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放課後の調理室には甘い香りが満ちている。バター、卵、砂糖、それから、少しのバニラ・エッセンス。
「混ぜすぎだ、沢口。もっと手早く、さっくり混ぜろ」
元・部長の戸田理一先輩が、冷たい声を私に投げる。
「頭ではわかってるんですけど。そもそも、さっくり、って、どうやるんですか」
お菓子づくりの本には必ずと言っていいほど登場するセンテンス、「さっくりと混ぜる」。料理のセンスが皆無な私にはイメージすることすら難しい。
貸せ、と、先輩は私からボウルを奪った。
「いいか。切るように、底から、こう。……ああ、これは駄目だ。もう手遅れだ」
ふちなしの眼鏡の奥の、切れ長の目が、明らかに落胆している。理一先輩は大きな水玉模様のエプロンをしているけど、まったく似合わない。むしろ、白衣が似合いそうな雰囲気がある。
「混ぜすぎると粘りが出てしまうんだ、グルテンの作用で。スイーツには致命的だ。スポンジはふんわり仕上がらないし、クッキーにおいては、さくっとした食感が失われてしまう」
スイーツ、という単語が浮いている。理一先輩には、もっとこう、固い言葉が似つかわしい。たとえば、過酸化水素水、とか、マイコプラズマ、とか、そういう無機質な単語。
私は、先輩に「手遅れ」と言われた生地をまとめてラップにくるんだ。一旦、冷蔵庫で寝かせる。その間に調理器具を洗う。
料理部の部員は十名ぐらいだったと思うけれど、週三の活動でも、全員そろうことは滅多にない。今日は五人だから、二人と三人に別れてクッキーをつくっている。私には、「指導だ」と言って、理一先輩が付いた。顧問の先生はいつも隣の家庭科準備室で自分の仕事をしていて、時折、見回りに来る。
苦手なはずの料理部に、亜美に誘われるがままに入ってしまった。ずるずると、もう一年も続けているのに、まったく上達しない。
ただでさえ失敗してばかりなのに、先輩が無表情でちくちくダメ出しをしてくるから、萎縮した私はミスを連発してしまった。バターと卵が分離したり、砂糖の分量を間違えたり、ふるった粉がボウルからはみ出し過ぎて調理台が真っ白になったり。
すらりと背が高く、細面で、すっきりした目鼻立ちにさらりとそよぐ栗色がかった髪、そして眼鏡。滅多に笑わないところがクールで格好いいとか、一部の女子には人気があるらしいけど、小姑のようにねちねちと細かいし、私は、はっきり言って苦手だ。
そもそも。三年生は受験に専念するために夏に引退するという部が殆どで、うちもそれに習って、一応、三年の活動は夏まで、ということになっているのだ。だけど、理一先輩は相変わらずちらほら顔を出す。多分文化祭も参加することになると思う。
粉を振った調理台に寝かせた生地を乗せ、麺棒で伸ばす。
「厚みが均一になるように。そうしないと、焼きむらができるからな」
わかってますと答えた。わかっているけど不器用すぎて生地はぼこぼこ、嫌になってしまう。理一先輩のため息が嫌味っぽく響いた。
燃えるような赤が風にそよいでいる。彼岸花だ。毎年毎年、忍び寄った秋の空気が夏のそれと入れ替わる頃合いに現れる、不思議な花。
息吹が丘公園のぐるりや、植込みの際に、にゅっと伸びた茎が現れて花をつけている。茎だけで葉がどこにも見当たらないことも、考えてみれば、奇妙だ。
子どものころ、彼岸花を手折った苑子の指が、真っ赤にかぶれたことを思い出す。一緒に摘んだ私の手は平気だった。苑子の指にだけ、彼岸花の汁が触れてしまったのだろう。
――苑子だけが。
クッキーを口に放る。まずい。固いし、もそもそしてるし、焦げているところもあるし。何より全然甘くない。なんとか租借し、ペットボトルのお茶で流し込んだ。
部活を終えて、家へ帰る途中。公園のベンチでひとり、クッキーを食べている。小学生たちがサッカーボールを追い回していて、そこここで土埃が舞っていた。
調理室にて。焼きあがったクッキーを口にしたとたん、理一先輩は真顔で黙り込んでしまった。亜美たちの班がつくったものばかりが減って、私たちのクッキーには誰も手をつけない。捨てるわけにもいかないし、失敗したのは私のせいだから、責任を持って引き取った。いったいぜんたい、どうして私は料理部などに入っているのだろう。
