5
畳の匂いを吸い込み、ハジメは大きく咳き込んだ。ぼんやりと薄眼で天井や煙草盆を見つめる。
目覚めたのは昨日と同じ、小さな長屋の一室だった。
「起きたか」
ハジメの顔を覗き込むように、笠の縁が視界を覆う。紫煙が漂ってきて、再びハジメは咳き込んだ。
「十時になったら出かけるから、家にいるなり外に出るなり好きにしろ。ただ、地上には出るな」
「はい」
「あと、戸締りもするんじゃないぞ」
そう言って、編笠の男は床を軋ませながら立ち上がった。それまでハジメが教わってきたこととはまるで正反対の言いつけを、ぼんやりと復唱する。
「とじまりはしない……」
「盗まれて困るもんも無いからな」
妙に納得できる発言だった。
男は三和土の草履を突っかける。戸口に手をかけ、思い出したようにハジメを招いた。
「便所の場所、わからないだろ」
そう言われて、部屋を見渡す。確かにトイレや風呂に繋がっていそうなドアはどこにもない。
外に出て行く男を追い、ハジメもスニーカーを履く。
長屋から出て二つ目の細い筋道に、男は入っていく。
「ここだ」
目隠しのように折り曲がった路地の先に、扉が四つと洗面台が並んだ空間があった。
ハジメはしばらく辺りを見回す。
無数の落書きに貼り紙、何とも言えない臭い。近くの扉をそっと押してみると、隙間から和式の便器が見えた。
一番奥の扉は先客がいるようで、ドアノブの窓から施錠の赤い印が覗いていた。
「この区域の共用だ。これで便所は大丈夫だな」
男はそう言って、二番目の扉を軽く足で押す。
清掃の人とかいるのかな。
そこが気になったが、周囲を見る限りそういった決まりや仕事は無いようだ。
特にハジメは用もないので、先に戻ることにした。
元来た道を通って先に長屋に戻ったハジメは、宝物のカメラを手に取る。
お母さんに乱暴に扱われたせいか、少し塗装が剥げている。けれどもそれ以外は変わりない。
レンズやダイヤルをくるくると回してみる。ファインダーを覗き込むと、縦長の枠が写り込んでいた。ファインダー越しの長屋は、肉眼で見るよりもずっとごちゃごちゃとしていた。
煙草盆を見つけて、思いつきでシャッターを押してみる。
ぱちっと小気味好い音が響いた。
お父さんがやっていたように、ノブに指を引っ掛けて手前に引く。いつもと違う手応えを感じて、ハジメは首をかしげる。
「何してんだ」
野太い声にすくみ上がり、反射的にカメラを隠す。いつのまにか帰ってきていた男はそんなハジメの様子を見てため息をつく。
「別にいらん」
そう言い捨てて、煙草盆の前にどかりと座り込んだ。着流しの帯に手を差し入れ、小物入れを取り出す。
「これ」
小物入れから抜いた四つ折りの紙幣をハジメの目の前でちらつかせる。久しぶりに見た紙幣に、ハジメは目を丸くする。
「お金……」
「一万円だ。これでしばらく暮らせ」
失くすんじゃないぞ、と釘を刺される。ハジメは紙幣をおずおずと受け取り、頭を下げる。
「ありがとうございます」
礼を言うハジメから早々に興味を失ったように、男は横になる。
十時に出るのに二度寝するのか。ハジメは疑問に思うが、次の瞬間に別の謎にすり替わる。
そういえば、この部屋には時計も無い。どうやって時間を把握しているのだろうか。
しばらく男は万年床の上で寝転がっていた。寝息を立てている様子もなく、そんな男を観察するようにハジメは隅で縮こまっていた。
不意に、男がはね起きる。
「行ってくる」
そう言って簡単に着物の合わせ目を整えて、長屋を出て行った。
「いってらっしゃい……」
小さくハジメは見送りの言葉をかける。男の足音が遠ざかるのを聞きながら、ハジメは再びカメラをいじり始めた。
さっきの妙な手応えを思い出しながら、シャッターボタンを押す。
あれ?
