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つぎの日も、ずっと雨は降り続いていた。降っては止み、止んでは降り。明るい陽の射さない、見ているだけでため息がもれるような、淀んだ空。
苑子は、ハルに手紙を渡した。……らしい。私はその場に居合わせたわけじゃない。それどころか、苑子本人から報告されてもいない。
ハルに聞いたのだ。
夕方だった。うちのドアの前で、ハルは私を待っていた。ジーンズのポケットに両手をつっこんで、背中をまるめて、そわそわと落ち着きがない。私に気づくと、ほっとしたように表情をゆるめた。
私は近所のスーパーから帰って来たところだった。お母さんから、帰りが遅くなると連絡がきて、私が夕ご飯をつくる羽目になったからだ。お父さんも仕事だし、お姉ちゃんも部活で遅い。帰宅部で塾にも行っていない私だけがヒマ人だから、当然、こうしてちょくちょく家事を手伝わなきゃならない羽目になる。
「何してんの、ハル」
「ちょっと、相談っていうか……。でも、いいや。いまからメシつくるんだろ?」
私が手にしているエコバッグを見て、ハルが申し訳なさそうに眉をさげた。
「べつにいいよ? すぐできるし」
バッグの中身は、ひき肉と豆腐と、麻婆豆腐のもと。残念なことに、私は料理が絶望的に下手で、冷蔵庫にあるものを適当に組み合わせて、ちゃんと食べられるものを仕上げられるスキルがない。だけど、さすがに「もと」を使えば、失敗はない。あとはインスタントのたまごスープでも添えればいいだろう。
「とりあえず、中、入れば?」
ハルはこくりとうなずいた。
ハルをリビングに通す。冷蔵庫に食材を仕舞い、お湯を沸かす。雨のせいで冷えるから、冷たい麦茶より、きっと、あたたかい飲み物のほうがいい。
ひさしぶりだな、と思う。隣同士だし、鍵っ子同士だし、互いの家を行き来するのはしょっちゅうだったけど、中学にあがってからは、そんなことはめっきりなくなっていた。
苑子は女子だからいいけど。ハルは、さすがに。
ソファに座ったハルの顔は固い。テーブルに、コーヒーのマグと砂糖のポットを置いた。
「どうぞ」
「ありがと」
「インスタントで悪いけど」
私がつくるものは、大抵インスタントだ。便利な世の中で良かった。
私もソファに座る。はしっこに。できるだけ、ハルとの間に距離がほしい。昔は、なにも考えず、隣に座ったのに。
沈黙の中、コーヒーの湯気が漂って部屋を満たす。自分のマグに手をのばしたところで、ハルが、「あのさ」と、切り出した。
「苑子に、その」
苑子。
「もう? もう、もらったの?」
「……。なんで、知ってんの」
そりゃ、話は聞いてたわけだし。だけどまさか、こんなにすみやかに行動を起こすなんて思わなかった。
「どうしよ、俺。こういうの、はじめてだし」
心臓がどくどく音をたてていた。ゆっくりと息を吸って、マグを両手でつつみこむ。
「つきあえばいいじゃん」
冷静に。冷静に。
「ハルだって、好きなんでしょ? 苑子のこと」
ハルは。ゆっくりと、うなずいた。ばかみたいに赤くなっている。首すじも、耳たぶにいたるまで。ばかみたいに、赤く。
「でも俺、彼氏とか彼女とか、そういうの、わかんねーし。何すればいいわけ、つきあうって」
ほんとにばかだ。
「私だってわかんないけど。……一緒に帰るとか。一緒にどこか出かけるとか。とにかく一緒にいればいいんじゃない?」
お互い、好きなんだし。両想いなんだし。
手の中のマグカップの、茶色い液体が、揺らめいている。
「自信ないんだ。なんで俺、って。亮司みたいにイケメンでもないし、取り柄があるでもないし」
