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十月も終わりに近づいてきて、中庭の銀杏の葉は、ようやく色づきはじめている。桜の葉はもう、とっくに赤茶けて散ってしまったというのに。
夕暮れが近づいて、蜂蜜色の光に照らされて、銀杏が金色に光っている。風に吹かれてその葉が舞い落ちるさまを、図書室の窓から、じっと見ていた。
つきあい始めたものの、やはり三年生は忙しい。今日の放課後は進路指導室で調べものをしなくちゃいけないから、良ければ終わるまで待っていてほしいと言われた。
看護系の本がないかと書架を見て回る。と、「女子のからだとこころ大辞典」という本が目に留まった。手にとってぱらぱらとめくる。事典とは言っているけど、十代向けの、カジュアルでわかりやすい医学解説本、といったものだ。
気になっていた。シフォンケーキをつくった日にはじまった生理が、まだ、終わらない。ごく少量の出血が、だらだらと続いているのだ。もう十日になる。さすがにおかしい。
少し迷ったけど、借りることにした。私が病気かどうかは置いておいても、知識はあったほうがいい。
貸し出し手続きが終わったタイミングで、先輩が現れた。
連れだって図書室を出る。
つきあっていることを、亜美だけには、自分から話した。部活のメンバーには、黙っていたのに、なぜかすぐに気づかれた。
ハルには話していない。わざわざ、そんなことを報告するのもどうかと思うし。
校舎を出て、非常階段横の自販機で温かい飲み物を買った。私はミルクティ、先輩は珈琲だ。冷えた指先を缶で温めていると、唐突に、先輩が私の頭に手を置いて、そろそろと撫でた。
「あ。あの」
「嫌か?」
「そういうわけでは」
私を見つめる目がびっくりするほど優しくて、戸惑ってしまう。
「その。良ければ、名前で呼んでも。いいか?」
「あ。は、はい」
ぎこちなくうなずいた。先輩は、こんな私の、どこがいいというのだろう。
非常階段に腰かけて、ミルクティを飲む。そうだなあ、と、先輩は話しはじめた。
「気になってたんだ、ずっと。真面目に取り組む割には、ちっとも料理が楽しくなさそうなところとか」
「いいところでも何でもないじゃないですか」
「そうだな、おかしいな」
くすりと笑う。「彼氏」になった先輩は、頻繁に笑顔も見せるし、ぐっと雰囲気がやわらかくなった。今までの私に対する態度は一体何だったんだろうと思うぐらいに。
「果歩」
「……はい」
先輩は、ただ、私の名前を呼んだだけだった。呼んで、赤くなって、私から目をそらして、珈琲を飲んでいる。
私まで恥ずかしくなってしまって、ミルクティを口に含んだ。甘い。
恋も、きっと。ほんとうは、甘い。
放課後、ほんの少ししかふたりで過ごす時間はない。一緒に帰るといっても、お互いの家が逆方向だから、学校を出て大通りに出たところで、いつも私たちは別れている。
信号が青に変わって、先輩に手を振って、自転車に乗る。横断歩道を渡り終えて、道路の向こうを見てみれば、先輩が、まだ私を見守っていて、目が合うと小さく手を振ってくれた。
夕陽が街を染め上げている。冷たい空気に、透明な朱色が溶け込んでいく。行きかう車のライトが滲んで光っている。ペダルを踏み込んでひたすらに進む。
自転車に乗れるようになった瞬間のことを覚えている。小学校一年生の時だった。苑子とハルと三人で、息吹が丘公園で練習したのだ。秋。ちょうど今頃の季節だった。
三人の中で、乗れないのは私だけだった。何度も転んですり傷をつくって、公園の水道で泥を洗い流した。冷たくて沁みた。苑子が自分のハンカチで拭いてくれたのを覚えている。苑子のお気に入りだった、キャラクターの絵が入ったハンカチに、みるみるうちに泥と血が滲んでいって。ごめんねと言ったら、いいのいいのと苑子は笑ったのだ。
「あのね果歩ちゃん。自転車、こつは、まっすぐに前を見て漕ぐことだよ。一回、うまくいったら。あとは、すうっ、すうっと、進めるようになるから。私だってできるんだもん、きっとすぐに乗れるようになるよ」
苑子の笑顔は夕陽に照らされて、やわらかな髪が金色に縁取られて光っていた。
「果歩ー。苑子ー」
グラウンドの中央で、ハルが私たちを呼んで。私はサドルにまたがって、まっすぐ前を向いた。漕ぎ始めて、あれ、と思った。いきなり、するすると乗れるようになったのだ。
あっけなかったな、と思う。夕焼け空の下、ハルと苑子が自分のことのようにはしゃいで、喜んでくれて、私は、自転車でぐるぐるとグラウンドを回った。いつまでも漕いでいたかった。
団地へ続く坂道の途中で自転車を降りる。オガワのベンチには学校帰りの中学生たちがたむろしている。
あのころに、戻りたい。
「……何してるの」
E棟の階段を、五階までのぼりきったところに。ハルがいた。紺色のパーカにジーンズ、寒そうに背中を丸めて、空を見ている。
「おかえり、果歩」
「バイトはもう終わったの?」
「今日は休みだった」
秋の陽はつるべ落とし。あっという間に沈んでしまって、街はいま、夕暮れと夜のあわいにある。空の端に残ったオレンジ、薄紫へ変わりゆくグラデーション、細くたなびく灰色の雲に、瞬き始めた星。うすい、細い、月。
「もうすぐ新月だな」
「そうだね」
「果歩。彼氏できたんだって?」
「……どうして知ってんの」
「狭山が教えてくれた」
亜美が。わざわざ、ハルに。しょうがないなとため息を吐く。
「良かったじゃん」
「まあね」
「昔から、全然、浮いた話、なかったしな」
「放っといてよ」
「好きなの? そいつのこと」
「当たり前じゃん」
ふうん、と、ハルはつぶやくように言った。まさか、そんなことを聞きだすために、ここで私を待っていたんだろうか。
「自分はどうなの」
「俺は、もういいよ。そういうの」
ハルが力なく笑う。私だって思っていた。もう要らないと。勝手に傷ついて誰かを傷つけて、挙句取り返しのつかないことになる、そんなのはもうたくさんだと。そう思っていた。
「自分のことを好きだと思ってくれる人がいたから。思いきって、飛び込んでみようかと思ったんだ。私は」
相手がハルでさえなければ。私は、陽だまりのように穏やかでほんのり甘い、そんな恋ができるかもしれない。そうしたら、もう。自由になれる気がした。
「じゃね」
去ろうとした私の腕を。ハルが。いきなり、掴んだ。
「ちょ、何?」
「……いや、別に」
「じゃあ、離して」
「……ん。……ごめん」
もう一度さよならを言うと、私は、足早にハルのもとを去った。ドアを開けて灯りをつける、誰もいない家。ハルが触れた腕が、熱を持っていた。




