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料理部は、お菓子でもおかずでも何でも好きなものを、皆でわいわい言いながら楽しく作り、食す、という、ただそれだけの活動をしている。文化祭では、焼き菓子を販売したりレシピを配ったりしているのだけど、普段は本当にゆるい。
週三回、火・水・木曜が活動日。火曜はミーティングと買い出し。顧問が顔を出せる水・木が調理日だ。つくるものを決めて、材料から予算をたて、買い出しに行き、調理室の冷蔵庫の一角、料理部が借りているスペースにて保存。レシートはとっておいて調理メンバーで割り勘にする。材料が余れば次回に持ち越すか、希望者が持ち帰ることになっている。
今日は木曜。シフォンケーキを焼く。
「何かの修行みたいだな」
と、つぶやいたのは理一先輩だ。私は卵白を泡立てる手を止めて、真横にいる先輩を見上げた。先輩は、粉を計量してふるう作業の途中だ。
「修行?」
「沢口のメレンゲ作り、だよ。一心不乱過ぎて怖い。とくに、目」
「真面目にやってるのにひどくないですか? 失敗してもしなくても、文句言われるんですね、私は」
ボウルを傾けて、泡だて器を掻き回す。
「ごめん。沢口、だいぶマシになってきたと思うよ。入部したての頃は、不器用すぎて、コントでもしてるのかと思ったぐらいだから」
失礼な。と、思ったけど、一応、成長を褒めてくれているようだから、私は小さくお礼を言った。
「どんなに下手くそな奴でも、がむしゃらに続けていればちょっとは見られるようになるってことだな」
褒められているようで、やはりけなされている。腹が立って、がしがしとメレンゲを掻き回し続けていると、
「もういい、ツノがピンと立つだろ、それでもう充分だ」
先輩に止められた。
メレンゲと泡立てた卵黄を混ぜ、泡がつぶれないように、粉を「さっくり」混ぜる。底から、素早く、と、理一先輩が急かす。
「どうですか」
「合格」
型に流し込んだタネをオーブンで焼き上げる。調理器具を片づけながら、皆で、十一月の文化祭で何をするか、アイデアを出し合う。
「ていうか理一先輩、文化祭、来るんですよね」
一年生の里美ちゃんが聞いた。先輩はうなずいた。
「余裕ですよねー。いつ勉強してるんすか?」
同じく一年の野村君が無邪気な疑問を投げかける。理一先輩は部活のない日でも自宅で料理をしているらしいのに、成績は常にトップクラスだ。
「時間を効率よく使うんだよ」
先輩はことも無げに言ってのける。そもそも私とは脳みその出来が違うのだろう。
オーブンが鳴った。オーブンは、今日は三台稼働していて、調理室はすでに甘い香りで満たされている。私がメインで作ったケーキ、今日はうまく膨らんでくれただろうか。
「沢口」
ケーキを取り出した先輩は、満面の笑みだ。
「やったな。上出来だよ」
相変わらず、すっごく、上から目線。そう思いつつも、私は拳を握りしめて小さくガッツポーズを作っていた。
試食を終えて、残ったケーキを包んでおみやげに持って帰る。シフォンケーキはしっとりときめ細かく、優しい甘さで、美味しかった。二切れある。一切れは母に、父は甘いものが苦手だから、もう一切れは、誰かにあげようか。
ふと、ハルの横顔が脳裏によぎったけど、亜美の言葉を思い出して、慌てて追い出した。
千尋さん。千尋さんにあげたいと、思いついた。
かつて私は千尋さんの前で泣いて、親子丼を振る舞ってもらって、それをきっかけに、食べることを取り戻した。だから今度は、私がつくったものを、千尋さんに。
裏門を出て亜美と別れ、ひとり自転車を漕ぎながら、そんなことを考えていると、背後から私を呼ぶ声がして、ブレーキをかけて振り返った。
「沢口ー」
理一先輩だ。先輩が、走っている。私のほうに向かって。私は自転車から降りた。
「どうしたんですか?」
「忘れ物だ、これ、お前のだろ」
息を切らした先輩が差し出したのは、確かに、私のハンドタオルだ。忘れてきたことすら気づかなかった。
「わざわざ、すみません。先輩の家、逆方向なのに」
「いいんだ。最近、体動かしてなかったから、いい運動になった」
日はもうすでに沈み、空はすみれ色の黄昏、薄い月と一番星が光っている。早く帰らないとあっという間に暗くなってしまう。私はハンドタオルをポケットに仕舞うと、サドルにまたがった。
