5
冷たい雨が降り続いている。
バスを降りて傘を開く。透明なビニール傘、コンビニで売っている安物だ。傘を叩く雨の音でさえも安っぽく響く。十月の雨。冬服のブレザーを着ていても肌寒くて、思わず身震いした。部活を終えて、私はひとり、帰路についていた。雨の日は自転車ではなく、バスを使う。
今日も理一先輩にねちねちと叱られた。曰く、沢口は段取りが悪い、沢口は大ざっぱすぎる、なぜきっちり計量しない。などなど。
ため息を吐きながら坂道をのぼっていく。色あせた彼岸花が雨に打たれて朽ち果てている。花のいのちは短い。
オガワのシャッターは降りている。今日は休みなのだろうか、珍しい。ベンチが雨に濡れている。自動販売機横にいつもあるガチャガチャは、店の中に仕舞われているのか、姿がなかった。
結局、ハルは化石ガチャガチャをコンプリートできたのだろうか。ふとそんなことを思う。ダブったと言って押し付けられた直角石の化石を、私は未だ持っている。苑子は虫入りの美しい琥珀をもらったというのに、あまりの扱いの差に、少し笑ってしまう。
寒い。
歩を早める。ローファーが路面の水を踏んで飛沫が跳ねた。
苑子の葬儀の日も雨だった。ちょうど梅雨のさなかだったから、気温は高くて蒸していたのに、いまよりずっと寒かった。
「挨拶してあげて」と、黒い着物を着た、苑子のお母さんに言われて。祭壇の前、白い棺の蓋を開けると、苑子が、化粧をほどこされて目を閉じていた。一瞬で、苑子はもう動かないのだと悟った。「それ」は、苑子だけど苑子じゃなかった。固く。つめたく。いのちの灯は、もう、消えてしまっていて。二度と、戻ってこない。
喪服を着た担任、団地の大人たち、読経、同級生のすすり泣く声。あの真紀でさえ泣いていた。
ハルは泣いていなかった。青い顔をして。ずっと祭壇のうえの遺影を睨みつけていた。
ビニール傘を、雨のしずくが伝っていくのが見える。
火葬場へ向けて出発する霊柩車の長いホーンの音が耳の奥に蘇る。苑子の骨を拾うなど、想像もしたくなくて、私もハルも火葬場へは行かなかった。見送りを終えると、すすり泣きの声も次第に止み、じっとりと降る雨のなか、クラスメイトは三々五々に帰りはじめ、私の肩を母が抱いて、私たちも行こう、と、促されたけど。首を横に振って、私は、ずっと立ちすくんだまま動こうとしないハルに歩み寄った。母はため息をついて、千尋さんと一緒に先に帰った。
私とハルはふたりになった。
否。ふたりではなかった。
どこからともなく、濡れそぼった喪服の男の人が、ふらりと現れて。霊柩車の向かった先を見つめて、うなだれて、そして、手を合わせたのだ。四十代ぐらいだろうか、ぱっと見た感じでは、私の父と同年代ぐらいに見えた。傘も差さずに、雨の中ずっとどこにいたのか。何故斎場に入って、苑子の亡骸に手を合わせなかったのか。そう思ったとき、背すじに冷たいものが伝った。
「……あいつだ。苑子を、殺した奴」
それまでずっと黙ったまま、涙さえも流さず、人形のように冷え固まっていたハルが。口をひらいた。ぞっとするほど抑揚のない、低い声だった。
参列した団地の大人たちが、事故の加害者が参列を断られて門前払いになったとひそひそ噂していた。苑子のお母さんがその男を見るやいなや泣き喚いたのだと。頭がぼんやりしていてその時はうまく意味を拾えなかったけれど。
あのひと、が。
ハルは、ふらりとその男に近寄って、正面に、立った。目を閉じて手を合わせていた男が、顔をあげた。その瞬間、ハルが。
男を、殴った。
にぶい音がした。
「やめて!」
咄嗟に、私は、叫んでいた。
駆け寄って、ハルを押さえつけようとして、すごい力で阻まれた。
「やめてハル。やめて」
ハルは男の胸倉をつかんで、なおも殴りつける。自分より上背のある、中年の男に。男は抵抗せず、されるがままになっていた。十三歳の子どもに。痛めつけられて、涙と鼻水を流している。
「ハル、ハル」
怖かった。ハルは私の知っているハルじゃなかった。目が。目が、支配されている。暗い、重い、どうにもならない、やるせない、
