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今日の給食は、バターロールとポークビーンズだった。
三日ぶりのパンを半分に割って、周囲の目を盗んで片方をランドセルに放り込む。幸い、給食を残さず食べることに必死になっているクラスメートは、ハジメの挙動なんて一切気にかけていないようだった。残りのパンに齧り付く。スポンジのようなそれに奪われた口中の水分を補給すべく、牛乳を飲み、甘酸っぱい豆の煮物を掻き込む。側から見れば、異様にも思える食べっぷりだった。無理もない。給食は、ハジメが一日のうちでまともに食べることができる唯一の時間だった。
「マツマルさん、今日もたくさん食べるのね」
ポークビーンズをお代わりするべく給食台に寄ったハジメに、担任のシズカ先生がそう言った。
「…お母さんに、お手紙渡した?」
昨日、シズカ先生から手渡された手紙の事だ。校長先生と、キョーイクイインカイからの手紙。今もランドセルに入れたままだ。
「よんでくれなかった」
ハジメは答えた。そもそも渡してすらいないけど、渡したとして母さんが手紙に目を通すとは思えない。
「そう…」
それきり、シズカ先生は何も言わなかった。難しい顔をして、コーンサラダを口に運んでいる。
ポークビーンズを皿に盛って、席に戻る。そして、脇目も振らず食べる。ハジメの隣に座るクラスメートが、少し机を離した。最初は目ざとく机の隙間を見つけてクラスメートを叱っていたシズカ先生も、最近は何も言わなくなっていた。
ハジメが家に帰ると、いつも通り母さんは廊下の突き当たりの部屋に篭っていて、妹は泣き喚いていた。
母さんの寝室のドアを少しだけ開けて、ただいま、と囁く。反応はない。ドアに向かって目覚まし時計が飛んでくることもあるので、少しホッとしてハジメはドアを静かに閉める。
リビングのベビーベッドでは、妹が顔を真っ赤にして泣き声をあげていた。妹を抱き上げて、優しく背中をさする。けほけほと咳をして、妹は静かになった。
ベビーベッドに妹を下ろして、紙おむつを替える。半日分の汚れが染みたオムツを見て、ハジメは母さんが今日も妹を構わなかった事を悟った。学校からの帰りに駅前で貰ったポケットティッシュで、かぶれて真っ赤になったお尻を拭う。オムツを替えてすっきりしたのか、手足をばたつかせてご機嫌な様子の妹を再び抱き上げて、食卓のベビーチェアに腰掛けさせる。
ハジメはランドセルから、給食のパンを取り出した。中の白くてふわふわとした部分を千切り、小皿に入れる。それに怖くて賞味期限を見ていない粉ミルクをかけて、ポットのお湯でふやかす。びしゃびしゃのパンをスプーンですくって、妹の口の前に持っていった。
「まんまだよ」
大きな口を開けて、妹はパンを食べる。少しもぐもぐと口を動かした後、催促するようにまた口を開く。パンをあげる。それを数回繰り返して、小皿は空になった。
妹がパンを飲み込んだのを見計らい、抱き上げる。ゲップを促すために背中をさすると、妹が小さく唸る。最近、おしゃべりをするようになってきたのだ。
「ぶー」
「ぶー、ね。後でもってくるからね」
ゲップを出して、今度は水を催促する妹をベビーベッドに寝かせる。哺乳瓶に水を入れて渡すと、上手に妹は飲んだ。
ハジメはソファの下から、隠していたカメラを取り出した。黒と銀のずっしりと重たい、飾り文字が素敵なカメラ。今は居ない父さんから貰った、ハジメの宝物だ。フィルムカメラといって、もうずっと昔に写真を撮ることが出来なくなったカメラらしい。でも素敵な外見だし、ぱちりと音を出すので妹のご機嫌を取るのにも使える。昔父さんがやってくれたように、ファインダーを覗いてシャッターボタンを押す。
