30.
ふいにつかまれていた手を強く引かれた。
「まずい。気づかれました」
「え?」
わたしたちが張り込んでいたフランソワーズの寝室のとなり、使用人用の控え室のドアがいきおいよく開く。ここ3部屋、すなわちフランソワーズの寝室と控え室と応接室は内側でつながっているのだった。つまりドアをひとつ塞いでおいても他2つのドアから廊下に出られてしまう。
鈍い足音が遠ざかっていく。物音が聞き取りづらいとはいえわたしたちとは反対方向へ、すなわち西側に向かって走り去ったことだけはわかった。
「待ちなさい!!」
みえない背中に怒鳴ったが待てと言われて待つ空き巣はいない。
「ちょっと、待ちなさいってば!!」
「ダメです、おれが追いかけますからここにいてください」
反論しようとしたが足手まといになるのは火を見るよりも明らかだった。セヴランの足音が遠ざかっていく。暗闇のなか、あてにならない方向感覚を頼りにどうにか後を追いすがる。前方でなにかがぶつかる音がする。「わぁっ」という声から人同士がぶつかったようだった。廊下の突き当たりで追いついた。
「何事ですか!?」
左手のドアが開いてベルナー氏が部屋から出てきた。ランプの明かりに照らされて、廊下の交点にうずくまるユボー先生とすぐそばで暗器を握りしめ構えを取っているセヴランが暗闇に浮かび上がる。
「痛たたた……。悲鳴が聞こえたから部屋から出て足音がする方向へ追いかけたんです。でも、だれかにぶつかって……」
「申し訳ありません、不注意でした。先生を避けきれなかったおれが悪いんです」
セヴランが悔しそうにくちびるを噛みしめる。
ベルナー氏はランプであたりを照らした。わたしたち四人以外にはだれもいなかった。窓を一通り確かめたが開閉された形跡はなかった。犯人はどこかへ消えてしまっていた。
わたしはベルナー氏をみた。部屋着をきっちりと着込んでいて、ついさっきまで寝台に入っていたようにはみえなかった。仕事をしていたのか、あるいはだれかと会う約束でもあったのか……こんな時間に?
対するユボー先生は寝間着の上に上着を羽織っただけの軽装で、いかにも悲鳴を聞きつけて飛び出してきましたという風体だった。
数分の間に、セヴランは暗器をしまいこみさりげなくわたしを守る位置に陣取っていた。このふたり、ベルナー氏とユボー先生に害意はなさそうだったが、警戒を解くわけにはいかなかった。なにしろ犯人がいたのは昨夜殺害されたばかりのフランソワーズの部屋なのだ。
少しだけ考えて、ベルナー氏のほうをみて、わたしは言った。
「申し訳ありませんが、人を呼んできてください」
まもなくベルナー氏が執事と数人の使用人を連れてきた。使用人のひとりが夫人とモーリスを呼びに行った。騒動を聞きつけてエドゥアールとアルフォンスもやってきた。クロエもやってきた。こんな時間になにをしに出歩いていたのかと問い質してみたかったが、やめておいた。事態が混乱するだけなので。
クロエを除く全員が寝室で就寝していたと回答した。おたがいにアリバイを証明しあうことはできなかった。深夜なのだから当然といえば当然だ。アリバイがあるのはエドゥアールとアルフォンスだけだった。昨夜のできごとで殿下の安全を心配した秘書兼護衛は、殿下の部屋で寝ていたらしい。しかし秘書が殿下の秘書である以上その証言を信用していいものか、わたしは怪しんだ。
クロエは娯楽室でピアノの練習をしていたと回答した。つっこみどころ満載だったが、だれもそれ以上は追求しなかった。わたしもクロエは白だと思った。わたしという足手まといがいたとはいえ、一応はセヴランから逃げきったのだ。彼女にそこまでの身体能力があるとは考えづらかった。おなじ理由でマイアでもないと思った。もっとも、幽霊と化したマイアを疑う人間はだれもいなかったが。
廊下の端から端まで捜索したが、不審な人物はみつけられなかった。1階と3階、屋敷の外まで捜索するという案も出たが、採用されなかった。犯人を目撃したのはわたしとセヴランふたりだけで、わたしの悲鳴で飛び出してきたユボー先生もその姿をはっきりとみとめたわけではなかった。それに昨日の今日で全員が疲弊していた。不安と諦観のなか、捜索は明日の朝に持ち越して、済し崩しに各自部屋に戻ることになってしまった。
わたしたちはその決断をおおいに悔いることとなる。




