8
月のない夜。神社の森を進む。私はひとりだった。ひどく蒸し暑い夜で、闇の中、時折ざわめく木々の梢、その葉擦れの音と、自分の乾いた足音が響くのみだった。
自分の一部が麻痺したみたいだった。背中にも額にも汗をびっしり掻いているのに、不思議と、暑いという感覚がなかった。浮き出た木の根を踏まないように注意しながら泉への道なき道を行く、夏の夜。
ほたる池のほとりに、濃い影があった。人のかたちの影。立ち上がって、がさりと動く。私の体は咄嗟にびくりと撥ねた。
「……ハル」
ハルが呆然と立ちすくんで、私を見ている。うすい星あかりの下、その頬が、一瞬、光って見えた。涙の、あと。
「ハル。泣いてたの……?」
「泣いてない」
ハルは私を睨みつけた。
「帰れよ」
私は何も答えない。ハルはここで、苑子の魂を待ちながら、ひとりで泣いていた。
「帰れよ、果歩」
強い口調だったけど、声はかすれていた。
「苑子は」
「来ないよ」
帰れない、と思った。ひとりにはしておけない。暗い水面を睨みつけるハルが、ふらふらと、泉に引き込まれて深く沈んでいきそうな気がしたのだ。
十三歳の夏。苑子が亡くなって、はじめて迎えた新月の夜。蛍は飛んでいなかった。
一匹たりとも、飛んでいなかった。
焼かれて薄い煙となって空へのぼっていった苑子、信じられなくて、だけど苑子がどこにもいないのも事実で、胸が苦しくて、苑子に会いたくて、会って謝りたくて、嫌いなんかじゃない、ずっと苑子と一緒で楽しかったんだよ、と、伝えたくて、でも、抱えていたそんな気持ちのすべてを打ち捨てて、私は。
――ハルを、連れて行かないで。連れて行かないで。
ひたすらに、懇願していた。
お願い、お願い、お願い。
透明な青のかけら。苑子が私にくれたシー・グラス。子どもの頃から、宝物入れにしていた、お洒落なクッキーの入っていた綺麗な缶に、大切に仕舞ってある。苑子と一緒に撮った写真たちや、もらった手紙ややり取りし合っていたメモと一緒に。
取り出して見つめながら、新月のほたる池のことを思い出していた。結局私は身勝手な人間で、苑子を失った悲しみとハルを想う気持ちを天秤にかけたら、きっとハルの方に傾く。あのとき、ハルの涙を見て、胸が軋んだ。この期に及んで。
何千、何万回と、波にもまれたシー・グラス。輝きは鈍くなるけど、角がとれて、まるくなって、不意にだれかを傷つけることはしない。
私もできることなら、そんな人間になりたかった。
土曜日の朝、空気は澄んで、空の青は高いところにあった。バスに乗って、繁華街にある映画館へと向かう。
久しぶりにワンピースを着た。黒と白のギンガムチェックのシャツタイプのもので、すこし肌寒かったから、グレーのパーカを羽織った。もっと綺麗目な恰好のほうがいいのかもしれないけど、そんな服、ワードローブにない。そのかわり、誕生日に亜美からもらったコスメで、少しだけメイクをした。亜美のようにうまくまつ毛を塗れなかったけれど。
バスが停車する。運賃を払い、ステップを降りる。風が吹いてワンピースの裾が翻りそうになって、慌てて押さえた。
映画館の隣の書店で待っているとのメールを受け取っていた。まっすぐに向かう。先輩は参考書の棚で分厚い問題集を見ていた。そういえば彼は受験生なのだ。
「沢口」
先輩が私に気づいて手を挙げた。ぺこりと小さく頭を下げる。先輩は薄手のダークグレーのカットソーに細身のパンツで、寒くないのかな、と思ってしまう。
先輩がレジで会計を済ませるのを待ってから、店を出て、シアターへ。
「何か観たいものがあるんですか」
と聞くと、いや、特に、と先輩は首を振る。今、何が公開されているのかも知らないらしい。私にも、特に気になる作品はなく。結局、宇宙とタイムトラベルをめぐるSF作品を観ることになった。
隣り合って座る。先輩は無言だ。そのうち予告編がはじまり、私は画面を見つつも、時折、すぐ横にある先輩の顔を盗み見ていた。スクリーンの放つあかるい光に照らされる顔は整っていて、見た目だけなら恰好いいし、性格も、私に見せるのは嫌味で理屈っぽい側面だけで、本当は、もっと違う顔も持っている人なのだろう。私はそう思いはじめていた。
暗がりのなか、スクリーンに幾千の星が浮かび上がる。そうか、今から始まるのは、壮大なスペース・ロマンだった、と我に返る。
大画面で見る、CGがつくり出した宇宙はリアルだった。映画館の暗闇が、実は少し苦手なのだけど。今も少し、怖いというか。こころもとない。丸裸で無重力空間に放り出されて、わけのわからない大きな存在を見せつけられている自分。