ぱちり。
妹が手足をばたつかせる。たぶん、今のはベストショットだった。ひゃあ、と小さく声を上げる妹に、ダイヤルを巻き上げてもう一度カメラを向ける。
頭に鈍い痛みが走り、視界がぐらつく。
「うるさい」
前髪を鷲掴みにされてがくがくとゆさぶられる。いつの間に寝室から出てきたのか、ひび割れた唇から唾を飛ばしながら母さんは喚きだす。
「静かにしてって、何度も言ってるでしょ。ご近所さんに迷惑なの。わかるでしょ、うるさいの」
視界の隅から張り手が飛んでくる。カッと頬が熱くなり、ハジメは床にうずくまる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
カメラを抱えて謝る。こうやってうずくまっていれば、どこを蹴られたり叩かれたりしても大怪我をする事はない。目を瞑り無心で呟く。ごめんなさい、ごめんなさい…。
「あなたもうるさいの。泣き止んで。黙りなさいってば」
ハジメに空のティッシュ箱を投げつけたところで母さんの怒りの矛先は妹に向いた。火がついたように泣き出した妹を乱暴に抱き上げ、揺さぶる。
「かあさん、やめて」
母さんの腕にすがりつく。赤ん坊は首がしっかりしていないから乱暴に揺すってはいけないと、言っていたのは他でもない母さんなのに。
「泣いてるよ。ひどいことしないで」
しゃくりあげながら何とかそう言うと、母さんはハッとしたような顔をした。次第にその顔がくしゃりと歪んで、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「……ごめんね、ごめんねハジメ……」
母さんは妹を胸元に抱き寄せて、優しく背中をさする。少し窮屈そうに妹は身じろぎして、すぐに大人しくなる。しばらくの間、母さんは以前のように妹を抱きしめていた。
「ぶってごめんね。痛くしてごめんね。もうしない。絶対にもうしないから」
寝息を立てる妹をベビーベッドに寝かせた後、今度はハジメが母さんに抱きしめられる。父さんがいた頃と変わらない温もりだった。こうやって一頻り喚いて暴れて、我に帰るとハジメと妹を抱きしめてくれる。いつもの事だ。いつも同じ、繰り返しだ。また明日か明後日も、ハジメを殴って妹を叩いて、抱きしめるのだろう。
父さんが居なくなって、母さんは少しおかしくなってしまった。以前は飲まなかったお酒を飲むようになって、家事をすることもなくなった。部屋に篭ってばかりでハジメや妹の世話もしなくなった。時々出てきてはこうやって怒り狂って突然優しくなる。まるで天災だ。今やハジメにとって、母さんは恐怖の対象でしかない。
「ごめんなさい」
母さんのすすり泣きを聞きながら、ハジメは謝る。半ば口癖になってしまったその言葉は、まるで感情が込められていない空虚な響きだった。
しばらくハジメを抱きしめて、その額に唇を落として母さんは部屋に戻った。
「もう寝る時間だよ」
そんな言葉を残して、ドアが閉まる音が響く。まだ夕方だ。だけど、カーテンを閉め切った部屋では正確な時間がわからないのかもしれない。また母さんの気が変わってはいけないから、ハジメは寝ることにする。
冷たい水しか出ない風呂に入って、長い間洗濯をしていない寝間着に着替える。押入れから皺だらけの布団を引っ張り出して、リビングのソファに放り投げる。以前は自分の部屋のベッドで寝ていたけど、最近は妹の様子を見ることができるリビングで寝ている。一通り就寝の準備を整えて、ハジメはベビーベッドの妹を覗き込む。まだまだ遊び足りない様子の妹は、指をしゃぶって足をもじもじと動かしている。