六時を知らせる鐘が鳴る。「ななつのこ」のメロディ。空は朱に染まっている。最近、陽が落ちるのが早くなったなと思う。
夕飯前なのに、もうおなかがいっぱいになってしまった。持って帰ったところで家族は誰も食べないし、食後のデザートにするにはあまりにもな出来だ。空腹という名の調味料を振り掛けねば、処理できそうもない。
処理。
食べ物に対して、あんまりな言い方をしてしまったと、少し落ち込んだ。だけど、何も受け付けなかった、無理して食べても吐いてしまっていた、あの頃に比べれば、まだましになった。
――つぎの新月はいつだろう。
ベンチから立ち上がった私の視界に、神社の森が入り込む。染まりゆく空のなか、黒々としたシルエットになっていく。
三年前の春。あのとき苑子は、弟の存在を感じていたんじゃないだろうか。
蛍の声が聞こえたと、言っていた。
きっと苑子は、私とハルには聞こえなかった声を聞き、見えなかったものを見ていた。
苑子が弟に会えたのなら、私やハルに苑子が見えても、おかしくはないはずなのに。
苑子が死んだあと、何度もほたる池に行った。月のない、真夜中の森へ。ひとりで家を出ても、毎回、ハルに出くわした。団地の敷地で、この公園で、神社へ続く石段で。
暗闇のなか、人のかたちをした影ががさりと音をたてたときの恐怖。ふるえながら懐中電灯のかよわい光を当てたら、それがハルだったときの安堵。やがて私は驚きもしなくなった。お互い、苑子の面影を探しに来ているということが暗黙の了解になっていた。
毎月のように森へ行っていたのに、半年ほど経った頃、母にばれて、止められた。
泣きながら、どこにも行くなと、私を抱きしめた母。
疲れ果てて、辞め時を探っている頃だった。ほんとうは、苑子に会えないことはわかっていた。自分のためだった。苑子のためになにかを続けて、それで、……赦されたいと、願っていた。
団地の敷地にも、彼岸花が咲いている。
初夏のころはあじさいの青。秋のはじめは、彼岸花の赤。今、あじさいの花は枯れ果てて、小さく茶色く干からびている。
夕餉の匂いが漂いはじめる午後六時。住棟の窓に、ちらほらとあかりがつきはじめる。
A棟の308にも、もうあかりがともっている。かつて苑子一家が住んでいた部屋。今は、若い夫婦が入居している。このあいだ、奥さんが赤ちゃんをベビーカーに乗せて散歩しているのを見た。いつ生まれたのだろう。
葬儀のときは気丈にふるまっていた苑子のお母さんは、その後、みるみるうちに痩せていって、青い顔をして、深夜にふらふらと彷徨うようになっていた。新月の夜、ばったり会ったことがある。「あら果歩ちゃん」と話しかけられたけど、その目は、私を通り越して、どこか遠くを見つめていた。
不運のあとには幸運が来ると、不運も幸運も皆、最初から同じ数だけ持っていると、苑子は言っていたけれど。それは違うと、私は今、はっきりと言える。
自分のこどもを、二度も失うなんて。
まるで、狙い撃ちされているみたいで。
葬儀から三か月後、苑子の両親はひっそりと団地を去った。苑子の祖父母の、そしてお墓のある、海辺の街へ。引っ越していったのだ。
いつか苑子がくれたシー・グラスを、私は今も大切に持っている。彼女が、あの水色のかけらを拾った砂浜のある街。そこで苑子は眠っている。
E棟の階段を登っていく。ハルの家の窓は暗かった。千尋さんは仕事だし、ハルもまだバイトから帰ってきていないのだろう。
差し込む朱い陽に照らされる。五階通路から空を見ると、丸い陽を射るように、飛行機雲が伸びている。明日は降るかもしれない。
鍵を回し、ドアを開ける。
誰もいない。両親の帰りが遅い時は、何も言われなくとも、夕食は私がつくることになっていた。せっかく料理部に入ったことだし、何か役にたつことをしないと。
着がえて、手を洗って。エプロンをつけて、冷蔵庫を物色する。
「たまご。鶏肉。……親子丼、かな。あとは、残り野菜でサラダぐらいなら」
限られた食材から、簡単なメニューなら思い浮かぶようになった。美味しくつくれるかどうかは、また別の話だけど。
しなびたレタスの、傷んだ葉をむいて、水道の蛇口をひねる。水が、勢いよく流れ出す。
――果歩ちゃん、ちゃんと食べてる?