「やめてっ!」
暴力を止めたかったわけじゃない。このままだと、ハルが呑まれてしまう。それが、ただひたすらに、恐ろしかった。私は必死でハルの腕にしがみついた。
ハルまで、遠くに行かないで。二度と手の届かないところへ、行ってしまわないで。
ハルが腕を払って私を振り切って。そのはずみで、私の体は濡れたコンクリに投げ出されて倒れた。
「果歩」
ハルがはっと目を見開いた。戻ってきた。昔から一緒にいる、気心知れた、普段と変わらない、ハルの目だった。
正気に返ったハルがしゃがみこんで私を起こす。
男は。男は、泣いていた。泣きながら、すみません、すみません、と。壊れた機械人形のように、繰り返していた。
思い出すと、みぞおちのあたりに、重苦しい痛みが沈む。
どこにでもいる、人ごみに紛れて風景の一部となってしまうような、普通のおじさんだった。そのことが衝撃だった。あんな普通の人に、苑子が殺されたなんて、うまく脳の回路がつながらなくて、ハルのようにまっすぐに憎しみをぶつけることができない。
それに。
いくら憎んだところで、苑子は戻ってこない。
あの日、雨が降っていなかったら。あの人が、あんなにスピードを出していなければ。苑子がハルの仲間に加わっていれば。私が。つまらない嫉妬さえしなければ。
降りしきる雨、空を覆う雲。朱に染まらない夕暮れ、E棟の、古びたコンクリの階段をのぼる。じっとりと雨の気配が満ちていた。
雨が嫌いだ。嫌なことばかり思い出す。
我が家のドアを開けると、珍しく、夕餉のにおいが私を出迎えた。クリームシチューだ。
「おかえり」
母がにこりと笑んだ。
ただいまを告げて、バッグからタッパーを取り出して電子レンジで温める。料理部で作った唐揚げを持ち帰って来たのだ。
「あら。一品増えた。ラッキー」
母はサラダのボウルをダイニングテーブルに置いた。ずいぶん白髪が増えたな、と思う。
「お父さん今日も遅いんだって、先にふたりで食べようか」
「うん。荷物置いて、手、洗ってくるね」
明るく振る舞わなければ。明るく。もともと私は明るい子だったのだ。
食卓につくと、母は、早速、唐揚げをつまんだ。
「美味しい。なかなか、よく出来てる」
頬張りつつ、発泡酒の缶を開けている。
「ほとんど先輩がつくったから、それ」
中温でじっくり揚げて一旦バットに上げて余熱で火を入れ、再び高温の油で揚げ、表面をかりっと仕上げる。私は油撥ねが怖くて遠巻きに見ているだけだった。「ガキかおまえは」と、散々文句を言われた。
点けっぱなしのテレビから、時おり、わっと笑い声があがる。
「今日、晴海くん見た」
「ふうん」
「日の出マートの近くでね、女の子と一緒に、歩いてた」
「ふうん」
「バイト仲間かな、あの子。まさか彼女だったりして。果歩、何か聞いてる?」
「何も」
シチューをすくって口に運ぶ。
「晴海くんああ見えてモテるの? 結局あんたとは何もなかったみたいでつまんないけど」
勝手に勘違いしておいて、その言い草はない。
日の出マートはハルのバイト先だ。学校ではとにかくぼうっとしてる奴だから、レジを打ち間違えたりしていないのか心配になるけど、一年近くクビにもならずに続けているところをみると、それなりに戦力にはなっているのだろう。
「可愛い子だったよ、なかなか。ただ、スカートは短すぎだね。あれじゃあ足が冷えるよ、駄目だよ女の子が体を冷やしたら」
「お母さん。まさか、じろじろ見たんじゃないよね? やめなよ、趣味悪い」
「ちょっと後をつけただけだもん」
母は舌をぺろっと出した。亜美がやると可愛いけど、母がやると少々寒い。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
「ん。部活で、試食してきたから、それ」
唐揚げを指差す。母は、そう、と、少しだけ眉を下げた。
私は席を立つ。
ハルに彼女ができたのなら、それは喜ばしいことだ。前へ進んでいるということだから。亜美の言う通り、世の中には、ハルの寝癖を可愛いと思うような物好きが、わりといるのかもしれない。