「おやすみ」
少し甘い匂いのする妹の額に、ハジメは口付けをする。きゃっ、と妹が声を上げて笑った。つられてハジメもちょっと口角を上げた。
次の日は、月に一度の特別なテストの日だった。一人一人別室でセイフからやって来る偉い人とお話しをしたり、無数の文字が書かれた紙の上で円盤を動かしたりする。国語や算数のテストと違って、このテストは点数をつけられたりはしない。けど、ハジメやクラスのみんなの将来を決めるために必要なテストらしい。
ハジメはこのテストが苦手だ。偉い人とお話しをすると決まって頬や足の痣について聞かれるし、どんなに念じたっておはじきは勝手に動かない。これまで何度も再試というのを受けている。その度に母さんが学校に呼ばれて、深刻そうな話を先生とするのだ。もっとも、ここ一年は母さんは家に篭っていて、呼ばれても学校には来ないのだけれど。
今日も偉い人とシズカ先生の二人がかりで、ハジメの腫れた左頬について糾弾された。こんな時大切なことは、発言をころころと変えないことだ。転んだと言い張ればいつかは信じてくれる。今まで一度もハジメは「母さんにされた」と言ったことはない。たぶん、本当のことを言ったら母さんも居なくなってしまうからだ。父さんだけじゃなく母さんまで居なくなったら、妹が可哀想だ。
何とか今日も二人に、ハジメの怪我が学校帰りに転んで出来た怪我だということを信じ込ませることができた。足元に気をつけるんだよ、とセイフからやって来たスーツ姿のおじさんに注意される。
「それと、君は感応テストが…あまり芳しくないね。うんと強く念じてるかな?」
机を挟んで座るおじさんは手にしたタブレットについついと指を滑らせる。おはじきを動かすテストの事だ。カンバシクナイという言葉は確か、良くないという意味だったはずだ。ハジメは押し黙る。
「今日はちょっと違う形式のテストをしてみようか。ミネ先生、少し席を…」
「はい」
ハジメの隣に腰掛けていたシズカ先生が立ち上がる。そっと肩に手を置き、シズカ先生は微笑む。
「マツマルさん、先生ちょっと外に出るけど、監察官さんの言うことに従ってね」
「はい、わかりました」
何だか心配そうな先生の目を見て、ハジメは答える。何故かより一層心配そうな顔をしてシズカ先生は部屋から出て行った。
「それじゃあ始めようか。マツマルさん、何か気分が悪いとか、何処かが痛んだりしたらすぐに言うんだよ」
不思議なことを言って、おじさんは足下のアタッシュケースを机の上に置いた。おじさんは震える指でパチリと金具を跳ね上げてケースを開く。ハジメにあんな事を言っていた割には、おじさんの方が調子が悪そうだ。額には脂汗が浮いているし、何処となく目の焦点も定まっていない。
「…これ、何だかわかるかい」
おじさんはアタッシュケースの中身をハジメに見せる。でこぼこのスポンジの上に、ちょこんと黒い鳥の羽根が置かれている。羽根です、とハジメは答えた。
「黒い羽根です」
「うん、そうだね。じゃあこれをちょっと摘んでくれないかな」
「つまむ?」
「うん。僕によく見えるように持ち上げて見せてくれ。ああ、あんまり近づけなくて」
「はい」
ハジメが羽根をおじさんの目の前に翳して見せると、おじさんは喉が潰れたような叫び声をあげた。思わず羽根を取り落とし、ハジメはおじさんに駆け寄る。
「大丈夫ですか」
「だ、だいじょうぶ、大丈夫。羽根をカバンに戻して、閉めてくれないかな」
唇の端を泡立たせながらおじさんは笑う。尋常じゃない様子にハジメは少し薄気味悪さを感じながら、取り落とした羽根を拾い上げる。
「…ありがとう。気持ち悪くなったりはしなかったかな」