ふいに耳の奥に蘇る、千尋さんの声。自分の親の前では固く扉を閉ざしていたのに、千尋さんの前では、私は。堰を切ったように流れ出した涙を、止めることもしなかった。
冬休み、最初の日だった。ちょうど仕事が休みだからと、私を家に招いてくれた。ハルがいるなら行くわけにいかないと、一旦は断ったのだけど、千尋さんが、どうしてもと粘ったのだ。私が果歩ちゃんに会いたいんだよ、と。
親子丼をつくることになって、私は千尋さんを手伝った。ハルがスーパーへおつかいに出されて、ふたりきりになったタイミングで。千尋さんは言った。
「晴海ね。夜、眠れないみたい。こっそり家を抜け出して、外をふらふらしてるみたいで。私が家にいるときは、すぐに戻って来るけど。夜勤のときとか、どうしてるんだろう……」
灰色のため息のような、つぶやきだった。千尋さんも疲れていたのだ。私は、ハルが、新月以外の夜も、毎晩のようにさまよい出ていることを知った。
苑子のお母さんのことを、どうしても連想してしまって、からだがふるえた。
「ハル、学校でも笑わないんです。ぼうっとして、いつも、どこか遠くを見てるような」
もともとぼうっとしてる奴ではあったけど、そういうのとは、明らかに違った。感じることを、考えることを、ことばを、ひかりを、絶えず入ってくる情報を、シャットダウンして。どこか遠い場所へ心を持っていかれてしまっていた。
玉ねぎの皮を剥く。指先がふるえて、うまく薄皮をつかめない。
重い沈黙に、押しつぶされそうになる。それを破ったのは、千尋さんだった。
「果歩ちゃんは。まだ、晴海とつきあってるの?」
彼女が何を言っているのか、一瞬、理解できなかった。ほんとうに驚いた。ずっとずっと、千尋さんは誤解し続けていたのだ。
「つきあってません。全然、そういうんじゃ、ないんです。ハルがつきあってたのは……」
涙が、あふれ出す。
「苑子、です。私じゃなくて」
頬を伝う。次々に、伝っていく。止まらない。千尋さんは、驚きで目を見開いて、それれから、ふっ、と。やわらかく細めて。私の背中に手を回し、そっと撫でた。
「私、苑子に、ひどいことをした。苑子をひとりにした。あの日も。私のせいで、苑子は」
「違う」
きっぱりと。千尋さんは、言った。
「違う。果歩ちゃんのせいじゃない」
「でも」
「違う」
私は。ただ、ただ、泣くことしか、できなかった。
あたたかい手が、ずっと、私の背を撫でている。
苑子が死んでから。枯れるまで涙を出し尽くしたと思っていたのに。死の知らせを受けた時より、葬儀の時より、お棺のなかの白い顔を見た時より。泣いた。
――ざあああああああああ
一瞬、雨が降り出したのかと思って。私ははっと「現在」に返った。音は雨ではなくて、蛇口から勢いよく流れ出す水だった。手にはレタスの玉。ああ。サラダをつくろうとしていたのだった。
玄関の扉が開く音がする。ただいま、と、母の、疲れた声が響いた。