レンズを覗き込む。ボタンが押せない。固まってしまった四角い金属を触る。カメラをくるくるとひっくり返して見る。何も起きない。
壊れた。
そう思いいたって、ハジメは少し泣いた。どうしよ、と自問自答する。
しばらく体育座りをして、鼻水をすする。カメラのストラップを斜めにかけて三和土に下りた。ふと思い出してポケットの中のイチマンエンを確認する。お金はあるから、多分大丈夫。
鍵を閉めないように気をつけて、長屋を出た。目指すは昨日のガラクタ屋だ。
まずは、水路の側まで行こう。昨日の道順を思い出しながら、ハジメは地下街を歩く。
何個目かの角を曲がり、見覚えのある橋がかかる水路に出る。今日は欄干の上には誰もいない。少し心細く思って、ハジメは急ぎ足で通り過ぎる。
ぽちゃん、と水音が響いた。
水面を覗き込むと、潜水ヘルメットがぷかりと浮かび上がって、遮光ガラスにハジメの姿を映した。
「あ……こんにちは」
昨日会った、潜水服のひとだ。頭を下げると、向こうも礼をするようにヘルメットを傾けた。
「きのうは、ありがとうございます」
潜水服は何も言わない。ただぷかぷかと頭を出して浮かんでいる。
水路は意外に深いようだ。
「これからガラクタやさんにいくんです」
「……」
濁った水底から右手が出た。見送るように手を振る潜水服に手を振り返して、ハジメは先を急いだ。
無事に昨日と同じ大通りに辿り着き、お箸を持つ手の方へ曲がる。やっぱり電飾が点いたままの店を遠目に見つけて、無事に目的地に到着できたことに安堵する。
開いたままの扉から中を覗くと、今日は小上がりに店員がいた。はんだごてを使っている店員に声をかける。
「こんにちは……」
「はーい、いらっしゃいませ」
ハジメに気付くと、店員はにっこりと笑った。手招かれて、ハジメは小上がりの縁に腰掛ける。
「また会ったね。今日はどうしたの?ジュース飲む?」
ハジメの返事を待たずに、店員は冷蔵庫を開けて紙パックを取り出した。今日は野菜ジュースだった。
「はい」
「ありがとうございます」
少しジュースを啜って、要件について話す。
「あの、えっと」
「ん?」
「カメラが、こわれたみたい」
「えっ!」
ハジメ本人よりもよっぽどショックを受けたように、店員は口元を両手で覆った。
「カメラ、見せてもらってもいい?」
「うん」
ストラップをくぐり、カメラを渡す。そっと包むように店員は受け取り、ハジメがいつもそうするように全体を丹念に見回した。
「なおるかな」
一層不安になって、ハジメはくぐもった声を漏らす。店員は一瞬ぎょっとしたような顔をして、でもすぐに笑顔を浮かべた。
「大丈夫!螺子と歯車と基盤で出来てる物なら、修理できないものは無いよ!」
頼もしい言葉にハジメはほっとする。
「なおしてくれますか?」
「もちろん!ちょっと時間かかるけど、お菓子とか食べて待っててね」
そう言って、カメラをいじりながら何処へ向けるとでもなく声を張る。
「お菓子持ってきてー」
「はーい」
以前よりは小さなボリュームで、天井からの声が返事をした。
ことことと音を立てて、店の奥から小さな機械がやってくる。
ハジメの宝物によく似た目玉の機械は、フォークリフトのように茶菓子を乗せたお盆を畳の上に置いた。
「お代わり自由だから、気軽に声をかけてね」
天井の声がそう告げると、機械は後ろ向きに動いて店の奥へ引っ込んで行った。ハジメはありがたく豆菓子を一つ頂戴する。
店員の方はというと、カメラの軍艦を引っ掻いてツマミを引き出していた。
「中のフィルムは……ハーフサイズだから24枚撮りかな?」
「ふぃるむ?」
言葉としては知っているけど、見たことはない。確かこのカメラで写真を撮るために必要な道具だったはずだ。
ハジメの様子を見て、店員は頰を掻く。
「円柱形で、こう、ちょっと巻物っぽい感じ?びゃーって」
「びゃー」
「それがこの中に入っているんだけど、全部撮り終わったから、ボタンが動かなくなったみたい」
でも、と店員は表情を曇らせる。
「……フィルムかあ。ここ最近見たことが無いな。また写真撮れるようにしたいけど」
カメラをそっと畳の上に置き、腕を組む。
壊れてる、わけではないようだ。
「取り敢えず、巻き上げは終わってるみたいだからフィルム出そうか」