「えっと、大丈夫です」
そう答えた後で、ハジメはこれが感応テストだった事を思い出した。もしかしたら、気持ち悪くなったり何処かが痛むと答えるのが「正解」なのかもしれない。ハジメよりも優秀な政府の偉い人がこんなに具合を悪くしているのだから。
「…あ、その、やっぱり…」
「え?」
「…なんでもないです」
答えを言い直そうとして、ハジメはやめた。
鍵を閉めたアタッシュケースを渡すと、おじさんはテスト終了の旨をハジメに伝えた。いつもは終了後結果が告げられるのだが、今日はすぐに退出するように告げられた。おじさんに礼を言って部屋を出ると、シズカ先生が真っ青な顔をして隣の部屋から出てきた。ずっとそこで待っていたようだ。
「終わった?」
「うん」
「大丈夫だったの?」
「…」
ちょっと答えかねていると、シズカ先生が優しく肩を抱いた。
「保健室で横になる?」
「だ、大丈夫」
「そう…」
ハジメは仮病を使ったような申し訳のない気分になる。誤解しているのか、無理しなくてもいいのよ、と囁くシズカ先生から離れる。
「教室もどるね」
「ホントに大丈夫?」
「うん。次の人、呼んでくる」
心配気に眉をひそめている先生を後に、教室に向かう。だからテストは嫌いだ。母さんにもシズカ先生にも心配をかけさせるから。
今日の給食は焼きそばだった。麺類は流石にランドセルに放り込めない。よって、今日は夕飯なし。
とぼとぼとハジメは家に帰る。時々菓子パンの袋が寝室の前に捨てられているから、母さんは食事をきちんと摂っているのだろう。でもハジメは一日に一食しかまともに食べてないし、妹にも朝夕二回しかミルクや離乳食もどきを与えることができない。時々ハジメも粉ミルクを舐めようかと考えるが、妹のご飯を横取りしているようで気がひける。我慢の限界という時は母さんに食事を買う金を頼むのだが、その度に母さんは癇癪を起こすので出来れば今の怪我が治ってから頼みたい。
家への近道の、バリケードが積み重なった旧道の駅前を通りがかると、ニンニクと脂の良い匂いが漂ってきた。ぎゅうとお腹が情けない音を立てる。今日の給食は、口の中が切れていたせいで沢山食べることが出来なかった。明日まで持つか怪しい。足早に通り過ぎようとして、我慢できずにちらりと匂いの出どころを一瞥する。匂いは地下に通じる通用口から漂って来ているようだ。地下には契約を交わしていない神霊や人々が住んでいて、小さな街の様になっていると聞いた。そんな地下街にある店から発する匂いだろう。
匂いと思いを振り切り、走る。
俯いていた顔を上げると、丁度マンションの前だった。ランドセルからカードキーを取り出し、エントランスを開ける。エレベーターの三階のボタンを押して、まだじんじんと熱を持つ頬を撫でながら上階に着くのを待つ。
音もなくドアが開き、静かな廊下を歩く。家のドアの前に立って、そこでようやくハジメは恐ろしい事に気付いた。
妹の泣き声が聞こえない。
いつもなら、ハジメが帰ってくる頃にはお腹を空かせて泣いている。それなのに今日は、階中に響くようなあの声が全く聞こえてこないのだ。
鍵を開けて、靴も脱がずに部屋に入る。今朝学校に行く前よりも荒れているリビングの真ん中で、ベビーベッドが無惨な姿に変わり果てていた。まるで大きな拳で叩き潰したように、バラバラに大破してしまっている。
ハジメは涙を零しながら、木材を退けてマットを捲る。妹の姿はどこにも無い。代わりに、ソファの下に隠していたはずのカメラがタオルに包まれて見つかった。
どうしてここに…。
カメラを抱えて首をかしげる。途端、ハジメの体が吹っ飛んだ。
