなんか」
「めちゃくちゃ愛されてるよー。っていうかそもそもさあ、先輩が果歩にずっと片思いしてたの、みーんな気づいてたし」
「…………」
ことん、と、音がする。ハルがカップを置いたのだ。
「……おかわり、もらっていい?」
「あ。うん」
立ち上がると、亜美が。
「ねーねー、もう、チューした?」
と。出し抜けに聞いて来て、私は固まってしまった。
「ちょ、亜美」
「まだなんだー。でも、手ぐらいはつないだんでしょ?」
「亜美! 怒るよ!」
「もう怒ってんじゃん」
からかうような口ぶりなのに、亜美の目は、笑っていない。私はハルのカップを引き寄せると、二杯目を注ぎにキッチンへ立った。




