7.
晩餐の後、エドゥアールはアルフォンスを連れてさっさと消えた。
「ああ、ヴィクトワール。ぼくもかなうものならきみと過ごしたいのだけれど、秘書が仕事をしろってうるさいんだ」
「お気になさらず。殿下が頼りにされていらっしゃる証拠ですわ」
「おやすみのキスをしてくれないか、いとしい人」
冷ややかに黙殺するわたしの髪をすくいあげ、そっとくちびるを落とした。マイアがきゃあっと歓声をあげた。
政略結婚なのは周知の事実なのだから、こういう過剰なパフォーマンスは必要ないだろうに。自分とおなじ顔の人間相手にこれができるのだからやつは真性のナルシストである。
エドゥアールはむだにさわやかな笑顔とシトラスの香りを残し去って行った。
マイアが名残惜しそうに目で追うのはばっちり視界に入っていたが、夫人の前で行動に移す気概はないらしい。わたしもセヴランと部屋に戻ろうとした。しかし、夫人はエドゥアールのわたしとなかよくしてやってくれという言葉を真に受けていた。フランソワーズに誘われ、わたしとセヴランは娯楽室に行くことになった。
「こちらですわ」
「お気遣いいただき恐縮です」
「まあ、そんな。お気になさらないで。こちらこそこんな片田舎までお運びいただいて感謝の言葉もございません。父もよろこびますわ」
フランソワーズはうっすらと微笑んだ。淑女としては理想的なのだが、こういうなにを考えているのかわからない社交辞令のやりとりがわたしは苦手だった。他人のことばかり言えないけれど。たぶん、内心では病気の父親の様子をみにいきたいとか、婚約者とふたりきりで過ごしたいとか思っているのだろう。
「明日はわたくしとベルナーが領地をご案内いたします。ヴィクトワールさまは、ご趣味は」
図書館に引きこもって推理小説を読むのが趣味です。
「殿下は建築がお好きですわ」
少なくとも表向きはそういうことになっている。
「それでは教会に参りましょう。母が慈善活動に熱心で、わたくしどももよく足を運ぶのです」
娯楽室では、だれかがピアノを弾いていた。
「マイアかしら」
ドアを開けながらフランソワーズがつぶやいた。抑揚のない響きに嫌な予感がした。
夕日色の髪がゆれている。はかなく、せつなく。妖精みたいに。
クロエだった。
ドアが開いたことにも気づかず無我夢中で弾きつづけるクロエの姿にはどこか危ういうつくしさがあった。鬼気迫る、という表現すら過言ではないような。
クレッシェンド、クレッシェンド、フォルテ、フォルテ、フォルテ……。
クライマックスに近づくにつれてどんどん音が大きくなっていく。かわいらしい恋の曲のはずが叫びつづける悲恋の唄になっている。情感もなにもないめちゃくちゃな弾き方なのに、心に迫ってくるものがあった。
ダーン!!
曲が終わった。
クロエが顔を上げた。フランソワーズと目があった。ようやく他人がいることに気づいたらしい。クロエは真っ青になった。
「ごめんなさい、お姉さま。わたし、すぐに出て行きますから」
「いいの」
静かな声だった。
背中からノックの音がひびいてくる。終わるか終わらないかのうちにドアが開いた。
「おじゃまします……って、フランソワーズ? どうしたのそんなところで立ち止まって」
今度こそマイアだった。フランソワーズは小さく首をふった。
「申し訳ないけれど、わたくし、部屋に戻ることにするわ。マイア、ヴィクトワールさまをお願いできる?」
「わたしはかまわないけれど。どうしたのフランソワーズ、らしくないわ」
確かに責任感の強そうな彼女としてはらしくなかった。しかし、マイアはピアノの前で蒼白な顔をしたクロエをみただけであっさり納得したらしかった。
「わかったわ。やっぱり、あなたは伯父さまに付いていて差し上げるのがいいと思うもの」
「ありがとう。ヴィクトワールさま、申し訳ありません」
「……いえ。こちらこそありがとうございました」
釈然としないものの、なにかがあることは容易に察せられ、わたしはおとなしくうなずいた。