「バカじゃないの、あんた」
ぴしゃりと。殴りつけるように、言いすてた。
「堂々としてなよ。苑子はハルがいいの。ハルじゃなきゃダメなの」
ハルが顔をあげて私を見た。いつもの眠そうな目じゃない。まるで、大事ななにかを見つけたような、光のともった目。
「わかったならさっさと帰って。私、今から麻婆豆腐つくるんだから」
「あ。ご、ごめん」
ハルは律儀に、コーヒーを一気に飲み干して、流しに運ぼうとしたから、「いいから」とマグを奪った。
「ごめん。果歩」
「ん」
「ありがとな。なんか、ふっきれた」
「いいから帰れって」
しっしっ、と、野良猫を追い払うようなしぐさでもって、ハルを追い出す。ほんとに、はやく帰ってほしかった。
麻婆豆腐をつくらなきゃ。はやく。
ひとり残されたキッチンに、しずかに降り注ぐ雨の音。夜の気配が迫ってきて、私はその場にうずくまった。
ハルと苑子のことは、三日もしないうちにクラスメイトたちのうわさにのぼった。
「いつも寝ているひと」という認識しかされていないハルと、おとなしくて目立たないけど「実は」かわいい苑子。バスケ部エースの杉崎くんを振って、ハルとつきあうだなんて。どういう経緯でそうなったのか、みんな、本人たちじゃなくて、ふたりの幼なじみの私に聞いてくる。
普段から、みんなにいい顔をして、嫌われないように愛想笑いを振りまいてきたから。だから、そういう役目がまわってくるのは仕方ない。
「小さい頃から一緒にいるから、そういう気持ちになるのも自然なんじゃない? 知らないけど」とか、「ハルはああ見えて優しいとこあるから。苑子には、特に」とか。「どっちが告ったかなんて知らないよ。ただ、時間の問題だとは思ってたけど」とか。適当なことをその場しのぎで答えるたびに、鋭い棘が自分に刺さって。自分で自分にナイフを突き立てているみたいで。痛かったけど私は笑っていた。
苑子は、もう、私とは一緒に帰らない。登校するときだって。苑子と待ち合わせるのは、私じゃなくてハル。ハルは、苑子のために、苦手な朝を克服している。親や近所の大人たちに知られたくないからって、わざわざ団地の外で待ち合わせをしているらしい。
今朝。ふたりが、並んで、お互い目も合わせずに、ぎこちなく坂道を下って行く姿を見た。もっと早起きしなかったことを、私は悔やんだ。
ハルに苑子をとられた。恋愛なんて興味ない、わからないって、ふたりして言い合ってたのに、いつの間にか、遠くに行ってしまった。苑子も。ハルも。
私ひとり、取り残されてしまった。だからこんなに胸が軋むんだ。私は、そう、自分に言い聞かせていた。
ガラス窓を雨のしずくが伝っている。帰りのホームルーム。期末考査一週間前、部活も休みになるが、ちゃんと真面目に勉強するように、と。先生が言っている。
さよならの挨拶をして、一日のカリキュラムが終わる。とたんにざわめく教室、苑子がまっすぐに私の席へ来た。
「果歩ちゃん。帰りに、図書館に行って、一緒に勉強しない?」
「ハルは?」
「ハルくんも。三人で」
はにかむような笑顔。恋をして、ますます苑子は、綺麗になった。
「じゃ、いい。おじゃま虫だもん」
「果歩ちゃ……」
ごめん、と、あわててフォローする。無意識に、きつい言い方になってしまった。
「果歩っ!」
明るい大きな声が私を呼ぶ。教室後方のドアに寄りかかるようにして真紀が立っていて、目が合うと、笑顔で、私に手招きした。
「真紀ちゃんたちと約束してたんだ。ごめんね。苑子はハルとふたりで勉強でもなんでもして。私に気をつかわなくて全然いいから」
とっさに。早口で。そう言った。嫌味っぽく響かなかっただろうか。
私は自分のスクバをつかむと、真紀のもとへと駆けた。