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青をあつめる  作者: せせり
17歳
18/35

6

 ひと雨ごとに秋は深まる。

 翌日はすっきりと晴れて、雲ひとつない青空が広がっていた。だけど気温はぐっと下がって、そのせいか、喉が少し痛い。りんご味ののど飴をひとつ、口に放る。

 甘酸っぱい果実の味のあとから、すうっと、はっかの風味が追いかけてきて鼻から抜けていく。

「果歩。俺にもちょうだい、それ」

 広げていた古文のテキストの上に、大きな手のひらが、すっと現れた。

「それから。俺にも見せて、それ」

「自分で訳さなきゃ自分のためにならないよ?」

「苦手なんだよ、古文」

 ハルの手を軽くはたくと、私はポーチから、もうひとつ飴を取り出してハルに放った。

「さんきゅ。朝から喉イガイガしてて」

「寒くなったもんね」

 昼休みの教室のざわめき、舌で転がす丸い飴の、甘みと、酸味。ハルが私の前の席の椅子を借りて座った。私はテキストの続きに戻る。

「亮司が、さ」

「……杉崎くん?」

杉崎亮司くん。高校でも相変わらず目立つ存在で、うちのクラスにも、憧れている子がいる。かつて、片思いしていた苑子をハルにとられたかたちになったというのに、杉崎くんとハルは未だに仲が良いようだった。

「亮司が。狭山のこと紹介してほしいって言ってるんだよね」

「亜美?」

「気に入ってるんだってさ」

「残念。亜美、好きなひといるよ」

 もてるのに、自分から好きになったひとには振り向いてもらえない星のもとに生まれてきたのだろうか。しかし、亜美と苑子の共通点は顔が可愛いことぐらいだ。面食いなのだろう。

「杉崎くんとハルって、そういう話、するんだ?」

「誰が可愛いとか、そういう話の流れになることはある。俺は聞いてるだけだけど」

「ハルも、彼女の相談とかすんの?」

「は?」

「バイト先の子だっけ。ふたりで歩いてるの、うちのお母さんが見たって言ってた」

 スカートの短い女の子。と、言ったら、ハルは、ああ、と、後頭部を掻いた。

「うちの高校の子?」

「ちがうよ、フリーター」

「まさかの年上? やるじゃん、ハルのくせに」

 あのなあ、と、ハルは大きなため息を吐いた。

「まじでちがうから。おばさんにも言っといて」

「じゃあなんでふたりで歩いてたの?」

「うるせーなあ、なんでもいいだろ?」

 うんざりしたようなハルの声色に、我に返った。詰め寄るような言い方になっていたかもしれない。それに、そもそも、ハルが誰と何をしようが、私には関係のないことなのに。

「……断ったんだよ、つき合わないかって言われたけど」

「…………」

「いい人ではあるけど好みじゃないから、ただそれだけ」

「好みとかあるんだね、ハルの分際で。選り好みなんて贅沢」

「ほっとけ」

 はは、と小さく笑って、古語辞典に手をかけた。ぱらぱらとめくる。とくに調べたい単語があるわけじゃなかった。

 たとえどんなに綺麗で性格の良い子が現れたって、苑子には敵わない。

 十三歳の苑子は、琥珀のなかに閉じ込められたみたいに、いつまでも変わらず、綺麗なまま。汚れないまま。

「どうした? 果歩」

 おもむろに席を立った私に、ハルが怪訝な目を向ける。

「ごめん、ちょっと。トイレ。テキスト、写していいよ。五限始まるまでに机に戻しといて」

 ラッキー、果歩さまさま、と、ハルが調子のいいことを言うのを背中で聞く。私はトイレへ駆けた。個室にこもり、そのまま何もせず、ただ、ぼうっと立ちすくんでいた。ハルの前から去りたかった、ただそれだけ。そのうちに予鈴が鳴ったけど、教室に戻るのが億劫になってしまって、とりあえずトイレを出て保健室に向かった。

 エスケープ、と、言ってもいいのか。

 人生、初。サボり。

 気分が悪いと養護教諭に訴えると、顔色が悪いけど、貧血じゃないの? と言われた。

 大丈夫です寝不足なだけです、一時間だけ休ませてください、と言って、ベッドに横たわった。先生がタオルケットをかけてくれる。

 自己暗示にでもかかったのか、そのうち、本当に気分が悪くなってきた。下腹部が妙に重だるい。目を閉じてタオルケットを頭からかぶり、まるくなる。胎児のように。

 涙がこみ上げてくる。悲しいことなどなにもないのに、どうしたのだろう。おかしい。

 あふれた涙は頬を伝って、流れていく。止まらない。

 自分のことが疎ましい。

 ハルに彼女ができたわけじゃなくて安堵した自分も、すぐさま苑子を思い浮かべて勝手に傷ついてしまった自分も。もう苑子はいないのに。ううん、いないから、……。

 いつの間にか、私は眠っていた。

 先生に肩を揺すられて目を覚ます。チャイムの音が響いていた。一時間、経ったらしい。

「大丈夫? 戻れる?」

「大丈夫です」

 からだのだるさは相変わらず、というか、むしろ、下腹部の痛みは増していた。身を起こした瞬間、どろりと、熱いものが流れ落ちる感覚があった。まさか。私は慌ててトイレへ行った。

