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十七歳
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また、あの夢を見た。
頭が鈍く痛む。ゆらりと洗面所へ向かい、蛇口をひねる。勢いよく流れる水は、冷たい。きのうの朝より、冷たい気がする。空気も。薄い肌掛けだけだと、寒いぐらいだ。
顔を洗う。何度も。洗って、ふかふかのタオルで包み込むようにして水を拭きとる。柔軟剤のかおりを吸い込んで、顔を上げると。十七歳の私が、鏡に映った。
お、は、よ、う。
ゆっくりと、大きく、口を動かす。おはよう、私。
また、朝が来た。私にはきちんと朝が来る。陽は昇り、私の時は進む。
目の奥で、まだ、夢の残像――鮮やかな青が、ちかちか瞬いている。
歯を磨き、いったん自室に戻って制服を着て、ダイニングでトーストとインスタントのスープだけの朝食をとっていると、皿の横に、サラダの小鉢とカフェオレのマグが、とん、と置かれた。
「誕生日おめでと」
母が、にっと笑った。ん、と私が短く答えるのを確認すると、母は自分のバッグをつかんで慌ただしく出て行った。父はとっくに出勤している。県外の大学に進学した姉は、卒業と同時に家を出てひとり暮らしをしている。
冷凍食品のミニカップをレンジに放り込む。弁当箱にごはんを適当に詰め、空いたスペースに母が用意してくれていた卵焼きとウインナー、レンジから取り出した冷食を詰めた。
さっと食器をすすいで水に漬け、包んだ弁当箱をスクバに入れる。身支度をして、家を出る。空気はさらりと澄んで、はっか飴のようにすうっと涼しい。
今日から、十月だ。
団地の駐輪場に行くと、ハルがいた。自分の自転車のそばにかがみこんでいる。何か落としたのだろうか。
「……おはよ」
丸まったハルの背中の後ろから、ぼそりとつぶやくと、ハルはのったりと立ち上がって私を見下ろした。スポーツもしないくせに無駄に背が高い。昔は私より少し高いぐらいだったのに、あっという間にぐんぐん伸びて、今では、隣で見上げていると首が痛くなってしまうほどだ。
ハルにも、時は流れている。細胞は日々分裂して、骨も伸びていく。
「おはよ、果歩」
低い声でつぶやいて、ハルは、ブレザーのポケットから伸びたイヤホンを耳に挿した。ポケットに手を突っ込んだときに小銭の擦れる音がした。さっき拾っていたのはこれだろう。はだか銭をポケットに入れっぱなしにする癖は相変わらずだ。
私はハルのイヤホンを引っ張った。
「チャリ運転しながら聴くのやめなよ。危ないから。もし、」
もし、の続きを。私は飲みこんだ。ハルは何も言わず、もう片方のイヤホンも耳から抜いた。
きっと、同じことを、連想していた。
私は黙って自分の自転車に荷物を載せた。かたん、とスタンドを跳ね起こす。市の中心部にある高校へは、自転車で通っている。そこそこ進学校だ。できるだけ団地から近い、普通科のある公立高校を選んで受験した。私大へ行った姉の学費と仕送りで両親はいっぱいいっぱいだから、授業料も交通費も安く抑えたかった。
ハルも似た様な理由でうちの高校を受け、入学し、クラスまで同じだ。二年になって文理別になったから、同じ理系で成績も近い私とハルが同じクラスになるのは、自然なことではある。
ハルは私を待たずに、先に自転車を出して漕ぎ出していた。のに、急に止まって、引き返してくる。
「どしたの。忘れ物?」
「ううん。今日から十月だろ? 果歩、そういや誕生日だったなって」
「…………」
「おめでと」
どういう顔をしていいのかわからなくて、私は固まった。ちゃんと喜んでいいんだよと、三年前の秋に、千尋さん――ハルのお母さんに、言われた。苑子ちゃんが亡くなってしまったのは悲しいことだし、どうしようもないことだけど、晴海や果歩ちゃんは、これからも、楽しいことは楽しむべきだし、おめでたいことは祝うべきなんだ、と。それとこれとは別なんだよ、と。
「果歩」
「ん。ありがとう」
ハルはほっとしたように少し笑って、ふらふらと自転車を漕ぎだした。その姿が見えなくなってから、ようやっと、私も自転車に乗る。
団地の敷地を出て、ブレーキレバーを握りしめながら、細い坂道を下って行く。すこんと青い空に、薄くひつじ雲が広がっている。流れゆく景色の中、ほのかに、金木犀の甘い香りが混じっていた。
二年七組の教室は喧噪を極めていた。ドアを開けて足を踏み入れた瞬間、男子たちのわけのわからない雄たけびと、食べ物の匂いと(朝から放課後まで、とにかく誰かが何かを食べているのだ)、狭山亜美の、キイの高い「おはよーっ!」の声がいっしょくたになって私を飲みこんだ。からだは小さいのに声だけは大きい亜美は、満面の笑みをうかべて駆け寄ってくると、私の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でまわした。飼い犬にするみたいな。ずいぶん雑な可愛がり方ではあるけど。
「おはよ亜美」
乱れてしまった髪を撫でつけながら冷静に告げると、亜美は、小鼻をふくらませて「むふふっ」と笑って、
「ハッピーバースデー果歩、これあげるっ!」
と、小さな紙袋を私に押し付けた。
「ねえ開けて? 開けてみてよ?」
「ありがと、でも、その前に、自分の席に行ってもいいかな? 私まだ、荷物も片づけてないし」
亜美は大きな瞳をぱちりとしばたくと、「いっけね」と舌を出した。
「待ちきれなくてさ。一分一秒でも早く渡したくて」
「亜美って、行列のできる店に並ぶとか無理なタイプだよね、どんなに美味しくても」
「うんうん」
「あと、隠し事もできない」
「うん。もー耐えられなくなっちゃう。しんどくって」
「じゃ、亜美には絶対秘密は打ち明けないことにする」
「えーっ」
いちいちリアクションが大きい。栗色がかったショートカット、華奢で小柄で、制服はゆるく着崩し、スカートは短くてひざ小僧がまるまる出ている。高校に入学してできた、最初の友達だ。というか、一方的に懐かれたといったほうが正しい。
自分の席で、亜美にもらった包みを開く。
リップ。グロス。マスカラに、ビューラー。
「十七なんだし、果歩もちょっとはこういうのに目覚めてもいーんじゃないって思って。プチプラブランドばっかで申し訳ないけど」
亜美が私の机の真横にしゃがみこんで、私の顔をのぞきこんだ。
「ありがとう。でも、私」
「やったげよっか。まつ毛」
「えっ……」
にいっと笑うと、亜美は立ち上がり、私の腕を引いた。私は引きずられるようにして女子トイレに連行されてしまった。