10
六月になった。
私は今まで通り、苑子と行動をともにしている。学校でも、学校の外でも。真紀たちとも、やっぱりこれまで通り、ほどほどに仲良くしている。だけど、真紀たちが、休み時間にひそひそと何か耳打ちし合っているのをよく見かけるようになった。苑子のことをちらちら見ながら、そして、時折、私に意味ありげな視線を投げるのだ。
あの子たちの気が変わるまで、気づかないふりして受け流すしかない。
「果歩ちゃん。ため息。どうしたの? 幸せ逃げるよ」
苑子が私の顔をのぞきこんだ。
昼休み。私たちはふたりで、教室のベランダの手すりにもたれて、だらだら過ごしている。
「私、ため息ついてた?」
こくこく、と、苑子はうなずく。
今日は風がなくてひどく蒸し暑い。雲が出てきたし、雨が近いのかもしれない。
「ねえ、苑子。幸せってほんとに逃げるの?」
「逃げるかもだよ」
「でも、幸せのあとには不幸せがくるんだよね? 苑子理論でいくと。それが本当だったら、最初から幸せもいらないって思うけどな、私は」
大きな幸せをつかんだら、同じくらい大きな不幸せも、あとでやってくるということになる。それじゃ、喜べない。
苑子は、くすりと笑った。
「いらないって思っても、自分じゃ決められなくない? やってくる幸せも、不幸せも」
「そういうものかな」
「果歩ちゃん。私ね。そろそろ、勇気を出してみようかと思うんだ」
「勇気……?」
「幸せを、自分からつかみにいく、勇気」
先週、席替えがあって、ハルと苑子は隣同士じゃなくなった。
ハルのあたらしい席は窓側から二列目、前から二番目。窓側、うしろから二番目にいる私の視界に、ちょうど入ってくる。ハルは男子の中では背が低い方だし、前にいても全然黒板を見る邪魔にはならない。それに、大抵突っ伏して寝てるし。今だって寝ている。給食のあとに眠くなる気持ちはわかるけど。
数学の先生がグラフだか関数だかの説明をしているのが、耳の中を素通りしていく。
まさか、苑子が、自分から告白するタイプだなんて思わなかった。だから正直、びっくりしている。
シャープペンシルを、くるくる回す。直接言うのは勇気がいるから、手紙を書く、らしい。いまどきラブレターだなんて、いかにも苑子という感じだけど。
苑子はちんまり小さい文字を書く。細くて白い手で丁寧に文字を綴って、封をして。ハルみたいな、居眠りしてばかりのがさつな男子に、そんなものをあげるなんて、もったいない。今日も遅刻ぎりぎりだったし。授業中も、しょっちゅうあくびしてるし。一体、何回あくびするんだろう。ほんとに、ダメな弟って感じ。
ハルが身を起こした。もう先生もあきらめているのか、注意も滅多にされない。夜更かししていて眠いのか、それとも、学校なんてだるくてつまんないとでも思っているのか。
「……口。沢口」
後ろの席の子に、背中をつつかれる。それでやっと、自分が先生に指名されていることに気づく。先生はあきれ顔だ。
「大丈夫か? 沢口、問三だぞ。いいな。つづき。問四、鶴岡。問五、井上。以上、式と答えを板書すること」
何ページの問三だろう。となりの子に聞いて、そそくさと黒板へ向かう。途中、ハルが、すれ違いざま、私に、こっそりと小さな紙片を渡した。
式と、解が、書いてある。
どーせわかんないんだろ、と。余計なひとことも付け足されていた。
自分も寝ていたくせに問題はしっかり解けるとか何なの。むかつきながらも、自分のノートに紙片をはさんで、ハルの解いた答えを、そのまま黒板に書いた。
自分の席へと戻るとき。ハルがにやっと笑ったのがわかったから、ふいっと横を向いた。
わからなかったんじゃありません。先生の話を聞いていなかっただけです。
先生の話も聞かずに、ずっと私は。私は……。
私は、それ以上考えるのをやめた。
放課後、苑子と連れだって校舎を出たころには、空は厚い雲で覆われていた。
「やばい。降るかなあ。私、今日、傘忘れたんだよね」
「私は持ってるよ」
苑子が自分の傘を得意げに掲げた。真っ青な、傘。
「それ、はじめて見る」
「おろしたてなんだ。はっとするほど青いでしょ? ひと目見て、気に入っちゃって」
わりと大きいから、あいあい傘も余裕だよ、と、苑子は笑う。
今日は遠回りして帰る。苑子の、レターセットを買いに行くのだ。
