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細い、針のような雨が降っている。
苑子の傘が。鮮やかな青が。跳ね飛ばされて、転がっていく。
目が覚める。頭が鈍く痛んでいた。涙が頬を伝っていく。
繰り返し、繰り返し、見る夢。いつも、泣きながら目を覚ます。声も上げない。嗚咽もない。ガラス窓を伝う雨のしずくのように、ただ、流れ落ちていくだけ。
*
「かーほっ」
唐突に、後ろから抱きつかれた。亜美だ。亜美は、ぎゅうっと、私の腰に回した手に力を込めた。登校して、下駄箱で靴を履き替えているところだった。
「おはよう亜美、痛いって」
「あたしの愛は痛いのだ」
苦笑して、そっと、亜美の手をひきはがす。頭痛はだいぶやわらいでいた。朝飲んだ薬が効いてきたのだろう。起きたときから雨の気配があった。窓の外を見ると、案の定、曇っていた。頭痛は雨が近いせいか、それとも、あの夢のせいか。
「果歩、今日もすっぴんだね」
亜美が私の前に回り込む。
「高校生なんだし、すっぴんなのは当たり前でしょう?」
「果歩の、そういう真面目なとこ、嫌いじゃないけど。でも、もうちょっと遊んでみてもいいのに」
「遊ぶ?」
校舎の階段を登って行く。亜美は弾むように駆けあがって、私を追い越した。
「チャラチャラするって意味じゃないよ? うーん……。うまく言えない」
あたしって語彙力ないからさあ、と、亜美は自分の短い髪をわさわさと掻いた。その瞬間、きらりと、何かが光った。
「亜美。ピアス」
あ、と、亜美は左耳に手をやった。
「外すの忘れてた」
「なんでピアスなんてつけてるの。珍しい」
アクセサリーの着用は、もちろん校則違反だ。とはいえ、教師が厳しいわけではなく、そもそも枠からはみ出したがる生徒がいないから、皆、空気を読んで、あえて派手に着飾らないのだ。
亜美の隣に並ぶ。男子生徒ふたり組が、猛ダッシュで私たちを追い抜いて行く。
「これさ。彼の真似なんだよね」
亜美はピアスを撫でた。小粒の、コットンパール。
「彼?」
「ん。片思いなんだけど。ていうか名前も知らないんだけどね、朝、電車で一緒になるんだ。野之崎工業の制服でね、何年生なのかわかんないんだけど……。ピアスしてて」
亜美はうっすらと頬を赤らめた。
「だからあたしもピアス開けてさ。気づいてほしくて、彼のそばに立って。電車降りてから、駅のトイレではずすの」
だから何って感じだよね、と、亜美は、彼女にしては珍しく、自虐めいた笑みを浮かべた。
「そろそろ。思いきって話しかけてみようかなって、思ってる」
そっか、と、私は、亜美の背中をぽんと叩いた。
「頑張って」
「うん」
好きなひとのために、まっすぐに頑張れる亜美が。少し、まぶしい。
「果歩はさあ、いないわけ?」
亜美は、話の矛先を私に向けた。ふたり揃って教室へ入る。何も答えず、まっすぐに自分の席へ向かう私に、亜美はなおもまとわりついてくる。
「理一先輩? それともやっぱ、あの幼馴染くん?」
どさりと、荷物を机に置いて。真顔で、目の前にいる亜美の丸っこい目を、じっと見つめる。亜美の瞳は澄んでいる。澄んで、きらきらと輝いている。
「どっちも、ないから」
ハルとの関係を勘繰られたことは、亜美以外の人からも、何度かある。だけど、理一先輩のことを言われたのは初めてだ。
「先輩は天敵。ハルは、手のかかる弟。それ以上でも以下でもありません」
淡々と告げると、亜美はリスのように頬を膨らませた。
「つまんないのぉー」
「ごめんね、面白い話題を提供できなくて」
「ん。でも、さ。理一先輩のほうは、果歩に気があると思うけど」
「え?」
「ん?」
あたし何かおかしなこと言った? と、亜美の顔に書いてある。いや、おかしいから、と、私は言った。
「どこをどう解釈すれば、そういうことになるわけ?」
「見たまま、感じたまんまだよ? 果歩にだけ細かくダメ出しするし、何かと気にしてる」
「それは私があまりにダメだからでしょ?」
「ていうか幼馴染くん、来たよ。髪。ちょこっと跳ねてるね」
いきなり、ころりと話が変わった。亜美の視線の先、気だるげに教室に入ってきたハルが、大きなあくびをかましている。
久々の寝癖。中学の頃は毎日のように跳ねていた髪も、この頃は落ち着いていたのに。
ハルのほうを見ないように、スクバからテキストを取り出して机に仕舞う。亜美は、にやりと笑った。
「島本って、たまーに、髪、ぴょこんと跳ねてんの、カワイイよね」
「は?」
「なんてこと思ってる女子もいるかもよ? 果歩のほかにも」
「ちょっ……。私は別に、そんなこと思ってないから」
「はいはい」
亜美はいつもそうだ。私をからかっておもしろがって笑う。
「怒った? 怒った果歩? ごめんねー」
笑いながら私の頬を指でつついてくる。もう無視することに決めた。
「お似合いだと思うのになー。幼馴染は鉄板でしょ、やっぱ」
「あのね。ほんとに、ありえないから。もう、そういうこと言うの、やめてね」
「自分こそ。いつまでもそんなこと言ってると、誰かにとられちゃうよ?」
そう告げた亜美の声は低く落ち着いていて。何も答えない私の頭を、慰めるようにぽんぽんと撫でた。
――亜美。ハルにはもうひとり、幼馴染がいるの。
心の中で、そっと。明るくて気のいい友人に、そうつぶやく。
ハルはもう、誰のものにもならない。




