9.
不意にノックの音がしてドアが開いた。
「マイア、ここにいたのか」
モーリスだった。わたしの姿をみとめきちんと礼をする。それからクロエをみて目元をわずかに赤くし、きまずそうに目を逸らした。どうやら彼はこの夕日色の髪の美少女にご執心らしい。
わたしはもう一度モーリスをみた。短く切りそろえた焦茶の髪に日に焼けた精悍な顔立ち、ちゃんと鍛錬しているらしくしっかりと筋肉がついている。むやみに笑わないし口数も多くないが、スイッチが入ると饒舌になるのだろう、先程の海運の話はなかなかおもしろかった。へらへら笑ってばかりのエドゥアールよりよほど好感度が高い。
クロエも視線に気づいたのか、モーリスをみてかわいらしく首を傾げた。モーリスはますます赤くなったが、背筋を正してどうにか威厳を保とうとした。
「もう寝る時間だぞ、マイア。こんな遅くまでヴィクトワールさまを付き合わせるんじゃない」
「わたくしが付き合っていただいたのですわ。でも、そうですね。そろそろいい時間です。お知らせいただいてありがとうございます」
わたしにならってクロエも頭を下げた。上目遣いにみあげられ、モーリスは横を向いて咳払いした。やっぱりこの人はおもしろい。
わたしはセヴランを連れて娯楽室を出た。マイアはまだ起きていられると文句を言ったが、結局モーリスに連れられて部屋に戻ることになった。
わたしたちが部屋を出るとき、クロエがピアノの楽譜と紙に書いた鍵盤を広げているのがみえた。寄る辺ないというか、やるせないくらいにせつなくはかない目をして楽譜を指でなぞる。白く細い指先が紙でできた鍵盤をたたきはじめる。もう音を出すと迷惑になる時間だが、音を出さなくても練習はできる。音楽が好きというのはほんとうらしい。
「熱心ですね」
セヴランが吐き捨てた。
「ほんとうにピアノが好きなのね」
わたしは小さい頃から優秀な御令嬢をやっているのでそれなりに耳が肥えている。あのくらいは十分弾けるが、はじめて1か月にしてはかなりのものだった。看板娘の名は伊達ではない。しかし、セヴランが言いたかったのはそこではなかった。
「モーリスさまをみる目のことですよ。クロエさまのあれは計算だと思います」
「え、エドゥアールじゃなくてモーリスなの?」
「はじめからひとりに絞るより、保険をかけておいたほうがいいですからね。そもそも殿下はお嬢さまの婚約者ですし」
なんでもないことのように言ってのける。確かに、たまにみるパターンではあるけれど。
「ありなのそれ!?」
いや、ありかなしかで言ったらありだろうが清純派っぽいクロエの場合はなしだろう。なしであってほしい。心が汚れてしまいそうだ。
「……お嬢さま」
セヴランはわたわたするわたしを小さなこどもをみるように慈愛にあふれたまなざしでみてしみじみと言った。
「どうか、お嬢さまだけはそのままでいてください」
いったい、セヴランはなにをみてきたんだろう。