空気はぬるく湿っていて、歩いているからだにまとわりついてきて不快だ。
郵便局の裏手にある小さな文具店は、店自体は古いけど、いまの若い店主に代替わりしてから、品ぞろえがおしゃれになった。紙のにおいやインクのにおいが満ちているところは昔と同じで、なんだかほっとしてしまう。
苑子が手に取るのは、やっぱり、青系統の色ばかり。
「ねえねえ。これ可愛くない? 水玉模様だけど、よーく見たら、しずくのかたちが混じってるんだよ」
苑子は目をきらきらさせて、私の袖を引く。
「可愛いけどさー。どうせハルに渡すんでしょ? あいつ、レターセットのデザインなんて見ないって、絶対」
それに、わざわざ新しく買わなくたって、手紙好きの苑子はたくさんかわいい便箋も封筒も持っているのだ。私にちょっとしたことを書いて渡してくれるメモ紙すら、愛らしい。
「そうかもしれないけど」
苑子はほっぺたをふくらませた。
「だってラブレターだもん。勇気ふりしぼるんだもん。一生一度の大告白だもん。気合はいっちゃうよ」
「一生一度って、そんな大げさな。これからずーっと、大人になっても、ハルとしかつき合わないつもり?」
「そうだけど?」
苑子は首をかしげた。
「もし、ハルくんがオッケーしてくれたら、だけど。できれば、一生、ハルくんのそばにいたいなって」
「わわっ。結婚する気なの? もう、そんなこと考えてんの?」
「へん? ……ていうか、重い、かな」
それは……。そんなのわかんないけど、と、私はもごもごと口ごもった。
「あっ。これ、素敵」
いきなり苑子のテンションが跳ねあがった。手にしているのは、淡いブルーの、シンプルなレターセット。
「普通じゃん」
「よく見て。ところどころ、銀色で、三日月や星たちが型押しされてるでしょ。きらきらしてるけど、さりげなくって。こういうの、好きだなあ」
「私はしずく水玉のほうが好きだけど」
一応、そう言ってみたけど、苑子は、もう迷わなかった。一目ぼれしたレターセットを手にレジへ向かう。これ、と決めたらその意志は揺るがないのだ。見た目も雰囲気も儚げで、話し方もおっとりしてるけど、中身は違う。一本芯が通ってるというより、固い固い石が詰まってるんじゃないかとさえ思う。こんなふうに、苑子の買い物に付き添ってアドバイスしても、結局私の意見が通ったことはない。
お店を出たとたん、ぽつぽつと、雨が降り出した。苑子は傘を開いた。ぱんっ、と、気持ちのいい音が響く。
「どうぞ」
「ありがとう」
苑子が差しかけてくれた傘に入る。青。鮮やかな。目の覚めるような。まじりけのない青のなかに、苑子とふたり。
まばらな雨が傘を叩く音が響く。私は苑子に、前から不思議に思っていたことを、聞いた。
「どうして急に、ハルに告白しようだなんて思ったの?」
苑子の、透き通るようなきめの細かい肌が、青を反射している。うつくしく、反射している。焦っちゃったんだ、と、苑子は言った。
「このままじゃ、だれかにとられるかもって思ったら、いてもたってもいられなくなった」
「だれが取るの、あんなの。そんな物好き、苑子ぐらいじゃない?」
「……そうかな。ほんとにそう思う?」
苑子の声はかぼそくて、消え入りそうだった。粒の大きな雨は次第に勢いを増してきて、これ以上ひどくならないうちにと、ふたりで身を寄せあって、早足で家路を行く。苑子の華奢なからだが触れる。熱を持っていた。苑子の中にある、固い固い石のようなもの、芯、が。燃えている。
団地のあじさいが咲き始めている。青みがかった紫のグラデーションが、雨のしずくをまとって艶めいている。
苑子は、E棟までついてきてくれた。雨のせいで空気が冷えて、制服も濡れたせいか、なんだか肌寒い。
互いに「ばいばい」を交わしたあと。去ろうとしていた苑子が、ふいに、振り返った。
「あのね果歩ちゃん。私、本気だから。本当に、手紙、ハルくんに渡すから。止めるなら今だからね?」
「何言って……」
戸惑う私に、苑子は、ふふっ、と。ほほ笑んだ。艶やかな黒髪は雨でしっとり濡れて、白い頬には赤みが差していて。あまりにも完璧にうつくしくて、まるで天使か、妖精か、あるいは、女神か。大袈裟じゃなく、私はその一瞬、本気でそう感じていた。
苑子は、どんどん綺麗になっていく。