「なんで、靴のまま部屋に上がってるの」
ぐいと服の襟を掴まれて、無理やり上体を起こされる。腫れた頬に再び重い一撃を受けて、ハジメは耐えられなくなって嗚咽を漏らした。
「泣くぐらいなら、なんでこんなことするの」
「ごめっ、ごめんなざ」
「あんたも泣けば済むと思ってるんでしょ。そうなんだろ」
いつもの平手ではなく、握りこぶしが飛んでくる。咄嗟にハジメはカメラを取り落として両手で顔を庇った。生気の無い目で、母さんは床に転がったカメラを見つめる。その顔が歪んで、ハジメが取り返す間もなくカメラを掴み、振り上げた。
「いつまでもいつまでも、こんなもの大切にして!」
鈍い音がハジメのこめかみで響いた。遠いところで自分によく似た声の誰かが叫んでいる。助けて、と初めて口に出そうとして、再び降ってきた衝撃に舌を噛む。
「捨てられた私への当てつけなの………」
母さんのヒステリックな叫び声が突如途切れた。ごとりとカメラが血だまりに転がり、ハジメは這いつくばりながら母さんの顔を見上げる。
母さんの顔が、無くなっていた。
正確には、何か肉塊のようなものに埋もれていた。赤ん坊の肌のように柔らかな質感の肉塊が母さんを背後から抱きしめ、包み込んでいる。
くしゃり、と卵が潰れるような音が微かに聞こえた。母さんの足がガクガクと震え、不意に力を失ったように膝を折った。
「うぅ」
その肉塊は巨大な芋虫のような姿をしていた。肌色でイボのような足が何本も生えている。頭部にはフリルのような飾りが付いていて、それがボンネットを被っているようにも見える。皺を寄せたような口は咀嚼するように蠢き、そこから滴り落ちた赤黒い吐瀉物が蹲るハジメの頭と服を汚した。
「まんま」
異形が確かに、そう呟いた。
血と毛髪と肉片に塗れて、ハジメは声も出せずにいた。
異形のイボが蠢き、座り込むハジメに巨体が覆い被さる。
食べられる。
そう思った瞬間、ハジメの身体が動いた。血に濡れたカメラを掴み、這うようにして異形から離れる。立ち上がり、つんのめり、よろめきながら自室に逃げ込む。
どうしよう。
煮え立つ頭で必死に考える。あの化け物は?母さんは?妹は?これから自分はどうなる?
みしり、と床が軋む。
逃げる。逃げるんだ。
窓を開けてベランダに出る。非常時に使う、隣室のベランダに通じる薄い扉に体当たりする。
何度も。
何度も。
「開かないよ」
無意識に転がり出た言葉に、ハジメは半狂乱になる。とにかく隣に行けば、ご近所さんが異変に気付いてくれるはずだ。そう信じて、植木鉢をひっくり返し手すりによじ登る。
足下から風が吹き上がる。下を向かないように、隣室だけを見つめてハジメはベランダの縁をゆっくりと歩く。
もう少しで隣に、
「まんま」
半開きの窓をこじ開けて、化け物がべたりとベランダに倒れ伏した。
小さくハジメは叫び声をあげる。
その瞬間、足場が無くなった。
息を飲む暇もなく、わけもわからないまま、ハジメは落ちていく。先程までハジメがいた所から、異形が身を乗り出して不思議そうにこちらを見下ろしていた。
その姿が段々遠ざかって行き、ついには真っ暗になってしまった。
地上。
黄昏。
旧西口。
摩天楼。
狐。
寝台。
芋虫。
死体。
写真機。
ソレは昏い微睡みから醒め、突っかけていた薄い掛け布団を跳ね飛ばした。無雑作に転がしていた羅針盤、六分儀、星時計……用途も忘れられつつあるガラクタを掻き集め、それらが指し示すものの意味を読み解く。
暫く睨み合いを続け、一つの手掛かりを得た後、ソレは編笠を身につけて長屋を出た。
まず向かったのは、地下に網の目のように張り巡らされた水路の合流点、そこに辻のように架けられた橋だった。その真ん中で、欄干に腰掛け半纏に顔を埋める人影にソレは声をかけた。
