2
自分が、自分じゃないみたいだ。
トイレから戻ったあとも、手鏡を覗いて、いちいち確認せずにはいられない。どうにも落ち着かなくて、すべてを拭きとってしまいたい衝動にかられる。
「だいじょうぶだって、可愛いから」
亜美は私の肩を叩くと、足取りもかろやかに、自分の席に戻って行った。
うっすらとファンデを塗られた肌はいつもよりなめらかで、眉も綺麗なアーチを描き、まつ毛はくるんと上を向いている。
チャイムが鳴って、担任が教室へ入ってきた。出欠をとるとき、私の顔を見て、ぴくりと眉を動かした。気づかれたかもしれない。だけど、黙認。亜美は、教師も大目に見て見逃してくれる程度の、軽いメイクを施したらしい。経験から、ここまではオッケーという、ラインを心得ているみたいだ。
亜美だけじゃない、女子のほとんどが、日々、こういう技を磨いているらしかった。通っているのは真面目な生徒ばかりと周りに思われている、半端な進学校で。それでも、少しでも綺麗であろうとして、だけど決して浮かないように、眉をひそめられないように、微妙なさじ加減を探っている。
私はそういうものとは無縁でいたかった。なのに。
――ほんとうに、可愛いんだろうか。
薄づきのファンデの乗った肌を、指先でなぞる。ほんの少しのメイクで、高揚してしまう自分も、確かにいて。だから落ち着かない。
「……今日までだから、まだの人は、今、提出すること」
担任の声で我に返る。隣の席の子に聞くと、「進路希望調査」と、ひそめた声が返ってきた。進路調査票。私の希望進路は去年から変更なし。配られた、その日のうちに書いて出していたから関係ない。進学希望か、就職希望か。進学なら、国公立大か、私大か、短大か。専門学校か。志望校はどこか。最終的にどういう職を目指すのかを書く欄も設けられていた。具体的に決まっていない者は、ざっくりした希望だけでもいいから書くようにと念を押されていた。
あと二年もしないうちに、私は卒業して、この町を出る。きっと、ハルも。
そっと、目を伏せた。ハルの進路なんて知らないし、聞くつもりもない。だけどきっと。
慌ただしくホームルームが終わり、私はすぐさま、次の授業のノートを開く。予習した箇所のチェックをするためだ。もともと理数科目が苦手だったくせに理系に進んでしまったから、ついていくのがやっとだ。
――教えるけど? 数学。
何度か。ハルは私にそう言った。
最初は、中学の頃。赤点ばかりだった私を見かねて。塾の先生に聞くからいい、とつっぱねた。誘われていた部活をはじめることはせず、かわりに私は、二年の夏休みから塾に通いはじめていた。家にも学校にもいたくなかったのだ。
高校生になってからも。全教科、ぐんと難易度はあがり、毎日の予習復習は必須で、特に数学と化学は、授業内容がなかなか理解できずに、振り落とされてしまわないように精一杯だった。だけど、ハルにだけは、頼るわけにはいかないと思った。
ハルは教室の、窓側、一番後ろの席にいる。背が高いから、席替えのくじを引いても、結局は後の席へと追いやられてしまうのだ。
私は大体いつも、前から二番目あたりの席になる。だからもう、ハルが私の視界に入ってくることはない。
二年七組は、男子が多い。男女比は、大体、七対三だ。
一緒に行動する女子の友達は、亜美はじめ、違う中学出身者ばかり。いろんな事情を知らない子と過ごす方が楽だ。
中学時代。あの頃苑子の悪口を言いまくっていた真紀たちとは、お互いやんわりと距離をとるようになった。真紀たちだって気まずいのだ。いくら嫌っていたとはいえ、まさか亡くなってしまうなんて、ショックだったと思う。ほかの友だちも――、あれ以来、私に対して、一枚、薄い膜を隔てたような接し方をするようになってしまった。