「ほんとうに、ありがとうございました。先輩もお気をつけて」
もう一度頭を下げて、ペダルに足をかける。と、先輩が、
「送っていく」
と。いきなり言った。びっくりして彼のほうを見ると、異様に固い顔をしている。
「暗いし、女子ひとりで帰るのは危ないだろう」
「いえ、でも、先輩、歩きだし。先輩が、帰り、遅くなっちゃいますよ。私は自転車を飛ばしていくので平気ですから」
「沢口」
私を呼ぶ声が、妙に切羽詰まっている。私は、先輩の真剣な目つきに呑まれてしまって、身をすくませて、小さく、「はい」と返事をした。
「俺が送りたいんだ。……その、沢口を」
「……はい」
「迷惑だろうか」
「…………」
「ごめん、迷惑だな。冷静に考えれば、俺に合わせて沢口を歩かせることになるし、かえって帰宅が遅くなってしまう」
「はい、あの、でも」
肩を落とした先輩を見ていたら、少し申し訳なくなってしまった。
「お気持ちは嬉しいです。ありがとうございます」
「……いや」
「あの。それから、今日のケーキも。美味しくできて、感動しました」
本当だ。自分で作ったものを美味しいと思ったのは、生まれて初めてだ。入部してこのかた、今まで自分の失敗作を、さもしく「処理」するだけだったし、家でつくる料理も、不味くはないけどどこか素っ気ない味で、何かが足りなくて、食べてくれる家族に申し訳ない気持ちでいた。
「明後日。土曜日。何か、予定はあるか?」
出し抜けにそんなことを聞かれる。私は少したじろいだ。
「え? いえ、とくに、何も」
「じゃあ、その。映画でも観に行かないか」
「それは、その」
ふたりで、と、いうことでしょうか。と聞くと、無論、と、固い声が返ってくる。
少し考えさせてください、と、私は答えた。
車輪の回る音がする。先輩と別れ、ふたたび漕ぎだした自転車の、切り裂く空気は澄んで冷たかった。団地に着いた時、空はすでに藍に染まり、夜が始まろうとしていた。
E棟の階段を昇っていく。冷たいコンクリを踏む音がもうひとつ、私のあとから追いかけてくる。歩を止める。足音はすぐに追いついた。昔から変わらない。ハルの足音はすぐにわかる。
「今、バイト帰り?」
「おう。果歩は部活? もう、いいのか、具合」
「大丈夫だって言ったじゃん」
ハルは息を弾ませている。自転車を飛ばしてきたのだろうか。この間注意したばかりだし、まさかイヤホンで音楽を聴きながら漕いでいたわけじゃないとは思うけど、気をつけてほしい。事故は、怖い。ハルだって、充分すぎるほど、わかっているとは思うけれど。
「ハル」
「ん?」
邪気のない目が私を捉える。私はバッグからケーキの包みを取り出した。
「これね、うまくできたから。千尋さんに食べてほしいんだ。渡してくれる?」
「おふくろに? なんで?」
「ん。いいじゃない、べつに」
「俺にはないわけ」
ない、と、言おうとしたけど。母に上げようと思っていたほうの包みを、ハルに押し付けた。ハルは早速包みを開け、あっという間に食べてしまった。
「ちょっと、ここ、階段」
「なんだこれ、すげーうまい」
「……あのさ、」
「果歩がつくったの? ほんとに?」
「……疑ってるの?」
いや、とハルは首を横に振った。
「すげーじゃん。果歩。また作ってよ」
にまっと笑う。私はふいっと顔を背けた。
「もう作らない」
いったいぜんたい、どうして、ハルにケーキをあげてしまったのだろう。
私は。ただ、ハルが。苑子のような事故に遭わずに、安全に、平穏に、毎日を過ごしてくれればと、そう思ったのだ。もうあんな思いをするのはたくさん。そう思っただけだったのに。
「じゃね」
素っ気なく告げて、私は階段を駆け上った。
「ケーキ、サンキューな」
ハルの声が聞こえた。もう絶対にあげない。さっきはどうかしていた。
その日の、夜。私は先輩にメールを送った。
――土曜日。映画、行きます。
すぐに、了解、の返事が来た。
先輩の固い表情、朱く染まっていた頬を思い出す。目を閉じる。まぶたの裏に、亜美の耳を飾っていたピアスの、きらめき。
恋をしてみればいいのかもしれない、と、思った。どうしても逃れられないのなら、いっそのこと。逆に、飛び込んでみるのだ。