ハジメの目の前で、カメラが暴かれていく。
「あっ、これスライド式だと思ってたけど、なるほどね」
「ああ……」
「大丈夫大丈夫、心配しないで。ほらこれがフィルムだよ」
転がり出てきた円筒状の物体を、店員はハジメに渡す。
……どこかで見覚えがある形だった。確か、昔お父さんに……
「お父さんに、見せてもらったことある、かも」
「お父さんいい趣味してたんだね。モノクロだよモノクロ」
興奮した店員は、機械に食い入るように語りかける。天井からは何も聞こえてこない。
「これなら、現像も出来るかも」
「げんぞう?」
「フィルムをこう、浸したりぶら下げたりして、写真が出来るんだよ」
ハジメは目を輝かせる。
「いもうとの写真も、あるかな!」
「それは出来上がってからのお楽しみだねえ」
ただ、と店員は困り顔をする。
「今すぐには渡せないなあ。明日でもいい?」
「うん」
「良かった。現像方法、昔調べたきりだからあまり覚えてなくて……」
店員は朗らかに笑う。
今までカメラごっこはたくさんしてきたけど、写真にするのは初めてだ。
「ありがとうございます」
「んふふー、こちらこそいじらせてくれてありがとー」
カメラはいつの間にか元どおりになっていた。店員がストラップを斜めにかけてくれる。
大切なことを思い出して、ハジメはポケットからイチマンエンを取り出す。
「これ、カメラなおしてくれたから……」
「え」
ハジメの手のひらに乗ったイチマンエンを凝視して、店員は黙り込む。
「……ううん、カメラと現像はサービスにしたげる」
「ほんと?」
「うん!だってこういうの好きなんだあ。だから、お金大事に使ってね」
「わかった」
ちょっと戸惑いながらも、ハジメは店員の言う通り、イチマンエンをポケットに大事に入れる。
あ、と店員が声を上げて、近くのがらくたが山積みになった段ボール箱を漁った。
「これ、あげる。お財布にしてね」
そう言って、小さながま口を差し出した。ハジメはがま口を受け取って、しげしげと眺める。
「ありがとうございます」
「んふふ、お金無くしたら大変だからね」
早速ぱちりと口を開いて、イチマンエンを詰める。何となく、安心。
「今日も一人?お父さんは?」
「お父さんは……」
どこに行ってしまったのだろう。結局、わからないままだ。
「……しらない」
「ありゃ、また迷子?」
「ううん、ちがうよ」
店員が困ったような、寂しいような顔をした。
天井から声が降る。
「いっちゃん、ショーケンさん関係だから」
「わかってるよ」
内緒話のような天井の声を聞いて、ハジメは少しもじもじする。
小上がりを降りて、ぺこりと頭を下げる。
「あの、ありがとうございます。またあしたきます」
「あれっ、もうちょっとゆっくりしてもいいんだよ?」
「だいじょうぶです。その、かえらなきゃだから」
それだけ告げて、ハジメは店を出る。
大通りに出てちらりと後ろを向くと、店員が何か言いたげに、入り口まで出てハジメの背中を見送っていた。
もう一度頭を下げて、ハジメは大通りを歩く。昨日来た時とは違って、今日のハジメには周りを見る余裕がある。何もかもが地上とは違う地下の街並みを眺めながら、ハジメはあてもなく道なりに進み続ける。
ふと、香ばしい匂いがハジメの鼻孔をくすぐった。思わず辺りを見回すと、暖簾の下がった戸口が並ぶ裏通りが目に入った。
多分、飲食店だ。
きゅうと腹が鳴る。
イチマンエンはまだイチマンエンのままだ。ちょっと早いけど、お昼にするのもいいかもしれない。
裏通りに入ってすぐ、一際強い香りが漂う店を覗き込む。背の高い椅子が並ぶカウンターには誰もいない。それどころか、店の人も見当たらない。
開いてるかな。
ハジメは敷居を越えてみる。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうから、声が響く。
「食券を買ってください」
「しょ……?」
「食券を買ってください」
もう一度、声は繰り返す。ハジメは辺りを見回す。店の中には席の他に、ボタンが並んだ四角い機械が一つある。おそらく自動販売機のようにお金を入れて使うのだろう。
だが、ボタンを押すにはハジメの背は低すぎた。
背伸びをしても届きそうにない。ハジメはしょんぼりとして、店を後にしようとする。