ハルが、人間は蟻だと言っていた。
むかし、苑子とハルが、宇宙の始まりは怖いと言っていたのを思い出す。
苑子はどこへ行ったの――。
「沢口。大丈夫か?」
先輩の囁き声で我に返った。
「具合、悪いのか?」
「すみません。平気です」
ドリンクを飲んで、息を整える。
「外。出るか?」
首を横に振った。大丈夫だ。私はストーリーに集中しようと気持ちを立て直した。そして、ラストまで見続けた。
エンドロールを見つめる先輩が、鼻をすすっている。泣いているの、だろうか。
主人公は、宇宙空間で離れ離れになった恋人と、ラストで、奇跡的に再会するのだ。死んだと思っていたのに。死んだと思って、それでもひとりで生き抜こうと、必死でもがいて。本当は恋人も生きていました、だなんて。
私は泣けない。そんな都合のいい話があるはずないと、思ってしまったら。冷めてしまったのだ。
映画館が明るくなる。軽くのびをして、外へ出る。やはり先輩の目は赤い。
「ああいうお話に弱いんですか?」
「五月蠅い」
先輩はぶっきらぼうに言いすてて、すたすたと歩きだす。買い物客の群れの中をずんずんと進む。速い。はぐれそうだ。
「待ってください」
先輩は立ち止った。
「……沢口。飯、食おうか」
「はい」
外に出て少し歩き、メインの通りからはずれた、裏道にある小さな喫茶店に、先輩は私を連れ出した。
「美味いんだよ、ここ」
「よく来るんですか」
「子どもの頃に、親父に連れてきてもらっていた。映画を見た帰りに」
「そうなんですか」
うす暗くて、テーブルもカウンターも飴色で、店内には会話を邪魔しない程度の、ゆったりした歌謡曲のインストロメンタルが流れている。派手さはないけど、昔から常連さんに愛されてきたお店なのだろうと感じる。
先輩いち押しのナポリタンが運ばれてきた。ケーキも美味しくて、なかでもチーズケーキは絶品なのだそうだ。折角だし、もしも胃袋に余裕があるようだったら食べてみようかと考える。
「冷めるから先に食べろ」
「はい。いただきます」
トマトケチャップの濃厚さと玉ねぎの甘味、ハムの塩気のバランスが、どこか懐かしい。ずっと見られているのが落ち着かなくて、のろのろと食べていたら、先輩のオムライスも運ばれてきた。少し、ほっとしてしまう。
食べている間は、お互い無言で。音楽と、食器のぶつかる音と、外を走る原付の音、店員さんの足音、注文を取る声。音は溢れているのに、どこか静かで落ち着かない。
最後のひと口を食べ終えてフォークを置く。紙ナプキンで口を拭い、顔をあげたら。ひと足先に食べ終えていたらしい先輩と目が合った。
「珈琲。……飲むか」
「あ。はい」
「デザートに、何か頼むか」
「あの。チーズケーキ、気になっていたんですけど。でも、思ったよりおなかいっぱいになってしまって」
「そうか。じゃあ、ケーキはまた今度、ごちそうする」
また、今度。私は先輩から目をそらし、グラスに手をかけた。
「沢口が、良ければ。また一緒に」
はい、と答えた自分のからだが、ある予感に、強張っている。グラスの水をひと口飲んで心を落ち着ける。
店員さんがテーブルに来て、空いた食器を下げる。先輩が、そのタイミングで、珈琲を二つ、頼んだ。ふたたび沈黙が降りる。
沢口、と。ふたたび呼ばれた時、私のからだはびくりと震えた。
好きだ、と。出し抜けに、そう告げられた。
「俺と、つき合ってほしい」
「……でも。先輩、受験生だし。そんな余裕あるんですか」
「受験生だからだ。半年もしないうちに俺は卒業する。何も告げないまま、忘れ去られたくない。いつまでもだらだらと、沢口に会いたくて部活に顔を出し続ける自分も。中途半端で嫌いだった」
「私」
ふう、と、先輩はため息を吐いて、少し、笑んだ。
「困らせてごめん。俺のことが苦手なんだろう? 沢口に対して、ずっとあんな態度をとってきたんだから、当然だと思う。気を遣わなくてもいい、嫌ならはっきり振ってくれ。そのほうがすっきりする」
「私」
珈琲が運ばれてきた。あたたかい、かぐわしい湯気の立ち上るカップ。遮られた私の言葉は、それを飲み終わるまで宙ぶらりんのままで。珈琲の味はよくわからなかった。砂糖もミルクも入れないそれは、ただ、苦いとしか。
カップをソーサーに置く。私は決めていた。
「先輩の。彼女に、なります。よろしくお願いします」
頭を、下げた。ふたたび上げた時、先輩は。私の答えがそんなに意外だったのか、眼鏡の奥の目を、丸めて。それから、さあっと、赤く。染まった。