 月のものが、はじまっていた。この間、終わったばかりなのに。

 保健室へ戻り、生理用品をもらって、ふたたびトイレへ行って手当する。今月、二回目だ。二か月来ないこともあれば、月に二度、短い生理をみることもあって、安定しない。

「おなか、痛い? 沢口さん、生理、重い方なの?」

 丸椅子に腰かけた私に、先生が労わるように、語りかけた。保健室には、今、誰もいない。まるで診察室での問診のようだ。

「いえ、ただ、……おかしい、ような気がします。周期がないというか、リズムが、めちゃくちゃなんです」

 母にも姉にも話したことはない。

「高校生ぐらいだと、まだ、からだが大人になりきってないからね、勿論個人差はあるけど。病院で相談してみたほうがいいと思うな」

 婦人科は、怖くもないし恥ずかしくもないのよ、と先生は続ける。はい、と、かすれた声が漏れ出る。

「無理なダイエットとか、してない?」

 首を横に振る。

 痩せようなんて思ったことはないけれど、一時期、ごはんが食べられなくなったことはあります。心配した母にカウンセリングにも連れて行かれていました。先生が合わなくてすぐに辞めたけれど。今でも、食は細いほうだと思います。料理部なんて入っているくせに。作るどころか、そもそも、食べることが好きではありません。

「先生」

 先生は。薄い眼鏡の奥の目を細めて、首をわずかにかしげた。物腰のやわらかい、優しげな人。地味な雰囲気だけど、よく見ると綺麗な人。

「……何でもありません」

 私はうつむいた。

 女なんて、嫌です。

 

 ポーチを探ると鎮痛剤が二錠あったから、それを飲んで六時間目の授業をやり過ごした。ホームルームが終わり、帰り支度をしていると、ハルが私の席に来た。

「大丈夫? 今日、送ろうか?」

「大丈夫、寝不足だっただけだから。ちょっと休んだら良くなった」

「でも」

 顔色が、と言いかけたハルを遮る。

「あんた今日もバイトでしょ? 団地まで戻ってたら間に合わないよ」

 私も部活に行くし、と言うと、ハルは、無理すんなよ、とため息を吐いた。じゃね、と私は小さく手を振ってみせる。そのまま、亜美の席に。亜美も今日は部活に出ると言っていた。

本当は、まっすぐ家に帰ろうかと思っていたけど、やめた。薬も効いてきたし、何かしていたほうが気が紛れる。

「どうして島本とつき合わないの?」

 廊下を連れだって歩きながら。亜美が、いきなり直球を投げてきた。

「果歩のこと気にかけてくれてんじゃん、さっきだって」

「腐れ縁の友達だからね、きょうだいに近いっていうか」

「そう? むしろ夫婦って感じに見えたけど」

 立ち止まる。思いがけず真剣な目をした彼女に、不意打ちをくらって黙り込んでいると、

「もういいんじゃない? 三年経ったんだよ」

 さらに亜美は畳みかけた。

「亜美?」

「島本のもとカノが、果歩の親友だったんでしょ?」

 開け放たれた廊下の窓から、乾いた風が吹きこむ。男子生徒がふたり、ふざけ合いながら私たちの横を走りぬけて、軽くぶつかられて私はよろけた。咄嗟に、亜美が私の腕をとって引いた。

「何なのあいつら、ガキじゃあるまいし」

「亜美。……どうして」

「みんな知ってるよ。たくさんいるじゃん、一中出身者。そりゃ、誰かが教えてくれるよ」

「……早く調理室に行こう。また先輩に嫌味言われちゃうし」

 亜美は私をつかむ手に、きゅっと、力を込めた。

「果歩。もういいよ、島本に言いなよ、す」

「好きじゃないから。本当に」

「果歩」

 そっと、亜美の手を引きはがして、歩き出す。「三年」が、長いのか短いのかはわからない。ただ、未だ、私は私を持て余している。

 苦しくて、忘れようとしても、まぶたの裏に青が蘇る。窓の向こうに広がる空も青、至るところに青があって、それは、苑子が存在したことの揺るぎない証のようだった。

 亜美は黙って、ふたたび私の手をとった。あたたかな手。もうそれ以上彼女は何も言わず、そのかわり、別館の一階にある調理室まで、ずっと、つないだ手を離すことはしなかった。


 

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