「あの……ごめんなさい」
「食券を買ってください」
なんだか申し訳ない気分でいっぱいになる。おずおずと後ずさって、
「あれっ、ハジメちゃんだー!」
聞き覚えのある声が、ハジメを呼んだ。振り向くと、大通りで真っ黒な唇の少女が手を振っている。
蕎麦屋で出会った女学生だ。
「今日はショーケンさんいないの?」
「うん」
「そうなんだ。あ、もしかしてお昼食べるの?私も一緒にいい?」
きらきらした爪で、自分の頰を指差してにっこりと笑う。渡りに船だ。
「い、いっしょにごはんたべよ」
「やったー」
販売機の前に立ち、少女は小銭を何個か投入してボタンを押す。その後ハジメの目線に合わせるようにしゃがみ込む。
「そういえばハジメちゃんには届かないね……代わりに食券買おうか?」
少女の申し出に、ハジメは首を何度も縦に振る。
「おねがいします」
「いいよー。お金はある?」
「あるよ。だいじょうぶ」
「お、良かった良かった。小銭?お札?」
「おさつ」
がま口からイチマンエンを取り出す。おー、と少女は感心したように声を漏らす。
「ショーケンさん結構太っ腹だね」
ハジメからイチマンエンを受け取り、販売機に飲み込ませる。ボタンが点灯する。
「ここ洋食屋だから、カレーとかオムライスがあるよ。ハジメちゃん、何が好き?」
その言葉を聞いて、ハジメは嬉しくなる。
「……カレー!」
「カレーね。甘口がいい?」
「うん」
少女がボタンを押すと、紙切れと小銭、紙幣が次々と出てきた。がま口にお金を詰め、紙切れを眺める。
「食券だよ。まずお会計をして、それから食券をお店の人に渡すの」
「へえ」
「これお願いしまーす」
カウンターに食券を二枚置く。
駆動音がして、にゅっと現れたマニピュレーターが器用に食券を取った。
「ハジメちゃん、カウンターでいい?」
「うん」
一番隅の席にハジメが座り、その隣に少女が腰掛ける。
カウンターの向こうの厨房では、工業用のマニピュレーターがコップに水を注いでいた。
「はい」
「ありがとうございます」
コップの水を受け取る。冷たくて、少しレモンの匂いがした。
「ショーケンさんは優しい?」
続いて差し出された温かいタオルで手をぬぐいながら、少女はハジメに聞く。ハジメは少し悩む。
「……わかんない」
「意地悪なこととか、言わない?」
「うーん……」
少し語気は荒いけど、無意味にハジメを無視したり、突然殴りかかってきたりはしない。だからきっと、意地悪な人ではないのだ。
「なんかあったら、オヤジの所に駆け込むんだよ」
「オヤジ?」
「地上口にいる警備員。そこに行けば、ここにいるシンレイも手が出せないからさ」
ハジメは少女の言葉をしっかりと覚えておく。何かあった時に逃げ込める場所は大事だ。
しばらく話をしている間に、ハジメと少女の前には皿が並んでいた。匙を取り、久しぶりに見たカレーをしげしげと眺める。隣にはオムライスが並んでいて、それも黄色い薄焼き卵と赤いソースが魅力的だった。
「いっただっきまーす」
「いただきます」
ぱん、と手を打ち合わせて食前の挨拶をする少女に習って、ハジメも手を合わせる。
お米とルー、福神漬けを少しずつ匙に乗せて、一口。
「……」
そのまま二口目、三口目と匙を運ぶ。
「ハジメちゃんよく食べるねー」
少女の言葉に答える余裕もないほど、ハジメは猛然とカレーを食べる。甘口でどこか懐かしい味だ。昔、家族で食べた気がする。
脳裏をよぎったのは妹の寝顔だった。妹はカレーの味も知らずに、どこかに行ってしまった。
急に寂しさに飲まれる。
いつのまにか皿は空になっていて、ハジメはちり紙で口を拭きながらほんの少し涙をこぼした。
「ハジメちゃん、いいのあげる」
ハジメが鼻をすすっている様子を見ていた少女が、完食後のオムライスの皿と入れ替えるようにマニピュレーターが置いた皿を差し出した。
カラメルがたっぷりかかった、黄色いプリンだ。
「ぷいん……」
「これ食べてさ、元気出して」
ありがとう、と鼻声で礼を言う。小さな匙でプリンをすくうと、確かな手応えと共にぷるんと震えた。
一口頬張る。ほろ苦いカラメルと卵の味がしっかりとする、固めのプリンだった。
匙でプリンをすくうたびに、ハジメの中の寂しさや不安が、満腹感に置き換わって行った。