やさしさ、の、膜。
苑子と姉妹のように育って、いつも一緒にいた私の。まだかさぶたのできていない傷に、うっかり触れてはいけないと、気遣ってくれていた。
勉強も通学距離もきつくはなったけれど、高校に入学して、少しだけ呼吸が楽になった。
楽になりたいと無意識に願っていた自分を、私は、嫌悪している。
昼休みになった。五限目のリーダーの教師は、いつも出席番号順で指名していく。今日あたり、当たりそうだ。ノートを開いて、英語が得意な亜美のノートとつき合わせて訳の間違いをつぶしていたらば。
「島本ー。島本、いるかー?」
担任が教室に入ってきた。ハルが何かやらかしたのだろうか。知りませーん、と、教室にいた男子達が答える。
「しょうがないなー。放送かけるか」
先生のぼやきが聞こえる。私はため息をついて、ノートを閉じた。立ち上がり、出て行こうとした先生を呼び止めた。
「私、呼んできます」
ハルのいるところなど、あそこに決まっている。
教室を出て階段を降り、靴を履きかえた。コの字型になった校舎の真ん中にある、中庭、その端に銀杏の木がある。校舎ができる前からこの土地に生えていたらしい銀杏の木は、それなりに大きくて、秋になると黄金色の葉が舞い落ちて、芝生の上に降り積もる。今はまだ色づき始めた程度だけど、陽に照らされると明るく光って見えた。
ハルは銀杏の下のベンチで惰眠を貪っている。雨風にさらされて変色してぼろぼろになったせいで誰も座ろうとしないのをいいことに、ハルはここを勝手に自分のスペースにしてしまっている。どこででも寝る人間だ。ベンチに仰向けになって、開いた漫画本を顔に伏せ置いて眠りこんでいる。長い足はベンチから大きくはみ出していた。とてもじゃないけどリラックスできる体勢とは言い難い。
「ハル」
起きない。
「ハル!」
耳を思い切り引っ張り上げると、さすがに目を開けて、いててて、と身を起こす。
「なんだよ、果歩かよ」
不機嫌な声。私はこれ見よがしにため息をついてみせた。
「田辺先生が探してた」
「俺、何かしたっけ」
「進路調査票。白紙で提出してたんでしょ」
田辺先生が私に愚痴を漏らしたのだ。ほんとに島本はつかみどころがない、沢口は隣同士で子どものころから知ってるらしいな、どうなんだ、あいつは昔からそうなのか、と。
昔からそうです、と、私は答えた。
一年の時だって、進路調査も面談もあったのに、ハルはどうしていたんだろう。千尋さんはノータッチなんだろうか。
「果歩は、ちゃんと書いたわけ」
「ま、一応ね」
ふうん、と、ハルは、気のない答えを返して、そのあといきなり顔をしかめた。
「どしたの」
「いや。ちょっと首がちくっと……。やべ、蟻だ。噛まれた」
ハルは首すじを掻いた。そのせいで、太くて筋張った首が赤く染まって、私は思わず目をそらす。
「蟻って。今噛んだ俺のこと、ちゃんと認識できてないよな」
「は?」
「いや。蟻は小さいだろ? だから、俺の全体像は把握できない。あまりに小さすぎて、壁か何かだと思っているだけだろうな、って」
「……はあ」
「人間もそうだよな、蟻みたいなもんだ。思考する蟻」
なにを言っているんだろう。ハルは昔から、いきなり、そういう突拍子もないことを語り出すことがある。
「小さいんだよ、小さすぎて、自分たちの外側にある壁がなんなのか認識できない。たとえば宇宙とか時間とか、運命とか、そういうの。でかすぎてさ。一生懸命考えるけど、ほんとうのすがたにはたどり着けない」
「……進路調査票」
「わかんねーことだらけだ」
「進路、調査票。ちゃんと書けって、先生が」
「頭がおかしくなりそうだ。何で、どうして、って、ずっと考えてて」
「とりあえず今から職員室に来いって言ってた、時間ないから急いで行きなよ」