「おい、起きてるか」
静謐ののちに、何とも間延びした応えが返ってきた。
「なーに」
「お前、第八公営住宅って知ってるか」
「んー?西口から出てね、左手の方にひょこっと大きい建物が頭出してるのわかる?そこだよ」
「西口な」
「上行くの?珍しい」
人影は俯いていた顔を上げる。フードの中にあったのは、鳥威しだった。
「もしかしてさ、面白い事起きるの」
「いーや、まったく面白くない」
ソレは懐から煙草を取り出して、息を吹きかける。仄かな青い光が灯り、即座に紫煙と化した。
「喚んだら来いよ」
「うん」
再び半纏に顔を埋める人影に背を向け、橋を渡る。笠の下に煙草の煙を充満させる。そうでもしないと、これから行く場所には耐えられない。
地下と地上を繋ぐいくつもの隠し通路、そのうちの一つから地上に出る。かつては駅として用いられ、現在は封鎖されている階段のバリケードを乗り越える。
久方ぶりの地上だった。くすんだ空を見上げると、ぼやけた昼の月が浮かんでいた。
笠の下から周囲を見回す。
旧西口。
摩天楼。
ここまでは観た通りだ。ならば次は……。
周囲にはこちらの動きを注視するような気配が満ちている。ソレは公営住宅へ向かって走り出した。
お待ちを。
何者かに呼び止められ、ソレは振り向く。糸目に油で撫で付けた髪、背広姿のまったく同じ姿形の男が三人、立っていた。
小綺麗な格好だが、辺りには獣臭が漂っている。
「なんだ、狐か」
つまらなさそうにソレは吐き捨てる。
「加勢しにきたのか?」
「はて、何の事やら」
男はにんまりと笑う。
「地上にも、予見や予言が出来る奴はいるだろ。何かが起こりかねないのは知っているはずだ」
「そのうちの一柱の命で、我々はここに来たのです」
編笠の男を地下に追い返せと。
三人の男はソレを取り囲むように、立ち位置を変える。その様子をソレは静観する。
「……狐の癖に犬の真似事か?」
ソレは笠の下から嘲笑と紫煙を漏らす。
「三べん回って吠えてみろ」
「そのような口を利いていいのですか?」
糸目は挑発も物ともせず言ってのける。
「あなたの霊格、神格は存じませぬが……我々は政府の代理なのですよ」「地上の事に地下が口を出すのもお門違いというもの」
「はぐれの心霊はお引き取りを」
畳み掛けるような糸目たちの言葉に、ソレの目はだんだんと座っていく。
「地上も地下も、人も霊も、無事では済まないぞ」
「ご安心を。我々稲荷神の神格は随一。並大抵の事には動じませぬ。地上の人も霊も守って見せましょう」
ソレは舌打ちをした。
「神の名を騙る畜生どもが」
糸目が開き、瞳が細まる。
獣臭が濃くなった。
人のものとは思えない叫び声をあげて、男たちはソレに飛びかかる。爪の一閃が、ソレの胴を薙いだ。
紫煙が吹き出て、ソレは半紙の人形と化した。
「偽物だ」
地に落ちた人形を拾い上げ、男たちは周囲を見渡す。男の一人が腹いせのように人形に小火を点した。
「探せ」
狐どもの様子を観ながら、ソレは公営住宅の前に立つ。奴等に追いつかれる前に、来たる元凶を排除しなければならない。聳え立つ公営住宅を見上げる。
目印は写真機だ。
それが落ちてきた時、元凶は現れる。
笠のつばを持ち、薄暗い空を見つめる。
公営住宅の三階、その一室のベランダに一人の少女が出て来た。貧相な姿の少女は柵をよじ上り、隣の部屋に移ろうと伝い渡る。右手に何かを抱えているのか、今にもバランスを崩しそうだ。
こんな光景は、観ていない。
そして時は来た。
少女が足を滑らせ、落ちてくる。その手には確かに写真機があった。




