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青をあつめる  作者: せせり
17歳
21/35

9

 十月も終わりに近づいてきて、中庭の銀杏の葉は、ようやく色づきはじめている。桜の葉はもう、とっくに赤茶けて散ってしまったというのに。

 夕暮れが近づいて、蜂蜜色の光に照らされて、銀杏が金色に光っている。風に吹かれてその葉が舞い落ちるさまを、図書室の窓から、じっと見ていた。

 つきあい始めたものの、やはり三年生は忙しい。今日の放課後は進路指導室で調べものをしなくちゃいけないから、良ければ終わるまで待っていてほしいと言われた。

 看護系の本がないかと書架を見て回る。と、「女子のからだとこころ大辞典」という本が目に留まった。手にとってぱらぱらとめくる。事典とは言っているけど、十代向けの、カジュアルでわかりやすい医学解説本、といったものだ。

 気になっていた。シフォンケーキをつくった日にはじまった生理が、まだ、終わらない。ごく少量の出血が、だらだらと続いているのだ。もう十日になる。さすがにおかしい。

 少し迷ったけど、借りることにした。私が病気かどうかは置いておいても、知識はあったほうがいい。

 貸し出し手続きが終わったタイミングで、先輩が現れた。

 連れだって図書室を出る。

つきあっていることを、亜美だけには、自分から話した。部活のメンバーには、黙っていたのに、なぜかすぐに気づかれた。

 ハルには話していない。わざわざ、そんなことを報告するのもどうかと思うし。

 校舎を出て、非常階段横の自販機で温かい飲み物を買った。私はミルクティ、先輩は珈琲だ。冷えた指先を缶で温めていると、唐突に、先輩が私の頭に手を置いて、そろそろと撫でた。

「あ。あの」

「嫌か?」

「そういうわけでは」

 私を見つめる目がびっくりするほど優しくて、戸惑ってしまう。

「その。良ければ、名前で呼んでも。いいか?」

「あ。は、はい」

 ぎこちなくうなずいた。先輩は、こんな私の、どこがいいというのだろう。

 非常階段に腰かけて、ミルクティを飲む。そうだなあ、と、先輩は話しはじめた。

「気になってたんだ、ずっと。真面目に取り組む割には、ちっとも料理が楽しくなさそうなところとか」

「いいところでも何でもないじゃないですか」

「そうだな、おかしいな」

 くすりと笑う。「彼氏」になった先輩は、頻繁に笑顔も見せるし、ぐっと雰囲気がやわらかくなった。今までの私に対する態度は一体何だったんだろうと思うぐらいに。

「果歩」

「……はい」

 先輩は、ただ、私の名前を呼んだだけだった。呼んで、赤くなって、私から目をそらして、珈琲を飲んでいる。

 私まで恥ずかしくなってしまって、ミルクティを口に含んだ。甘い。

 恋も、きっと。ほんとうは、甘い。


 放課後、ほんの少ししかふたりで過ごす時間はない。一緒に帰るといっても、お互いの家が逆方向だから、学校を出て大通りに出たところで、いつも私たちは別れている。

 信号が青に変わって、先輩に手を振って、自転車に乗る。横断歩道を渡り終えて、道路の向こうを見てみれば、先輩が、まだ私を見守っていて、目が合うと小さく手を振ってくれた。

 夕陽が街を染め上げている。冷たい空気に、透明な朱色が溶け込んでいく。行きかう車のライトが滲んで光っている。ペダルを踏み込んでひたすらに進む。

 自転車に乗れるようになった瞬間のことを覚えている。小学校一年生の時だった。苑子とハルと三人で、息吹が丘公園で練習したのだ。秋。ちょうど今頃の季節だった。

 三人の中で、乗れないのは私だけだった。何度も転んですり傷をつくって、公園の水道で泥を洗い流した。冷たくて沁みた。苑子が自分のハンカチで拭いてくれたのを覚えている。苑子のお気に入りだった、キャラクターの絵が入ったハンカチに、みるみるうちに泥と血が滲んでいって。ごめんねと言ったら、いいのいいのと苑子は笑ったのだ。

「あのね果歩ちゃん。自転車、こつは、まっすぐに前を見て漕ぐことだよ。一回、うまくいったら。あとは、すうっ、すうっと、進めるようになるから。私だってできるんだもん、きっとすぐに乗れるようになるよ」

 苑子の笑顔は夕陽に照らされて、やわらかな髪が金色に縁取られて光っていた。

「果歩ー。苑子ー」

 グラウンドの中央で、ハルが私たちを呼んで。私はサドルにまたがって、まっすぐ前を向いた。漕ぎ始めて、あれ、と思った。いきなり、するすると乗れるようになったのだ。

 あっけなかったな、と思う。夕焼け空の下、ハルと苑子が自分のことのようにはしゃいで、喜んでくれて、私は、自転車でぐるぐるとグラウンドを回った。いつまでも漕いでいたかった。

 団地へ続く坂道の途中で自転車を降りる。オガワのベンチには学校帰りの中学生たちがたむろしている。

あのころに、戻りたい。

 

「……何してるの」

 E棟の階段を、五階までのぼりきったところに。ハルがいた。紺色のパーカにジーンズ、寒そうに背中を丸めて、空を見ている。

「おかえり、果歩」

「バイトはもう終わったの?」

「今日は休みだった」

 秋の陽はつるべ落とし。あっという間に沈んでしまって、街はいま、夕暮れと夜のあわいにある。空の端に残ったオレンジ、薄紫へ変わりゆくグラデーション、細くたなびく灰色の雲に、瞬き始めた星。うすい、細い、月。

「もうすぐ新月だな」

「そうだね」

「果歩。彼氏できたんだって?」

「……どうして知ってんの」

「狭山が教えてくれた」

 亜美が。わざわざ、ハルに。しょうがないなとため息を吐く。

「良かったじゃん」

「まあね」

「昔から、全然、浮いた話、なかったしな」

「放っといてよ」

「好きなの? そいつのこと」

「当たり前じゃん」

 ふうん、と、ハルはつぶやくように言った。まさか、そんなことを聞きだすために、ここで私を待っていたんだろうか。

「自分はどうなの」

「俺は、もういいよ。そういうの」

 ハルが力なく笑う。私だって思っていた。もう要らないと。勝手に傷ついて誰かを傷つけて、挙句取り返しのつかないことになる、そんなのはもうたくさんだと。そう思っていた。

「自分のことを好きだと思ってくれる人がいたから。思いきって、飛び込んでみようかと思ったんだ。私は」

 相手がハルでさえなければ。私は、陽だまりのように穏やかでほんのり甘い、そんな恋ができるかもしれない。そうしたら、もう。自由になれる気がした。

「じゃね」

 去ろうとした私の腕を。ハルが。いきなり、掴んだ。

「ちょ、何?」

「……いや、別に」

「じゃあ、離して」

「……ん。……ごめん」

 もう一度さよならを言うと、私は、足早にハルのもとを去った。ドアを開けて灯りをつける、誰もいない家。ハルが触れた腕が、熱を持っていた。


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