「果歩は、看護師になんの?」
不意打ちに、え、と、私はことばを詰まらせた。
「きついって言ってるけど、うちの母親」
「ていうかなんで知ってんの?」
私が看護師になると決めていることを。
その問いを、ハルはさらりと無視した。
「時間は不規則だし、精神的にも、肉体的にも、きついって。若いときは乗り切れたけど、最近は体がついていかない、きついってやたら言ってる」
「きつくない仕事なんてないでしょ」
「いや、それはそうだけど。きついからやめとけって言ってるわけじゃない、けど」
誰にも言ったことはないが、千尋さんの影響だ。暗い渕に沈んでいた私を、一旦、岸まで引っ張り上げてくれたひと。私は彼女を目標とすることで、とりあえず、先に進む力を得た。
「いいじゃん。私が何を目指そうがハルには関係ないし」
「関係なくない。おまえ、やっていけんの?」
「やっていけると思う。私、誰かの役に立ちたい。誰かの命を救う手伝いをしたい」
せめて、せめて。苑子を助けられないのなら、せめて、他の、たくさんの病めるひとを。
「救えればいいけど。救えないことだってあるだろ? ……人が死ぬとこ、たくさん、立ち会うんだよ。耐えられんの?」
まだ青いままの銀杏の葉が、いちまい、ひらりと落ちてくる。蝶のように。
人が死ぬ。ハルがそのことばを口にした刹那、心臓が氷で撫でられた。三年前のあの日から、私たちは、ナーバスになりすぎている。いい加減、強くならなくてはいけない。
「耐えられるよ、きっと」
ハルが、何かを言おうと口を開きかけたけど、遮るように、私は続けた。
「私、苑子の分も生きなきゃいけないから。ちゃんと、生きなきゃいけないから」
たくさんの人に言われた。苑子の葬儀のあと、苑子の両親にも、うちの両親にも、当時の担任にも、団地の大人たちにも、異口同音に。苑子ちゃんのぶんも、しっかり生きるんだよ、と。
だけどハルは。
「誰かの分も生きるとか、そういうの、好きじゃない」
吐き捨てるように、言った。
「苑子が言ってた。生まれてこなかった弟のぶんもしっかり生きてねって、親にいつも言われてた、って。それがしんどくなることがあった、って。生きてるだけでいいんだよ、何かを背負うことなんかないよ、果歩だって」
苑子が抱えていたもの。生まれてこなかった弟が、苑子に負わせたもの。親友の私には、ひとこともそんなことは言っていなかった。でも、ハルには。
弱くてやわらかい、「ほんとうの自分」を、見せていたのだ。
乾いた風が吹く。どこで咲いているのか、金木犀の甘い香りがふわりと広がり、私にまとわりついた。毒のように私の中を回っていく。
絆、と言ってよいのか。ハルと苑子をつなぐもの。分かり合っていた、分かち合えていたふたり。私のいないところで、ふたりで。
「よっ」と、ハルはベンチから立ち上がった。一気に、私の目線が上がる。
「今から行く。先生のとこ」
ハルは私の横をすり抜けた。のったりと歩き出す大きな背中。
「果歩」
ふいに、振り返る、ハル。その目が、細く、笑んでいる。
「なんかあったの?」
「……なんで?」
「や。なんか、いつもと違うっつーか。塗ってんだろ、顔」
「なにそれ。ペンキみたいな言い方しないでよ」
そういえば、亜美に化粧をされていたのだった。恥ずかしさで顔に一気に血がのぼる。
くくくっ、と、からだを二つに折り曲げて、可笑しそうにハルは笑う。
「ごめん、似合うって」
「バカにしないでくれる?」
私はハルから目をそらし、銀杏の木の幹を睨みつけた。そのまま、ハルが立ち去って、その気配が消えるのを、じっと、待っていた。
未だに、未だに。
毒のように。ゆっくりとからだじゅうを回っていく。
金木犀の香り。